伊藤ファミリーBLOG

「緑のgoo!」のテンプレートに変えてみました!
(注:コメントスパム・TBスパムは予告なく削除させていただきます)

最近のお気に入りCD「Evergreen」by 竹下静さん

2016-10-10 19:53:37 | クリスチャン
TV番組ライフラインの先月のエンディングテーマ曲を歌っていた竹下静さんの最新CD「Evergreen〜永遠に〜」を買いました。

このアルバム、期待した以上で、かなりオススメです。ここ一週間、会社帰りにほぼ毎日聞いています。

私はあまり知らないアーティストのCDは滅多なことでは買わないのですが、テレビから流れてきた彼女の歌声にはなぜか心のアンテナがピンときて、買ってみて大正解でした。

http://holyhope.net/shiz/



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失敗から立ち直ることこそ神様の御心

2016-06-26 09:52:12 | クリスチャン
先週のミニ・コンサートで、思うように賛美できなかった失敗をしました。先週はそのことをずっと思い巡らしていましたが、今朝のTVライフラインを視聴して、この聖書の御言葉が私の心に響きました。

ルカによる福音書 22:32
「しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。

http://bible.com/81/luk.22.32.ja1955

神様の御心は、失敗から立ち直ること、そしてその失敗をも神様は尊く用いてくださることを、関根先生のお話から学ばされました。

http://www.tv-lifeline.com/

私も、先週の賛美の失敗を通して、賛美に対する心構えや、自分の思い上がり、信仰の姿勢を、改めて見つめ直すことができました。主の御心は失敗したまま終わることではなく、失敗から立ち直ること、そして、この失敗を次に生かすことができるよう、また、もしかしたらこの先出会うかもしれない失敗のために悩んでいる人のために、尊く用いていただきたいと願います。
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昨日の失敗から学んだこと

2016-06-20 20:35:36 | クリスチャン
昨日から、ミニ・コンサートで思うように賛美できなかった失敗の原因をいろいろと思い巡らしていました。まだ完全に考えがまとまったわけではないですが、学ばされたことを忘れないうちに書き残しておきたいと思います。


まず、何のために賛美を歌ったのか? 賛美は本来、神様の素晴らしさをほめたたえるための音楽です。では昨日の自分は本当に神様をほめたたえるために賛美を歌ったのだろうか? どこか雑念というか、思い違いというか、目的が違っていなかったか?

たとえば、手に入れたばかりのギターのお披露目というか、自慢したい心がなかったか? あるいは自分にはこんな賜物があるとの自己顕示欲に駆られていなかったか?


あるいは、誰のために賛美を歌ったのだろうか? 神様のため、聞く人たちのため、それとも自己満足のため?

昨日は父の日ということで、一緒に出演した子どもたちは、お父さんに喜んでもらうために一生懸命練習して演奏していました。だから、たとえ多少音を外してしまっても、お父さんにとっては何よりのプレゼントになったはずです。では私の賛美は? 父なる神様に喜んでもらいたい一心で賛美していただろうか?

あがってしまう、というのは人の目を気にしている何よりの証拠。人前で演奏するということで、神様の目よりも人の目を気にしていなかっただろうか?


それから昨日の自分の信仰の状態はどうだっただろうか? 聞く人が聞けば、賛美を聴くだけでその人の信仰状態が手に取るようにわかってしまうことを、私は知っています。昨日の私の賛美は、どのように聞こえていただろうか? 賛美を人前で歌うことで心が占有されてしまい、神様に対する感謝の心で満たされていなかったのではないか?


…などなど、賛美に対する姿勢を今一度吟味する必要があると反省させられています。
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賛美するに相応しい心を授けてください

2016-06-19 23:43:36 | クリスチャン
今日、教会でミニ・コンサートがあり、一曲賛美させていただいたのですが、久々に人前で歌うことにあがってしまい、心ここに在らずの状態で、全く賛美になっていませんでした。教会の何人かからは暖かく声を掛けていただきましたが、聞く人が聞けば、賛美の体をなしていなかったことは明らかなはず…。

以前の教会で、あることをきっかけに賛美することができなくなり、今の教会に移って、だいぶ賛美の心が回復してきたと思っていただけに、そのことがショックで、帰宅してからもずっと落ち込んでいました。神様を賛美することについて、もう一度深く考えさせられています。

主よ、このような唇の汚れた者ではありますが、再びあなたを心からの歌声をもってほめたたえることができるよう、賛美するに相応しい心を授けてください。
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私たちのルーティーン

