西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

大遣唐使展に行く(2010年4月20日)

2010-04-21 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
昨日、奈良国立博物館の「大遣唐使展」に行った。この遣唐使は、それ以前の遣隋使の伝統を受け継いで主に奈良時代に唐の国に派遣された「使節団」である。これは、平安時代に入っても継続し、最後は菅原道真が「中止」を進言して終わった。

まあ、律令国家を立ち上げた日本が、当時の「先進国」「中華」の唐に対して大使節団を派遣して政治制度、都のあり方、仏教をはじめ文化の様々などあらゆることを学んだのである。まあ1世紀有余にわたった正に「世紀の大事業」だった。日本からは5千人とも6千人ともいえる人々が唐に赴いたのだ。

これとは、規模や時期の点で問題にならないが、「遣唐使」というと、明治になって新政府が欧米に1年10ヶ月にわたり派遣した50人ほどの「岩倉使節団」(岩倉具視特命全権大使)とその記録(『米欧回覧実記』)が思い浮かぶ。

これらは、日本人が昔も最近も「先進国」にキャッチ・アップ(追いつこうと)するという姿勢の歴史的証拠である。

で、この「大遣唐使展」をざっと見てみて、「岩倉使節団」の報告書(岩波の『米欧回覧実記』全5巻による)に類する「報告書」があったのかなかったのか、はっきりしないことが気になる。

実際には、唐の制度の知識とか、都の作り方の知識とか、仏教の仏典だとかは、入ってきて日本の制度に取り入れられたことは確かだが、では当時の「長安の都市計画」の図面があるのか、と言えば全体的なものは見当たらないのである。

まあ、時代が違うが『米欧回覧実記』のような記録、報告書は残す、という意識や習慣が未だなかったのだ、と言わざるをえないのだろうか。

昨日、別に平城宮跡で、遣唐使の乗った船の復元を見たが、これもしっかりした資料が残されている訳ではなく、600人ほどの「派遣団」が四隻の船で行ったことは記録にあるので、一隻なら150人ほどになる。50人が船を動かしたり操作し、後の100人が夜寝ていたとすると、100人が寝られる空間を割り出して大体の船の大きさを決める、と言った方法での復元と説明されていた。これだと、まあワンノブゼムの「復元」といわざるを得ない。

まあ、しかし国際交流史の大きな一こまが「細かく」注目されたのは良いことだろう。

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