事務職員へのこの1冊

市町村立小中学校事務職員のたえまない日常~ちょっとは仕事しろ。

「次郎長三国志」('08 角川)

2008-10-11 | 邦画

Jirotyo1 監督:マキノ雅彦 脚本:大森寿美男 出演:中井貴一 鈴木京香 笹野高史 岸部一徳 大友康平 佐藤浩市

困ったなあ、と上映中に下を向いたりしていた。どこに視線をやればいいのかとまどうばかりだったのだ。画面では役者たちがそれぞれ思い入れたっぷりの愁嘆場を(全員が!)演じており、それなりに気持ちよさそうだ。しかし観客の方はそうもいかない。ドラマとして有機的につながっていないので、呆然とその力演を眺めるしかないのだった。役者が撮った作品らしい、と結論づけては失礼にあたるのだろうか。マキノ雅彦の演出は「寝ずの番」の好調が嘘のように弛緩している。

たとえばこんな場面。
“男を上げる”ために祝言の場から修行の旅に出た次郎長(中井貴一)が、久しぶりに清水に帰ってくる。見つけた女房のお蝶は砂浜を駆けていく……ここで演じる鈴木京香をスローモーションでとらえたショットが入る。唖然。今どきやらないだろカラオケビデオじゃあるまいし。

つづいてこんな場面。
木村佳乃演ずるあだっぽいお姉さんが、家の前の権現様にお参りをする。亭主がいかにバカで、しかしどんなに自分が惚れているかをつぶやきながら。でもこの時点ではお姉さんがいったい誰の女房なのかも説明されていないので、どうにも唐突。いかに木村佳乃を美しく撮るかに腐心したことはうかがえるが……

そしてこんな場面。
伝法で口の悪い女房を演じるのは真由子。マキノの娘である。こんなことを言うのも失礼だけれど、きらめくオールスターのなかでは彼女はどうみても数段落ちる存在だ。彼女を泣かせのキーとなる役に起用したのは親バカと言われても……。ウチの奥さんは真由子が好きみたいだけどね。

実はいままでの次郎長映画では、次郎長本人がさほど光り輝いていないとマキノ本人も語っている。その分、森繁久弥の森の石松や、大政小政などの脇役がもりあげたわけ。今作の子分たちは、ひとり北村一輝(小政)だけがいつもの調子で自然にいいが、他の役者たちは大仰な演技がすぎて魅力を打ち消しあっている。しかしその分、次郎長を演じる中井貴一だけが「スターらしさ」を見せてさん然と輝く皮肉な結果となった。

烏丸せつこ、荻野目慶子、高岡早紀など、スキャンダル女優を積極的に起用したり、兄、妻、娘を出演させるなど「日本映画界の人脈ど真ん中」にいる強みをいかんなく発揮したマキノは、しかしその昔気質によって作品の印象を古びたものにしてしまった。観客のお年寄りたちは、はたしてこの映画を楽しんだのだろうか……

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「砂の器」がわからないPART6

2008-10-11 | 映画

PART5はこちら

 わたしがこの映画でもっとも感動したのは、本浦親子が巡礼の途上で、ある神社の軒下にひそむシーンだ。彼らふたりが、親犬と子犬がじゃれ合うように、なにか、楽しそうですらある場面。

 この思い出が、父親にとって数十年間「秀夫は元気でいるだろうか」と三木巡査に手紙を書きつづった強い思いの原点だったのだろう。世間からはじき飛ばされた存在であるが故に、激しくお互いを必要としたのだ。

 しかし、息子の方はその過去を、宿命を音楽の中に封じ込め、「父親に一度会え」と求める善意の人間を排除すらしてしまう。このあたりの皮肉は効いている。泣いた泣いた。

 丹波哲郎はその自伝で「絶対に完成しないと思っていた」と話すぐらいこの映画は幻の企画だった。ハンセン病をあつかったことで患者から抗議も受け、「ハンセン氏病は、医学の進歩により特効薬もあり、現在では完全に回復し、社会復帰は続いている。それを拒むものは、まだ根強く残っている非科学的な偏見と差別のみであり、戦前に発病した本浦千代吉のような患者は日本中のどこにもいない」とのテロップを入れることで和解した経緯もある(Wikipediaより)。

 それ以上に、狂気を感じるぐらいの画面の美しさはどうだろう。作者たちは、日本の四季の美しさを徹底して追い求め、そしてその影に偏狭な差別があった残酷さを描いて見せた(撮影は川又昂)。古い映画を観るときに不安になるのは、画面が劣化していることと、現在のドルビーサラウンドなどに慣れた耳には音響がひたすらしょぼく感じられることだが、イマジカが最新のデジタル技術を用いて、もう一方の主役である音楽も美しくブラッシュアップしてくれているのでご心配なく。

 そして最後に、この映画で誰よりもすばらしく、歴史に残る演技を見せた加藤嘉にふれなくては。ハンセン病は指が落ちたり顔貌がゆがんでしまうことから差別を生んだ背景がある。そんなメイクをしながら、ひたすら息子を恋う父親の演技こそ「砂の器」を単なる大作の位置にとどめていない最大の要因だ。加藤嘉を観るだけでも金を払う価値はあった。イオンシネマよ、次は「飢餓海峡」をお願いします。

コメント (32)
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