2015-10-23 08:10:14 | クリスチャン
ラグビー・ワールドカップでの日本代表チームの活躍は目を見張るものでした。特に五郎丸選手の正確なキックは世界にも注目を与え、中でもキックの前に必ず行う「ルーティーン」の動作は誰しもが知るところとなりました。

五郎丸選手に限らず、試合前などにルーティーンを行うアスリートは数多くいるようです。彼らが大事な場面でルーティーンを行う理由は、精神統一して平常心を保ち、練習通りの理想的なフォームで体を動かせるようにするためのようです。

一見おまじないのようにも見えますが、大切なことは、いつも同じことを繰り返すことで、いつもと同じ結果を得るということではないかと思います。毎日激しい練習を積み重ね、体も技も鍛え上げた屈強な選手たちであっても、国際試合や大事な場面では、相当のプレッシャーがのしかかり、身体が縛り付けられたようになって思うように動かず、良い結果が得られないことが多々あるようです。それをはねのけるものが普段通りの動作、ルーティーンだというのです。

私たちにも日々の生活の中で大事な場面があり、あるいは重圧がのしかかるときや、絶体絶命の危機に瀕することもあります。そのようなときに普段からの積み重ね、ルーティーンがあるならば、緊張感や恐れから解放され、難なく乗り越えることができるのではないでしょうか。

スポーツでは日々の練習の積み重ねが必要なように、私たちクリスチャンにとっても普段からの霊的な生活の積み重ね、ルーティーンが大切です。それは祈りであり、御言葉に親しむことであり、礼拝であり、何よりも神様に寄り頼む信仰、救いの喜びで満たされた心です。

クリスチャンだからこうしなければならないとか、信仰深そうな態度を装うことは、自分で自分を縛り付けて心を硬くしてしまいます。キリストにある自由の中で、罪から解放された喜びに満たされた心を普段から保つこと、それが私たちのルーティーンではないかと思います。
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まったりとしてコクがあり…

2015-10-09 07:30:54 | クリスチャン
かなり古い話ですが、私がまだ20代だった頃に流行った「美味しんぼ」というグルメ漫画で主人公がよく使っていた「まったりとしてコクがあり、それでいてしつこくなく」という有名な台詞があります。

初めてこの台詞を見たとき、「まったり」って一体どんな味なんだよ?などとよく突っ込みを入れていましたが、味を言葉だけで表現するというのは実に難しいもので、今でも食通レポートは最も表現力が試されると聞きます。

もし自分が誰かにおいしいものを伝えるとしたら、「口では説明しきれないからまず食べてみて」と言いたくなるほど、味覚とは実に深いもので、決して舌だけで感じるものではなく、香りや触感、色合い、見た目など、すべてが絶妙なバランスで組み合わされていて、人の感覚をフル回転させなければすべてを感じることができないものです。

今日の御言葉を黙想する内に、神様の恵みとは実に奥深いものであるということを学ばされました。絶品の料理に舌鼓を打つときのような姿勢で神様の恵みを感じ取り、全身全霊を傾けて聖書の御言葉を深く味わいたい、そのように思わされました。
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正しい人って何だろう?

2015-10-07 07:40:50 | クリスチャン
今朝の御言葉を黙想する内に、「正しい人って何だろう?」という疑問がわいてきました。


善いことをする人が正しい人でしょうか?

その人は悪いことは一度もしていない人でしょうか?

善いことをした回数と悪いことをした回数を比較して正しい人かどうか判断するのでしょうか?

自分が正しいと思ってしたことは、他の人から見ても必ず正しいことでしょうか?

私たちは果たして正しい人なのでしょうか?


私たち人間の中には、絶対に正しい人などいないのです。なぜなら私たちは皆、罪人だからです。では今日の聖句にある正しい人とは、いったい誰のことなのでしょうか?

聖書が言う正しい人とは、義なる神様から正しいと認められた人のことです。正しいか正しくないかの判断基準は、罪人に過ぎない人間の中にではなく、絶対的な主権者、いと聖なる神様の中にあるのです。その神様から、もはやあなたの罪は認めないと、義とされた者こそが正しい人なのです。

では罪人に過ぎない私たちが神様から義と認めていただくにはどうすればよいのでしょうか? 神様は何を見て正しい人と判断されるのでしょうか?

