毎月第4日曜日の午前9時より1時間、井戸書店では『大人の人間学塾』と称して、人間学の書籍を1冊、参加者で輪読し、その感想を述べ合うイベントを開催しています。第10回目の昨日の課題図書は『炎の陽明学 - 山田方谷伝』(矢吹邦彦著、明徳出版社)でした。
山田方谷と言ってもなかなか知られていない人物ですが、幕末の備中松山藩の財政再建を一気に成し遂げた人物です。10万両(現在の貨幣価値で300億円)の負債を、7年で払拭し、逆に10万両の余剰金を作り上げました。
農家の倅として生まれた方谷は、山田家の再興のため、子どもの頃から勉学に励み、神童と呼ばれるほどになりました。しかし、14歳で母が亡くなり、1年後には父も失い、家業を継ぎます。彼の才を惜しみ、藩主坂倉勝職(かつつね)が二人扶持の奨学金を出し、学びの道に戻りました。その後、京都遊学、江戸では昌平黌に学び、佐久間象山と並び塾頭になった。
藩主が坂倉勝静(かつきよ)になり、抜本的な藩政改革を推し進める中で、山田方谷に元締役及び吟味役を拝命し、藩の財務一般を管轄することになりました。大なたを振るう改革は
①財務状態の藩士への公開(表高5万石に対し実石1万9千石、10万両の負債状態)
②大坂蔵屋敷の廃止、自力で米の売買を行う
③信用を失った藩札を公前で焼き払い、新しい藩札を発行
④領内から取れる砂鉄で備中鍬を製造販売、その他特産品も開発
⑤下級武士に新田開発を奨励
⑥農民による農兵制を新設、欧米の新兵器の導入
と、幕末の薩長土肥列藩のさきがけのような存在となりました。
彼の思想のベースは陽明学。「致良知」と「知行合一」の陽明学を、「誠」と解釈し、「言ったことは成す」を真髄と考えました。
しかし、藩主坂倉勝静は筆頭老中となり、幕府の中枢のため、官軍に攻めたてられたが、方谷による無血開城により、方谷は隠居の身になります。
明治新政府は彼に大蔵大臣就任を依頼しますが、頑なに断り、農夫と塾長として田や人を耕しました。
彼こそは代表的日本人に加えてほしい。時代は違うとはいえ、1000兆の負債を抱える日本は彼の生き様を参考に財政再建に努めてほしいと思います。地元である備中高梁市では、方谷をNHK大河ドラマで取り上げる運動を行っており、この時代に彼の功績を国民に観てもらう必要があると考えます。
『炎の陽明学 - 山田方谷伝』(矢吹邦彦著、明徳出版社、本体価格3,300円)
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