法専寺山門掲示板の今月の言葉は
「歎異抄」第10条の
念仏には無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆゑにと仰せ候ひき。
の最初の「念仏は無義をもって義とす」の現代語訳
本願他力の念仏においては
自力のはからいが
まじらないことを
根本の法義とする
「本願他力」は、もちろん、世間で使う「他力本願」「人任せ」の意味ではなく、如来の本願=私のような凡夫も覚らせたい・仏に成らせたい という、仏さまの大きな願い
「自力のはからい」は、自分中心の物の見方しかできない私(凡夫)なのに、仏さまを基準にでなく、自分を基準に考え、言動しようとすること
念仏は、はからいを超えており、たたえ尽くすことも、説き尽くすことも、心で思いはかることもできないからですと、親鸞聖人は仰せになりました。
と現代語訳にあります。
「歎異抄」第10条の
念仏には無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆゑにと仰せ候ひき。
の最初の「念仏は無義をもって義とす」の現代語訳
本願他力の念仏においては
自力のはからいが
まじらないことを
根本の法義とする
「本願他力」は、もちろん、世間で使う「他力本願」「人任せ」の意味ではなく、如来の本願=私のような凡夫も覚らせたい・仏に成らせたい という、仏さまの大きな願い
「自力のはからい」は、自分中心の物の見方しかできない私(凡夫)なのに、仏さまを基準にでなく、自分を基準に考え、言動しようとすること


と現代語訳にあります。