電車に乗り込んだところ、車両は八分程度の入りである。席を探してあたりを見回すと、五人掛けのベンチシートが妙にスカスカしていた。正確に言うと、ひとりの女性がすわっており、その両隣が人ひとりぶんずつ、空いているのである。
明るい色に染めた髪と服装から、一瞬、若い女性かと思ったのだが、六十代はいっているようだった。
丈の短いチュニックドレスに、剥きだしの素足にヒールの高いサンダル。青い静脈が網の目のように浮き出している白い足を組んでいるところは、言葉は悪いかもしれないが、いささか異様な眺めだった。
首からはじゃらじゃらとアクセサリ、濃い化粧、二十代の女性なら少しもおかしくない格好なのだが(ただ、おそらくレギンスをはいているだろうが)、どう見ても六十代を過ぎた女性なのである。両隣が空いていたのも、違和感を覚えたのがどうやらわたしだけではなかったせいだろう。
立ったまま、その人の方をちらちらと見ているうちに、着ている人も、その格好をするのに相当りきんで着ているのではないかと思えてきた。二十代なら当たり前の格好でも、六十代となると、自然体では着られないのかもしれない。その人にとっての、一種の「ハレ着」なのかもしれなかった。
わたしたちは日常生活の中で、意識的にも無意識的にも、こう見せたい「自分」を、状況が要求する役割に応じて、さまざまなレベルで演じている。服装とはその意味で「コスチューム」であって、「自分がどんな人間であるか」「どのような役割を与えられているか」を周囲の人に訴える手段でもあるのだ。
実際の自分と「こんな人間ですよ」と訴えたい「自分」のあいだに差がないとき、その人はあまり演技する必要がないので、格好もごく自然なものになる。
ところが「こう見て欲しい自分」と実際の自分のあいだに距離があると、いきおいそこには演出が必要だ。ちょうど戦闘に臨むときのネイティヴ・アメリカンが、顔に隈取りをつけ、羽根飾りを始め、さまざまなアクセサリーをつけるのは、「戦う人」を演じるように。
その演出も、気合いもなく「ハレ着」を着てしまうと、七五三で袴をはかされた男の子のように、服に着られてしまうのだ。
逆にいうと、舞台衣装で身を飾るのは、ふだんの自分を、さまざまなレベルに応じて「失ってみせる」ということでもある。ネイティヴ・アメリカンであれば、顔にさまざまな色を塗り、羽や首飾りをこれでもかとつけることによって、本来の自分を空っぽにし、そうしてある種の聖性に近づこうとしているのだ。
確かに、本来の自分以外の役割を、限られた時間のあいだだけ演じるのは楽しいし、あるいは仕事中は、本来の自分をいくぶんか失う必要がある場合もある。けれどもそういうとき、人は自分が役割についている、ということを意識しているはずだ。
ただ、わたしが電車の中で見た女性は、変装を楽しんでいたのだろうか、と思ってしまった。
最近では、「年相応の格好」という言葉があまり聞かれなくなった。「カワイイから」「好きだから」という理由で、自分が望む格好をしていいという人が増えてきたのかもしれない。わたし自身、かなり力の抜けた格好でどこへでも行ってしまうので、状況が要求する役割を十全に果たしているとはいいがたいから、ちょっと大きな声では言いにくいのだけれど。
この服がカワイイ、と思って選んだその人の脳裡には、六十代の姿かたちをしている自分はいなかったのではないか。仮に試着室で着てみても、鏡の中にその人が見るのは、ありのままの自分の姿ではなく、かつての、その服装に相応する年代の自分ではないのか。
若い頃、こんな服が着たかった。そう思って着ているのなら、それもまあいいのだ。だが、ほんとうにこんなことを考えるのは大きなお世話なのだけれど、ちょうど、舞台の上にいる自分をほんとうの自分と思い込んでしまうようなことが、鏡の前で起こっているのではないかと思ってしまったのだった。
何かを演じるということは、自分をいくばくか、失うことだ。
