列王紀下 23:1-3
「そこで王は人をつかわしてユダとエルサレムの長老たちをことごとく集めた。 そして王はユダのもろもろの人々と、エルサレムのすべての住民および祭司、預言者ならびに大小のすべての民を従えて主の宮にのぼり、主の宮で見つかった契約の書の言葉をことごとく彼らに読み聞かせた。 次いで王は柱のかたわらに立って、主の前に契約を立て、主に従って歩み、心をつくし精神をつくして、主の戒めと、あかしと、定めとを守り、この書物にしるされているこの契約の言葉を行うことを誓った。民は皆その契約に加わった。」
ヨシヤ王はユダとエルサレムの長老たちをはじめ、国中の人々を従えて主の宮に上り、神殿修繕の際に発見されたモーセの契約の書をすべての民に読み聞かせ、自ら率先して主と契約を立て、心を尽くし精神を尽くして主の御言葉を守り行うことを誓いました。ユダとエルサレムの民たちもまたヨシヤ王に倣い、主の契約に加わりました。真のリーダーとは、すべての民を正しく導くために、自ら率先して罪を悔い改め、聖書に記された義の戒めを守り行うことを堅く誓い、人々に模範を示す人です。私たちもまた神の義を守り行うキリスト者として人々の前に証を立て、世の人々を罪の悔い改めへと導く者とならせていただきたいと願います。
http://bible.com/81/2ki.23.1-3.ja1955
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列王紀下 23:4-7, 10-12
「こうして王は大祭司ヒルキヤと、それに次ぐ祭司たちおよび門を守る者どもに命じて、主の神殿からバアルとアシラと天の万象とのために作ったもろもろの器を取り出させ、エルサレムの外のキデロンの野でそれを焼き、その灰をベテルに持って行かせた。 また、ユダの町々とエルサレムの周囲にある高き所で香をたくためにユダの王たちが任命した祭司たちを廃し、またバアルと日と月と星宿と天の万象とに香をたく者どもをも廃した。 彼はまた主の宮からアシラ像を取り出し、エルサレムの外のキデロン川に持って行って、キデロン川でそれを焼き、それを打ち砕いて粉とし、その粉を民の墓に投げすてた。 また主の宮にあった神殿男娼の家をこわした。そこは女たちがアシラ像のために掛け幕を織る所であった。
…
王はまた、だれもそのむすこ娘を火に焼いて、モレクにささげ物とすることのないように、ベンヒンノムの谷にあるトペテを汚した。 またユダの王たちが太陽にささげて主の宮の門に置いた馬を、境内にある侍従ナタンメレクのへやのかたわらに移し、太陽の車を火で焼いた。 また王はユダの王たちがアハズの高殿の屋上に造った祭壇と、マナセが主の宮の二つの庭に造った祭壇とをこわして、それを打ち砕き、砕けたものをキデロン川に投げすてた。」
主の御言葉を堅く守り行うことを誓ったヨシヤ王は、口先だけの信仰ではなく、有言実行する真のリーダーでした。彼は直ちにユダの国中から偶像礼拝と異教の神々を取り除き、再び民が主の前に罪を犯すことのないように徹底的に破壊して火で焼き払いました。御言葉を聞いたならば、言い訳せず直ちに実行することが私たちに必要な真の信仰者としての態度です。
http://bible.com/81/2ki.23.4-7,10-12.ja1955
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列王紀下 23:8, 15, 19
「彼はまたユダの町々から祭司をことごとく召しよせ、また祭司が香をたいたゲバからベエルシバまでの高き所を汚し、また門にある高き所をこわした。これらの高き所は町のつかさヨシュアの門の入口にあり、町の門にはいる人の左にあった。
…
また、ベテルにある祭壇と、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤラベアムが造った高き所、すなわちその祭壇と高き所とを彼はこわし、その石を打ち砕いて粉とし、かつアシラ像を焼いた。
…
またイスラエルの王たちがサマリヤの町々に造って、主を怒らせた高き所の家も皆ヨシヤは取り除いて、彼がすべてベテルに行ったようにこれに行った。」
ヨシヤ王の信仰刷新は徹底的で、ダビデ王以降のすべてのイスラエルとユダの王たちが為し得なかった高き所での礼拝、すなわち神様の定められた方法とは異なる礼拝をも完全に取り除きました。現代のキリスト教界では、コンビニ礼拝とも呼ばれる、自分にとって都合の良い方法で神様を礼拝することが当たり前のように行われている現実があります。たとえばアメリカでは、病気や高齢で体が動かないわけでもないのに自ら教会に出掛けるのではなく、リビングで寝そべりながらテレビ放送を見るだけで礼拝した気分になっている人も多いそうです。そのような都合の良い礼拝を、神様が喜ばれるでしょうか。私たちは教会で礼拝を捧げることの大切さを決して疎かにしてはなりません。
