事務職員へのこの1冊

市町村立小中学校事務職員のたえまない日常~ちょっとは仕事しろ。

「砂の器」がわからないPART5

2008-10-10 | 映画

砂の器PART4はこちら

 映画「砂の器」が名作たりえたのは、すべてラストの巡礼シーンのおかげだと断言してもいいだろう。原作から山田洋次と橋本忍がピックアップしたのは、例の「カメダ」と主人公の過去だけではないかとも。

 その過去とは、石川県の片田舎に生まれ、しかし父親のハンセン病によって母親は出奔。村からも追われ、子どもだった英良は(ほんとうの名前は本浦秀夫)父親とともに巡礼の旅に出る。業病として忌み嫌われたこの病に対する偏見は強く、秀夫は世間の冷たさと非情さを知ることになる。流れ着いたある町で、父子はやっと人間のやさしさにふれる。その町が亀嵩であり、父親を病院へ送り、秀夫を養子にとろうとしたのが三木謙一だった……

 泣かせのポイントはいくつかある。

・門付けをする親子にお米を差し出す主婦。しかし父親がライ病であることがわかった途端、ぴしゃりと戸は閉められる。また、いくら待っても誰も出てこない家の前で、悔しげに鈴を鳴らしつづける秀夫。その、音。

巡査に追い立てられる父親を守るために、必死に巡査にくらいつく秀夫。そして巡査に放り投げられ、額を負傷する秀夫(このときの傷がヒントになるのだけれど、なぜかラストではいかされない)。この経験が三木巡査への秀夫の偏見の一因にもなったのだろうか。

・ライ病院へ送られる父親を派出所から見送る秀夫。必死に何かをこらえている。しかし我慢できずに亀嵩の駅へ、線路を走って追いかける秀夫。気づいた父親はヨロヨロと立ち上がり、息子を抱きしめる。

・養子にむかえようと世話を焼く三木夫妻の温かさにふれながら、しかし秀夫は早朝、派出所から逃げ出す。三木巡査は“制服も着ずに”自転車で追いかけ、「ひでおぉぉ!」と叫びながら捜索する。隠れながら、強い表情でそれを見つめる秀夫。

・和賀英良の過去をさぐるうちに、本浦秀夫と同一人物であることに気づいた今西は、彼の父親が生存していた(!)ことを知り、離れ小島の療養所を訪ねる。和賀の写真を彼に見せ「この人を知っていますか?」と訊ねる今西に、父親は号泣しながら知らないと主張する。

……特に最後のシーンは必殺。ここで泣けない人はいないだろう。しかしわたしがもっとも心をうたれたのは違う場面だった。

最終回につづく。

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「砂の器」がわからないPART4

2008-10-10 | 映画

197431 PART3はこちら

 前にも指摘した「砂の器」のミステリ上の欠点は、事件解決を偶然性に頼りすぎている点だ。「紙吹雪の女」は二重三重の偶然のたまものだし、何ヶ月も前の客の動向を旅館の仲居(春川ますみ)が微細に憶えているのも不自然。映画館の写真に刑事が気づくのも、前に羽越線で和賀英良に偶然出会っていることが遠因だろう。

 でも、これらはまだ無視してもいい。刑事たちの徒労も同時に描かれているのだから。問題は、犯人の人物像がうまく描けていないということなのだ。
 事件を犯人の側から考えてみる。

・ある朝、自分の知られたくない過去を共有する人物から突然電話があり、その日のうちに会うことになる。

・彼はその人物にあることを強要され、殺害を決意する。

……実はここでまずちょっとおかしい。善意の人が、彼の事情(過去を完全に断ち切って上流社会へ昇ろうとしている瀬戸際にいる)を忖度してくれないほどの正義の人だとしても(緒形拳はそこをうまく表現している)、殺さなければならないほどだとは思えない。その日、この二人が二度会っているというひっかけがあったとしても。

・彼はその人物を“轢殺”に見せかけるために蒲田の操車場で殺害する。

……ここなんですよ。この殺人はわりと冷静で、計画的。ラストで延々と巡礼シーンが続き、彼の過去がいかに哀れで忌まわしいものであったかが強調されているために見過ごされがちだけれど、彼の犯罪はかなり冷酷なものなのだ。

 つまり、感動させるためにこの映画はかなり無理をしている。和賀英良を加藤剛が演じているのもそのトリックのひとつ。余計なことだが、加藤の指揮、及びピアノの演奏シーンはもうちょっと何とかならなかったのか。合ってないぞ指揮と音楽。

 初公開された頃の、評論家からの指摘は思えば正鵠を射ていた。「巡礼ふたりをのぞいて、すべてがミスキャストではないか」と。この表現はオーバーにしても(政治家を演じる佐分利信、古老の笠智衆、館主の渥美清、そして緒形拳はすばらしい演技を見せている)、森田健作の演技は拙劣とかそんなレベルをこえて失笑もの。そして、穏やかで良識的な役を演ずることの多い加藤剛の起用は、和賀英良の闇の側面を見失わせてしまっている。

 しかし、しかしだ。これらの欠点を補ってあまりある美点がこの映画には仕込んである。言うまでもなく、あの巡礼のくだりだ。

PART5につづく。

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「砂の器」がわからないPART3

2008-10-10 | 映画

PART2はこちら

・逃亡中の理恵子は愛人の和賀に、お腹にいる和賀の子を産ませてほしいと懇願するが、和賀は冷たく拒否する。田所の娘との新生活に、愛人と子どもの存在は邪魔なものでしかなかった。

……しかしこの映画は、二人の争いを通じて和賀が「その子を不幸にしたくない」気持ちも裏側にあることを示唆している(少なくとも観客がそう推測するようにし向けている)。「父親がいなくてその子はどうなるんだ。」と和賀が主張し「あなたよりマシよ!母親のわたしがいるんだから」理恵子の主張は一種の誤解にもとづいているのだが、結果的に和賀の気持ちを追いつめる。

・亀嵩に赴いた今西は、土地の古老(笠智衆)から、三木巡査が在職中に病に冒された父親と、彼に付き従う男の子を保護したことがあることを知らされる。今西はその子どもの足取りを追い始める。

……いよいよ、ラストの巡礼につながる部分に入る。この親子の巡礼が故郷を出たのが昭和17年。戦中の話であることをわたしはすっかり失念していた。ここは、重要な点ではないかと思う。戦勝にわく日本の裏側に、実はこんな暗鬱な現実があったことを作者は静かに告発している。

・和賀との口論の後、理恵子は流産し、彼女も息を引き取ってしまう。しかしこの時点で和賀はその事実を知らず、のちに彼女のアパートを訪ねてしまう。

……事件解決の直接のきっかけはこの訪問だ。意外に地味。でも指紋というちゃんとした物証があったこともわたしは忘れていた。

・警視庁に捜査会議が招集され、今西がこの事件の経過を説明する。

……ここからがこの映画の本番と言えるようなものだ。ここから長いんだよな。丹波哲郎の説明と、和賀のコンサート、そして和賀親子の巡礼の様子が延々とカットバックされる。そして、この時点でやっと三木謙一を緒形拳が演じていることが明かされる。引っぱったなあ。

……ふう。あらすじを追うのってけっこう大変。でも構造を考えるのにすごく勉強になった。正義と善意の人である巡査の、ある親切が悲劇の引き金をひくわけだが、しかしこの映画には数々の欠点がある。次回はあら探しをしてみよう。

PART4につづく。

コメント (2)
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