陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

愛のための結婚

2010-07-10 23:39:33 | weblog
「クレメンティーナ」の中に、アメリカに留まりたいクレメンティーナが、牛乳配達の老人と結婚しようとする場面がある。それを反対する主人に、クレメンティーナは「もし人が愛のために結婚するというなら、この世は生活の場ではなくて、頭のおかしな人を収容する病院ってことになるんじゃないのでしょうか。」と言い返す。愛していなければ結婚してはならないという主人のことを、「シニョーレは目に星がキラキラしてる男の子みたいな話をしていらっしゃいます」とまで言う。

そうして、愛のために結婚したふたりは、愛のために離婚した。クレメンティーナは、ほら、わたしの言った通りになった……と思う代わりに、彼らの喪失を悲しむ。平和な一家は、同時に、クレメンティーナが心に抱く理想像として、クレメンティーナのものでもあったからだ。

さて、アメリカ人と話をしていて驚くのは、離婚率の高さである。たいてい、身内の何人かが離婚経験者だし、離婚した両親がそれぞれ再婚していて、義理まで含めればきょうだいが11人という人もいれば、いまのパートナーが三度目の結婚相手という人もいる。日本人の友人のなかに、離婚経験者がいて、離婚に至るまでのプロセスを、あれは疲れる、あんなに疲れることはもうこりごり、と、感に堪えたような言い方をしていたのに比べると、肉ばっかり食ってるやつらは体力あるなあ……、と思わないでもない。

ただ、根底にあるのは「クレメンティーナ」同様、愛し合っているから結婚する、愛がなくなれば別れる、という、一種の恋愛至上主義である。

ただ、恋愛というのは、感情の一種であって、物理的なものではない。つまりは「優しさ」や「冷たさ」が眼に見えたり、量で量られたりするものではないように、あったり、増えたり、減ったり、なくなったりするものではないのだ。

おまけに、わたしたちは大きな問題を抱えているときでも、空腹を感じたり、疲労を感じたり、そればかりかさっきすれちがった人が、いやな目つきでこちらを見ていたけれど、あれはどういう意味なのだろうか、などと、些細なことが気にかかったりもする。
その中で、「恋愛」という感情だけを取り出して、それが、たとえば「経済的安定」とか、「滞留資格」とかが不純物として除去することができるのだろうか。

クレメンティーナが言う「もし人が愛のために結婚するというなら、この世は生活の場ではなくて、頭のおかしな人を収容する病院ってことになるんじゃないのでしょうか」というのは、愛という感情だけを純粋に持ち続けている人がいない以上、確かにそのとおりなのだ。

そういえば高校の頃、好きだと言われて上級生とつきあうようになった子に対して、あなた、あの先輩のことなんて、告白されるまで、好きでも何でもなかったんでしょ、と責めるように言っていた子がいた。あの先輩が好きなんじゃなくて、バスケ部のポイントゲッターのカノジョになりたかっただけよ、と。

その話を聞きながら、だったら彼女の考える「純粋な気持ち」というのは、人知れず、相手にも知られないまま、胸の内で育てることだけしかないのではないか、と思ったものだった。さまざまな関係の中で生きているわたしたちは、「バスケ部のポイントゲッター」という要素を、その人から切り離すわけにはいかない。

「クレメンティーナ」でも、もしジョーが老人ではなく、せめて四十代の男性であれば、主人も反対しなかったように思う。つまり、主人が問題にしているのは、実は単に「釣り合わない」というだけで、こう考えると「愛し合う」ということすらも、実は相当にいい加減なのだ。

愛し合って結ばれるふたり、というのが、別に幻想だ、というつもりはないが、そうでなければ幸福にはなれない、というのもずいぶん不思議な話だ。人間の感情というのが、さまざまな種類のものがからまりあい、刺激に応じて、ある種の部分が増幅したり、後景化したりして、つねに流動するものだということをわきまえておけば、「愛ゆえに結婚する」などということは言えなくなってしまうだろう。

まあ、それが良いことかどうかはわからないのだけれど。