それは、イエス・キリストの購いの十字架を信じ、自らの罪を心から悔い改め、過去の罪の生活を捨て、義なる神様を求め、聖書の御言葉を自らの基準として新しい人生を歩む人です。私たちは誰でも正しい人となるチャンスがあるのです。そしてそのような人と共に神様が歩んでくださいますから感謝です。

義なる神様から正しい人と認められ、全知全能の主が共に歩んでくださり、この小さな者の祈りをも聞き入れてくださる恵みと幸いに感謝しつつ、今日も神様と真っ直ぐな関係を保たせていただきたいと心から願います。
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主の祈りから学ぶこと

2015-09-30 07:50:49 | クリスチャン
イエス様が「私たちに祈ることを教えてください」と尋ねて来た弟子たちにお答えになった言葉が「主の祈り」です。いわば「主の祈り」はお祈りのお手本です。

その主の祈りの中に、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」という一節があります。イエス様が教えられたお祈りの最も基本的な要素の中に、世界のために祈ることが挙げられていることを忘れてはなりません。

私たちの祈りは、どうしても個人的、自分の身近な範囲に留まりやすく、信仰生活が長くなるほど、自分の教会や信仰の仲間たちとの交流関係が深くなり、視野が狭まりがちです。中には、クリスチャンは信仰の世界のことだけを思い、この世の政治活動などに手を染めるべきではないという考えを持つ人たちもいます。

しかし私たちがこの世に生きている限り、今の世界と隔絶された環境で生きてゆくことはできません。むしろ、クリスチャンは神様の栄光がこの世に現され御心に適う世界となるようにこの世に遣わされた者であって、世の喧噪と離れた山奥深くで霞を喰って生きてゆく仙人とは違うのです。

私たちクリスチャンは、世の光となってこの世に輝きを放つ者でありたいと願います。私たちが神様から授けられた福音の希望の灯火を、枡の下に置くようなことはするべきではありません。

ですから、もっとこの世のことに正しい心で関心を持ち、この世界のために祈りたいと思います。この世が神様の御心に適う世界となるように、神様を悲しませることが起こらないように、政治家や行政のためにも、国々や地域のためにも、世界の平和のためにも、真剣に祈り求めるクリスチャンでありたいと思います。
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相談相手を間違えていませんか?

2015-09-29 07:44:20 | クリスチャン
テレビのバラエティ番組などで著名人が視聴者の人生相談をするコーナーがあります。そういった番組を見る度に、どうして見ず知らずの多くの人が見ている前で、自分の人生を赤裸々に告白して相談するのだろうか?と思ってしまいます。

何かに行き詰まったとき、誰かに相談を持ちかけたい気持ちは良くわかります。しかし信頼できる友人ならばともかく、自分とは何の接点もない人に相談するのでしょうか。

もちろん相談に乗る出演者は、ご自身の経験をふまえて親身になって答えていますが、あくまでも一般論であってその人の状況に最適な答えかどうかはわかりませんし、また相談した結果に責任は取ってくれません。

このように私たちは、大切なことを相談する相手を間違えてしまうことがままあります。

私たちが相談すべき相手は、私たちのことを誰よりもよく知っており、まだ見ぬ将来を見通し、結果に責任を取ってくださるお方ではないでしょうか。そのお方こそ天地万物を造り、世界の歴史を統べ治め、母の胎内にいるときから私たちのことを知っておられる神様です。

この神様が私たちに語り掛けてくださる聖書の御言葉と真摯に向き合うとき、そして御言葉を自分の都合の良いように解釈するのではなく、改めるべきことは悔い改め、過ちを正し、本来私たちが進むべき道を真剣に尋ね求めるならば、神様は私たちにとって最も適した、必要な答えを授けてくださいます。そして私たちが神様に全幅の信頼を置いて聞き従うならば、神様は私たちの人生に責任を持って正しい道に導いてくださいます。
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偽りの愛の氾濫

2015-09-09 08:07:26 | クリスチャン
今朝の御言葉から感じたこと。それは愛に対する思い違いです。

「愛」というと、多くの人は甘美な想いを抱きます。相手を無条件に受け入れる包容力の大きさを感じます。しかしそれは人間的な愛、ギリシャ語でいう「エロース」や「フィレオー」の愛に過ぎません。

父なる神様の愛、「アガペー」の愛は、特に罪に対しては実に厳しいものです。なぜなら罪は人を根本的に駄目にするもの、神様の祝福という大木を支える根を徹底的に腐らせて、根本から完全に倒してしまう、あるいは立ち枯れにしてしまうほどに影響力の大きな恐ろしいものだからです。

それを誰よりもよく知っている、本当の愛を知っている教会までもが、この「愛」という言葉に騙されています。ありのままのあなたを愛する、自分らしく輝いて生きる、そんな見せかけだけの愛の言葉が教会にまでも氾濫しています。神様の愛を人間的な愛のレベルに引きずり落としています。

