陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

正直な身体

2010-07-08 23:31:06 | weblog
雑踏を歩いていると、たまに人とぶつかることがある。そんなときには雑踏であることをお互い意識しているから、ぶつかるといっても、軽く肩や上腕の一部がふれるくらいで、すいません、とぶつかり際に軽く一言、言うか言わないかのうちに、すでに双方はすれちがっている。

ところがごくたまに、どしん、と正面からぶつかってくる人がいる。それも、たいていの人は、ぶつかった拍子に、意識しなくても、瞬間的にさっと身を引くようになっていると思うのだけれど、どしんとぶつかってくる人のなかには、身を引けない人がいて、そんなときにはこちらの身体に、相手の身体がべたっとぶつかってきて、特に暑い季節だったりすると、不快なことこの上ない。

こういう人は、きっと身体感覚が鈍いのだろうと思う。

ぶつかった瞬間、人間の身体というのは、とっさにひるむものだ。小さくなるというか。
それに対して、誰かを抱きしめたり、抱きしめられたりするとき、特に、それが心を許している相手だったりすると、全身の緊張はゆるみ、表面積を広くして、少しでも相手の身体との接触面を増やそうとする。
頭で考えるのではなく、身体がそう反応するのだ。

わたしは昔から、身体にふれられるのがどちらかというと苦手な方で、肩を組まれたり腕を組まれたりされると、仲の良い相手でも、ちょっと、と思うことが多い。アメリカに行ったとき、最初は、何かあるとハグされるのには困った。ぎゅっと抱きしめるばかりか、相手が女性だと、頬や耳元にぶちゅっとキスまでされてしまう。どうしたものだろう、と頭を抱えた。

それで、編み出した解決法が、こちらから先にハグしてしまうやり方だ。
自分の方から腕を広げて、相手にがっと腕を回す。腕に力を入れて肩をぶつけるようにして、逆に、相手と自分の胸を合わさないようにするのだ。そうすることで、いかにも親密なハグをしているようで、実際にはあまり身体を接触させずにすんで、なかなか具合のよいハグができるのだった。

この方式を編み出して以来、わたしはいつも、このハグで乗り切ることにしている。ガッとハグして、肩を片方だけ合わせ、背中をぽんぽんと叩いて、やあやあ、と挨拶して、ぱっと離れるのである。大変男らしいハグだ、と言われたこともある。

されたくないときは、こちらからそれをしかけて、自分のペースでそれをすること。わたしはアメリカで「攻撃は最大の防御」ということを学んだのだ。

まあ、太ったおばさんの大きな胸に抱きしめられるのは、確かにそれだけで安心するものだな、と思ったこともあるのだけれど。


それからしばらくして、まだ野茂がメジャーリーグにいたころ、テレビの衛星放送で、メジャーの野球中継を見たことがある。
試合が終わって、野茂がチームメイトにハグされるのを見たことがある。いかにもハグが苦手らしく、顔をできるだけ相手から遠ざけようとしていた野茂は、身体を反らしたせいで逆に相手と胸がぴったり合って、まるで胴締めされているようだった。日本人がハグされると、よくなりがちなパターンである。

それがおもしろくて、しばらくメジャーリーグの一員となった日本人選手のハグばかり観察していたのだが、佐々木のハグは、アメリカ人と混じって一切遜色なく(遜色のないハグというのも変な表現だが)、この人はほんとうに違和感なくここで生活しているのだな、と思ったものだった。わたしのように意識的にしているのではなく、自然に相手に反応するがごとくのハグである。おそらくこの人は、身体感覚の順応性の高い、すぐに相手に同期できる人なのだろうと思ったものだった。

変だったのは、伊良部のハグで、身体が三分の二くらい横にずれ、顔はそっぽを向いていた。手を相手には回してはいるのだけれど、相手も見ていない、相手の身体も感じていない、やってりゃあいいんだろ、みたいな、失礼なハグだった。この人は、自分が一緒にやっている相手をチームメイトと見なしていないにちがいない、と思ったのである。

なんというか、身体の反応というのは、そのくらい正直なのだ。頭ではこうすべき、と思ってみても、身体はいうことをきかない。文字通り全身で、頭の命令に反抗する。

人にぶつかってもさっと身をひくことができない、べたっとぶつかってしまう人は、自分が他者の身体に取り囲まれているということを、身体で認識していない人なのだと思う。

「空気が読めない」「KY」などという言葉をあちこちで耳にしていたころは、この言葉を悪く言う人の方が多かったように思うが、何のことはない、人間は昔から場の空気を読んできたのだ。足を一歩踏み入れるだけで、その場の空気がどんなものかわかっていたし、場によって態度も言葉遣いも変えてきた。

ただそれが、ことさらに言われるようになったのは、身体感覚が鈍くなり、言葉で説明されなければわからない人が増えてきたからなのかもしれない。わざわざ「KY」などと言われなければならなかったのは、身体が空気を感じるのではなく、文字通り、言葉として読め、という意味だったのだろうか。