西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

自分史と日本史、世界史の絡まり

2013-08-05 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
自分史と言うのは、正に「自分が生きてきた歴史」である。 しかし、同時に日本史、世界史も「現代史」として進行している。そこで、それらの日本史、世界史と自分史との絡まりが、絡まり方の大小を問わず必ず出てくるであろう。それを一寸「小さな私」の場合を例にして考えてみよう。

・私が生まれたのは1941年(昭和16年)6月であり、正に日本が「太平洋戦争」に突入する(1941年12月8日)数か月前だった。
・父母は、私を金沢の母方祖父母に預けて満州に出かけた。父が関東軍の軍人だったため万一のことを考えたからである。妹が1943年に満州で生まれた。
・私の記憶が「はっきり」出てくる4歳時の1945年(昭和20年)8月15日に、日本はポツダム宣言を受け入れて敗戦の日を迎えた。
・その後アメリカの全面占領が対日講和条約発効の1952年(昭和27年)4月まで続く。
・父母と妹が復員(帰国)出来たのは、私が幼稚園に入る1947年(昭和22年)4月以前であり、かなり「早い」、やはり父が軍人(主計大尉)だったためか。
・小学校に入るのは1948年(昭和23年)4月で、それ以前に「新憲法=現憲法」は出来、発布された。私は新小学校2期生であった。
新憲法による民主化路線は、アメリカの方針転換により1948年から「逆行」し始めた。1950年(昭和25年)の朝鮮戦争勃発が大きく作用し、警察予備隊、保安隊、自衛隊が出来てきた。
・1954年(昭和29年)に私は中学に入る。高度経済成長が始まる前夜だった。1955年(昭和30年)保守合同(自民党へ)鳩山一郎内閣による日ソ国交回復。日本住宅公団が出来た。
・1960年(昭和35年)私は高校(金大付高)を経て大学(京大工学部建築学科)に入学、最後の宇治分校生。社会的には歴史的安保闘争、日米安保条約の問題点に直面する。

以上が自分史『わが青春の金沢ー1941年~1960年―』の18年間の軌跡概観である。

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