http://bible.com/81/2ki.23.8,15,19.ja1955
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列王紀下 23:21-25
「そして王はすべての民に命じて、「あなたがたはこの契約の書にしるされているように、あなたがたの神、主に過越の祭を執り行いなさい」と言った。 さばきづかさがイスラエルをさばいた日からこのかた、またイスラエルの王たちとユダの王たちの世にも、このような過越の祭を執り行ったことはなかったが、 ヨシヤ王の第十八年に、エルサレムでこの過越の祭を主に執り行ったのである。 ヨシヤはまた祭司ヒルキヤが主の宮で見つけた書物にしるされている律法の言葉を確実に行うために、口寄せと占い師と、テラピムと偶像およびユダの地とエルサレムに見られるもろもろの憎むべき者を取り除いた。 ヨシヤのように心をつくし、精神をつくし、力をつくしてモーセのすべての律法にしたがい、主に寄り頼んだ王はヨシヤの先にはなく、またその後にも彼のような者は起らなかった。」
ヨシヤ王は更に、士師の時代以降、誰も行わなかったほどの大規模な過越の祭を行いました。ここでヨシヤが執り行ったのが、単なる燔祭でも、酬恩祭でも、感謝祭でもなく、罪からの解放を記念する過越の祭りであったことが重要です。これは今の教会で言うならば主イエス様の十字架による罪の購いです。私たちの一番大切な信仰は十字架です。この信仰の故にヨシヤ王は、彼に並ぶほど心を尽くして主の御心に従った王は後にも先にも起こらなかったと記されています。私たちもまた神様の目に、ヨシヤ王のように心を尽くして従った者はなかったと呼ばれるほどの信仰者とならせていただきたいと願います。
http://bible.com/81/2ki.23.21-25.ja1955
「そこで王は人をつかわしてユダとエルサレムの長老たちをことごとく集めた。 そして王はユダのもろもろの人々と、エルサレムのすべての住民および祭司、預言者ならびに大小のすべての民を従えて主の宮にのぼり、主の宮で見つかった契約の書の言葉をことごとく彼らに読み聞かせた。 次いで王は柱のかたわらに立って、主の前に契約を立て、主に従って歩み、心をつくし精神をつくして、主の戒めと、あかしと、定めとを守り、この書物にしるされているこの契約の言葉を行うことを誓った。民は皆その契約に加わった。」
ヨシヤ王はユダとエルサレムの長老たちをはじめ、国中の人々を従えて主の宮に上り、神殿修繕の際に発見されたモーセの契約の書をすべての民に読み聞かせ、自ら率先して主と契約を立て、心を尽くし精神を尽くして主の御言葉を守り行うことを誓いました。ユダとエルサレムの民たちもまたヨシヤ王に倣い、主の契約に加わりました。真のリーダーとは、すべての民を正しく導くために、自ら率先して罪を悔い改め、聖書に記された義の戒めを守り行うことを堅く誓い、人々に模範を示す人です。私たちもまた神の義を守り行うキリスト者として人々の前に証を立て、世の人々を罪の悔い改めへと導く者とならせていただきたいと願います。
http://bible.com/81/2ki.23.1-3.ja1955
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列王紀下 23:4-7, 10-12
「こうして王は大祭司ヒルキヤと、それに次ぐ祭司たちおよび門を守る者どもに命じて、主の神殿からバアルとアシラと天の万象とのために作ったもろもろの器を取り出させ、エルサレムの外のキデロンの野でそれを焼き、その灰をベテルに持って行かせた。 また、ユダの町々とエルサレムの周囲にある高き所で香をたくためにユダの王たちが任命した祭司たちを廃し、またバアルと日と月と星宿と天の万象とに香をたく者どもをも廃した。 彼はまた主の宮からアシラ像を取り出し、エルサレムの外のキデロン川に持って行って、キデロン川でそれを焼き、それを打ち砕いて粉とし、その粉を民の墓に投げすてた。 また主の宮にあった神殿男娼の家をこわした。そこは女たちがアシラ像のために掛け幕を織る所であった。