悪を見過ごすことは偽りの愛です。本当に愛しているならば、罪から離れられずに永遠の滅びに向かっている人を黙って放置することなどできないからです。親が子どもを躾るように、正しいことを教えます。罪を罪と指摘せずに黙っているのは、決して相手を受け入れることでも何でもありません。単に相手に嫌われたくないという自己愛の現れ、自分がかわいいだけの自己中心な人の典型的な例です。

教会においては、人が多く集まってほしい、活気がある教会にしたい、そういった思いが、真実の愛をないがしろにして前面に出てきている。しかし門戸を大きく開くこととは、何でもかんでも無条件に許容してしまうことでは決してないはずです。

神様の愛を実践することは、実に難しいものです。相手を受け入れつつ、間違いは間違いときちんと諭すことのできるようになるためには、相手との信頼関係の深さと、自らの日々の生活態度までも質されます。それでも偽りの愛ではない真実の愛を追い求めたい。完全にはなれないけれども、地の塩、世の光として、神様の愛を身をもって現すことのできるクリスチャンでありたい、そのように願ってやみません。
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「わたしは主である」との御言葉の意味

2015-09-05 08:00:47 | クリスチャン
今日の聖句の箇所はレビ記19章でした。有名な「十戒」について詳しく記されている箇所です。その中に「わたしは主である」という御言葉が、何度も何度も繰り返し出てくることが気になりました。

なんで十戒の意味するところを解説するときに、「わたしは主である」と何度も神様はおっしゃったのか?と、いろいろな先生方の解説やメッセージをインターネットで検索して、考えてみました。

そのとき示された御言葉が、マルコによる福音書10章27節の

「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。
‭‭
‬ という御言葉でした。

この箇所は、ある金持ちの青年がイエス様のところにやってきて、永遠のいのちを得るためにはどうしたらよいかと尋ねた、有名な箇所です。幼い頃から律法を忠実に守ってきたと言い切る非の打ち所のない青年も、自分の財産をすべて貧しい人に与えなさいと言われたとき、悲しみながら去ってゆきました。隣人愛のない正義をイエス様に指摘されたのです。

そして、そんなことがどうしてできるようになるかと問われたときに、人にはできなくても神様ならばできるとイエス様は答えられました。愛のない人間にはできないことも、神様の愛を受けるならばできるとおっしゃったのです。

すなわち、形式的に律法を守ることは人間の努力でできたとしても、律法の本質である愛は、人間の努力だけではできない。しかし、神様の心を自分の心とするならば、できるようになると言われたのです。

ですから律法について詳しく解説するレビ記の端々にも、人にはできなくても神である私が共にいるならばできるよ、という意味を込めて、神様は「わたしは主である」と何度も繰り返されたのではないかと、今朝そのように神様から示されました。

「わたしは主である」との御言葉に込められた神様の思いの一端を知ることができた幸いな朝でした。
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箴言から学ぶべきこと

2015-08-21 08:23:31 | クリスチャン
今週の「今日の聖句」は箴言から御言葉が開かれました。箴言は一節一節に信仰が凝縮されていますから、毎朝、御言葉の真理と向き合うよいときとなりました。

そのような箴言の御言葉に、私ごときが一言付け加えるなど畏れ多いことではありますが、御言葉配信のためにいろいろ調べておりますと、箴言の御言葉に対する向き合い方に、ある違和感を感じました。

それは、あるデボーションガイドなどを読むときに、箴言を、幸せな人生を送るためのマニュアルであるかのような解説がなされていることがありました。要するに、箴言を人生訓や処世術として捉えているように感じるのです。

私が思う箴言の中心主題は「主を畏れること」の一言に尽きると信じています。「主を恐れることは知識のはじめである」とは、天地万物の造り主、すべてのいのちの源である神様を畏れ敬うことを知り、主の御前に遜って従うことを日々の生活を通して実践しなさい、ということです。そのような生涯を送る者を神様は喜ばれ、豊かな恵みを注いでくださる。

つまり、主を信じ、畏れ敬うことが先で、祝福は後からついてくるという順序です。これが聖書全体を通して変わらない原則のはずです。

もし自分が幸せな人生を送るために神様を信じ、聖書を読み、教会に通うという信仰であるならば、それは順序が逆で、単なる御利益信仰と何ら変わりません。しかし残念ながら、多くのクリスチャンはこのような状況から脱却できていないように感じてなりません。

今一度、自ら信仰の襟を正し、畏れ敬う心をもって神様の御前にひれ伏すことを第一とする、箴言から信仰の基本を改めて学んだ一週間でした。
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「マツコとマツコ」から思うこと