限られたあいだ、失ってみるのは楽しい。けれどもその分量をまちがえると、恐いことになるような気がする。
明るい色に染めた髪と服装から、一瞬、若い女性かと思ったのだが、六十代はいっているようだった。
丈の短いチュニックドレスに、剥きだしの素足にヒールの高いサンダル。青い静脈が網の目のように浮き出している白い足を組んでいるところは、言葉は悪いかもしれないが、いささか異様な眺めだった。
首からはじゃらじゃらとアクセサリ、濃い化粧、二十代の女性なら少しもおかしくない格好なのだが(ただ、おそらくレギンスをはいているだろうが)、どう見ても六十代を過ぎた女性なのである。両隣が空いていたのも、違和感を覚えたのがどうやらわたしだけではなかったせいだろう。
立ったまま、その人の方をちらちらと見ているうちに、着ている人も、その格好をするのに相当りきんで着ているのではないかと思えてきた。二十代なら当たり前の格好でも、六十代となると、自然体では着られないのかもしれない。その人にとっての、一種の「ハレ着」なのかもしれなかった。
わたしたちは日常生活の中で、意識的にも無意識的にも、こう見せたい「自分」を、状況が要求する役割に応じて、さまざまなレベルで演じている。服装とはその意味で「コスチューム」であって、「自分がどんな人間であるか」「どのような役割を与えられているか」を周囲の人に訴える手段でもあるのだ。
実際の自分と「こんな人間ですよ」と訴えたい「自分」のあいだに差がないとき、その人はあまり演技する必要がないので、格好もごく自然なものになる。
ところが「こう見て欲しい自分」と実際の自分のあいだに距離があると、いきおいそこには演出が必要だ。ちょうど戦闘に臨むときのネイティヴ・アメリカンが、顔に隈取りをつけ、羽根飾りを始め、さまざまなアクセサリーをつけるのは、「戦う人」を演じるように。
その演出も、気合いもなく「ハレ着」を着てしまうと、七五三で袴をはかされた男の子のように、服に着られてしまうのだ。
逆にいうと、舞台衣装で身を飾るのは、ふだんの自分を、さまざまなレベルに応じて「失ってみせる」ということでもある。ネイティヴ・アメリカンであれば、顔にさまざまな色を塗り、羽や首飾りをこれでもかとつけることによって、本来の自分を空っぽにし、そうしてある種の聖性に近づこうとしているのだ。
確かに、本来の自分以外の役割を、限られた時間のあいだだけ演じるのは楽しいし、あるいは仕事中は、本来の自分をいくぶんか失う必要がある場合もある。けれどもそういうとき、人は自分が役割についている、ということを意識しているはずだ。
ただ、わたしが電車の中で見た女性は、変装を楽しんでいたのだろうか、と思ってしまった。
最近では、「年相応の格好」という言葉があまり聞かれなくなった。「カワイイから」「好きだから」という理由で、自分が望む格好をしていいという人が増えてきたのかもしれない。わたし自身、かなり力の抜けた格好でどこへでも行ってしまうので、状況が要求する役割を十全に果たしているとはいいがたいから、ちょっと大きな声では言いにくいのだけれど。
この服がカワイイ、と思って選んだその人の脳裡には、六十代の姿かたちをしている自分はいなかったのではないか。仮に試着室で着てみても、鏡の中にその人が見るのは、ありのままの自分の姿ではなく、かつての、その服装に相応する年代の自分ではないのか。
若い頃、こんな服が着たかった。そう思って着ているのなら、それもまあいいのだ。だが、ほんとうにこんなことを考えるのは大きなお世話なのだけれど、ちょうど、舞台の上にいる自分をほんとうの自分と思い込んでしまうようなことが、鏡の前で起こっているのではないかと思ってしまったのだった。
何かを演じるということは、自分をいくばくか、失うことだ。
限られたあいだ、失ってみるのは楽しい。けれどもその分量をまちがえると、恐いことになるような気がする。