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王はまた、だれもそのむすこ娘を火に焼いて、モレクにささげ物とすることのないように、ベンヒンノムの谷にあるトペテを汚した。 またユダの王たちが太陽にささげて主の宮の門に置いた馬を、境内にある侍従ナタンメレクのへやのかたわらに移し、太陽の車を火で焼いた。 また王はユダの王たちがアハズの高殿の屋上に造った祭壇と、マナセが主の宮の二つの庭に造った祭壇とをこわして、それを打ち砕き、砕けたものをキデロン川に投げすてた。」
主の御言葉を堅く守り行うことを誓ったヨシヤ王は、口先だけの信仰ではなく、有言実行する真のリーダーでした。彼は直ちにユダの国中から偶像礼拝と異教の神々を取り除き、再び民が主の前に罪を犯すことのないように徹底的に破壊して火で焼き払いました。御言葉を聞いたならば、言い訳せず直ちに実行することが私たちに必要な真の信仰者としての態度です。
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列王紀下 23:8, 15, 19
「彼はまたユダの町々から祭司をことごとく召しよせ、また祭司が香をたいたゲバからベエルシバまでの高き所を汚し、また門にある高き所をこわした。これらの高き所は町のつかさヨシュアの門の入口にあり、町の門にはいる人の左にあった。
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また、ベテルにある祭壇と、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤラベアムが造った高き所、すなわちその祭壇と高き所とを彼はこわし、その石を打ち砕いて粉とし、かつアシラ像を焼いた。
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またイスラエルの王たちがサマリヤの町々に造って、主を怒らせた高き所の家も皆ヨシヤは取り除いて、彼がすべてベテルに行ったようにこれに行った。」
ヨシヤ王の信仰刷新は徹底的で、ダビデ王以降のすべてのイスラエルとユダの王たちが為し得なかった高き所での礼拝、すなわち神様の定められた方法とは異なる礼拝をも完全に取り除きました。現代のキリスト教界では、コンビニ礼拝とも呼ばれる、自分にとって都合の良い方法で神様を礼拝することが当たり前のように行われている現実があります。たとえばアメリカでは、病気や高齢で体が動かないわけでもないのに自ら教会に出掛けるのではなく、リビングで寝そべりながらテレビ放送を見るだけで礼拝した気分になっている人も多いそうです。そのような都合の良い礼拝を、神様が喜ばれるでしょうか。私たちは教会で礼拝を捧げることの大切さを決して疎かにしてはなりません。
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列王紀下 23:21-25
「そして王はすべての民に命じて、「あなたがたはこの契約の書にしるされているように、あなたがたの神、主に過越の祭を執り行いなさい」と言った。 さばきづかさがイスラエルをさばいた日からこのかた、またイスラエルの王たちとユダの王たちの世にも、このような過越の祭を執り行ったことはなかったが、 ヨシヤ王の第十八年に、エルサレムでこの過越の祭を主に執り行ったのである。 ヨシヤはまた祭司ヒルキヤが主の宮で見つけた書物にしるされている律法の言葉を確実に行うために、口寄せと占い師と、テラピムと偶像およびユダの地とエルサレムに見られるもろもろの憎むべき者を取り除いた。 ヨシヤのように心をつくし、精神をつくし、力をつくしてモーセのすべての律法にしたがい、主に寄り頼んだ王はヨシヤの先にはなく、またその後にも彼のような者は起らなかった。」
ヨシヤ王は更に、士師の時代以降、誰も行わなかったほどの大規模な過越の祭を行いました。ここでヨシヤが執り行ったのが、単なる燔祭でも、酬恩祭でも、感謝祭でもなく、罪からの解放を記念する過越の祭りであったことが重要です。これは今の教会で言うならば主イエス様の十字架による罪の購いです。私たちの一番大切な信仰は十字架です。この信仰の故にヨシヤ王は、彼に並ぶほど心を尽くして主の御心に従った王は後にも先にも起こらなかったと記されています。私たちもまた神様の目に、ヨシヤ王のように心を尽くして従った者はなかったと呼ばれるほどの信仰者とならせていただきたいと願います。
http://bible.com/81/2ki.23.21-25.ja1955