陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

書く資格

2010-07-03 23:05:00 | weblog
昨日も書いたのだけれど、街頭でいきなりカメラが自分を映しだし、マイクを向けられて、「日本代表はワールドカップで何勝できると思いますか」などと聞かれて、答えられるものだなあと感心してしまう。もちろん、テレビでは編集してあって、いかにも誰もが進んで答えてくれているように見えても、実際にはそんなふうに答えてくれるのは、十人のうちで一人でもいればいい方なのかもしれない。

ただ、実際の放送では、マイクを向けられても無視する人も、意見など持っていなくて、特に意見はありません、という人も、答えにつまる人も、一切出てこないから、道行く人、すなわち、いわゆる一般人が誰でも、日本の勝ち負けや普天間基地や新しい首相について明確な意見、しかも報道のトーンにぴったりそぐうような意見を持っているかのような印象を受けてしまう。

自分の意見を作るのは、簡単なことではない。
最低限の事実を知っていなければ、どうにもならないし、どうしてそう考えるのかの根拠も必要だ。仮に、誰かの受け売りをしようと思っても、その「誰か」の意見を読んでいなければならないし、それを納得して自分の意見としようと思えば、そのための判断も必要になってくる。

それでも、Webを見ていると、マイクを向けられたわけでもない人が、自発的にニュースについての意見や、映画や本や音楽についての意見を発表している。それはどうしてなのだろう。

ある出来事に遭遇したときや、文学作品や、音楽や映画に感動したとき、わたしたちはひどく勘定が揺さぶられて、何かを書かないではいられなくなるような衝動を感じることがある。おそらくそれは、一瞬で消えてしまうような衝動を、なんとか形にしたい、言葉につなぎ止めたいという願いがあるのだろう。

そうしてこの衝動というのは、刺激を受けて立ち上ってきた「自分」にほかならない。日常のなかでは忘れてしまっている「自分」が、大きな刺激によって不意に立ち現れてくるのだ。つまり、「わたし」という意識は、「わたし」の身体の奥底に、ちょうどパソコンのCPUのように、あるいは自動車のエンジンのようにあって、身体全体を駆動させているのではなく、何らかの刺激にふれた瞬間に立ち上ってくるものなのだ。だからわたしたちはその正体が知りたいし、見きわめたい。だから、移ろいやすいそれを言葉につなぎ止めようとする。

ところが、この衝動というのは、実にあやふやなもので、つかまえかけたと思ったら、どこかへ行ってしまう。いきおい、どこかで見たような、出来合いの言葉におしこめるしかなくなる。何かちがう、どこかちがう、と思いながら、借り物の言葉にむりやり押し込めていくうちに、そのことに違和感を覚えなくなるのかもしれない。窮屈な靴に無理矢理足を押し込んでいるうちに、足の方が変形していくように、立ち上った「わたし」の意識は変形したまま固定されてしまうのかもしれない。


以前、清水義範が何かで、ネットのレビューは読まないと書いていた。書く資格のない者が、延々とネガティヴなことを書いている。それを見ても気分が悪くなるだけだ……といったことだった。

それを読みながらわかる一方で、「書く資格」というのは、いったいどういうことを指すのだろうと考えずにはいられなかった。このわたしには、その資格があるのだろうか、と。

たとえば、ある小説を読んで、この考え方は自分にはどうしても受け入れられないと思ったとする。どうしてそうなのか。さまざまな証拠を集め、理由をできるだけひとりよがりにならないように書いていく。けれども、この意見は、作家に向けてのものではない。すでに書かれている作品を、自分がどうこうすることはできないし、作家に考え方を改めよ、と迫ることもできないだろう。

だとすれば、なぜそれを書くのか。
書くことによって、自分をはっきりさせるために。
それを書いている自分は、いったいどんな意見を持っているのか。いったいどう考えたら良いと思っているのか。

昨日も書いたように、何かを言うことは、あるものが、あるカテゴリーに属すると分類する作業である。頭の中にあるうちは、ばくぜんとしたものでしかなくても、分類先を考えていくうちに、少しずつ確かなものになっていく。

結局レビューというのは、どこまでいってもそういうものだろう。そうして、そうしたものである限り、その人に「書く資格」があるかどうか、ということは、ほとんど問題にはなってこないはずだ。

「書く資格」が問題になるのは、それをほかの誰かに向かって訴えるとき、すなわち、意見を公然化し、自分の意見に責任が生じるときだろう。

そうして、そう考えていくと、「書く資格」というのは、自分が書いたものに対して責任を取れるか否か、自分が書いたものに疑問や批判が寄せられたときに、それに答えることができるか否か、ではないのだろうか。

借り物の言葉や受け売りでは、批判や疑問に答えることはできない。いや、最初は借り物や受け売りでしかなくても、自分の意見として批判や疑問に答えていくたびに、その意見は自分のものとなっていく、ということなのかもしれない。最初は靴の方に無理矢理合わせていても、それを履いて歩いているうちに、靴の方のかたちが少しずつ変わっていくように。

それは、刺激を受けた直後に立ち上った「自分」ではないけれど、そうやって時間をかけて少しずつ形作られていくのもまた、「自分」であるのだろう。