2015-08-02 07:44:07 | クリスチャン
土曜日の夜に「マツコとマツコ」というテレビ番組が放映されています。ロボット工学の第一人者の教授が、タレントのマツコ・デラックスさんにそっくりのアンドロイドを作り、人間と同じようなことをやらせてみて、人がどのような反応を示すかという、かなり実験的な番組で、私は毎週楽しみに見ています。

今までの番組でアンドロイドにどのようなことをさせてきたかというと、何も知らない一般人の前で、たとえば掛け合い漫才をさせてみたり、怪談を語らせてみたり、人生相談を受けてみたりして、そのたびに後からその人がどのように感じたか感想を聞いています。

この番組を通して私が感じることは、人間とアンドロイドはやはり違うということです。どれほどそっくりの姿形をしていても、いくら本人の真似をしても、人間とアンドロイドの間には決定的な違いがあって、番組の度に少しずつ改善して細かい動作に至るまでバージョンアップさせても、どうしても埋められない違いが残ってしまうということです。

もちろんアンドロイドだからできることや、アンドロイドならではの特性を生かせば良い面も多々あるのですが、どうやっても人間と同じにはなれません。

そしてこの番組を見た翌朝の聖句から受けた恵みは、私たちは神様に近付くことができるとは何という幸いであろうか、ということです。何の取り柄も資格もない、汚れた罪人でしかない私たちが、イエス様の十字架を信じて聖霊様が心の中に住まうならば、神様と同じ栄光の御姿に変えられてゆくことができる、何という恵みでしょうか!

私たちと神様との関係は決してアンドロイドと人間のような形だけ似せた別物の存在ではない。神様の創造の御業と御救いの素晴らしさを改めて感じる今朝の御言葉でした。
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神様の奥義の素晴らしさ

2015-07-27 08:02:25 | クリスチャン
もし神様の救いが頭で理解するものであれば、一部の知識人や哲学者だけのものにしかならなかったでしょう。もし神様の救いが努力して獲得するものであれば、厳しい訓練に耐えられる強靱な肉体と強い精神を持った人しか得られなかったでしょう。

しかし神様の救いは、ただ信仰に拠ります。そしてその信仰も、人の知性や努力で得られるものではなく、ただ神様の一方的な憐れみにより誰にでも授けられる賜物です。私たち人間がなすべきことは悔い改めて神様に立ち返り、御言葉の絶対的な権威の前に遜って跪くことです。

かといって神様の救いは誰もが思いつくような簡単なものではなく、また考えれば理解できるようなものでもなく、信仰のない者には閉ざされ、御霊の導きに従う者だけに開かれる神様の壮大なご計画であり、学べば学ぶほど奥深く、知れば知るほど喜びに満ちあふれるものです。

この救いの奥義に思いを馳せるとき、いかに神様は憐れみ深く公平なお方であるか、すべての人に対して開かれ、救いの御手が等しく差し伸べられていることかと、精緻かつ壮大な救いのご計画の素晴らしさをつくづく思い知らされます。
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闘うことが正義?

2015-07-22 07:46:49 | クリスチャン
最近気になることの一つに、漫画やゲーム、テレビ番組にバトルものが多くを占めていることです。しかも戦国時代など特殊な状況に置かれた場面ではなく、日常生活に近いところで闘いを繰り広げるストーリーが多くなっているように思います。

その主人公たちは言います。自分の大切な人を守るために戦う。愛のために戦う、正義のために立ち上がるのだと。本当にそうでしょうか? 敵と戦うことは果たして正義なのでしょうか?

敵、憎む、呪う、辱める。これらはすべて対立関係の中から出てきます。対立すると言うことは、相手から見たら自分たちも同じ敵対関係にある者の一人なのです。敵の側から見れば自分も憎き敵なのだという事実に気付くならば、戦って勝利した結果、どうなるでしょうか。自分が勝つと相手は負ける。相手はまた戦いを仕掛けてくる。こうして戦いの連鎖がいつまでも続くのです。この果てしない戦いの連鎖が、果たして正義なのでしょうか。戦いは一時的な自己満足の正義であって、何も解決しないのです。

イエス様の正義は敵をも愛することです。決して戦うことではありません。愛はすべてを完全に結ぶ帯だとも言われます。考え方や立場の違う者同士が互いに理解し合い、協力し合うために必要なものが愛です。そして敵を愛し迫害する者のために祈る姿は、すべてイエス様の十字架での出来事とぴったり重なります。イエス様はまさに正義のお手本を示されたのです。
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