先日、「クレメンティーナ」を訳すとき、最後まで決まらなかったのが、クレメンティーナのしゃべり方だった。彼女が日本語で話し出すとしたら、どんな話し方をすることになるのか、ちっとも「聞こえて」来なかったのだ。
地方から出てきて、東京のお屋敷に奉公することになった十七、八の娘のしゃべり方を、そのままクレメンティーナの言葉にスライドさせることがどこまで当を得たものであるか、という問題は、ひとまず置いておく。わたしがここで言いたいのは、「お屋敷に奉公することになった十七歳の娘」が、どんなしゃべり方をするかがわからなかった、ということだ。
ところで、志賀直哉が太宰治の『斜陽』に関して、座談会の席上で、「閉口したつていふのは、貴族の娘が山だしの女中のやうな言葉を使ふんだ」と批判したのを読んだことがある。その「山だしの女中のやうな言葉」が具体的に『斜陽』の中のどこを指しているのかわからないし、貴族の娘が実際にどんな言葉遣いをしていたのか、わたしには見当もつかないのだが、少なくとも現代のわたしたちにとって『斜陽』に出てくる語り手の、少し古風で、育ちの良さを感じさせる女言葉は、昭和二十年代の上流階級の女性の語りとして、何ら違和感を覚えさせないように思う。
ともかくそんなふうに太宰の語りを批判する志賀直哉だから、「山だしの女中のやうな言葉」にさぞかし通じているだろう、と考えた。
何があったっけ、と考えて思い出したのが、「流行感冒」という短篇である。これは、インフルエンザに感染することを怖れた「私」が、一家に外出禁止を言い渡す。
ところがその村に、ドサ回りの芝居の一座がやってくる。女中たちはそれを見たがるが、主人である「私」は、とんでもない、と行かさない。
ところが女中のひとりはいなくなる。どうやら芝居を見に行ったらしいのだが、問いつめても、行かなかった、と言い張る。嘘をつかれて不快を感じ、暇を出そうとした女中が、一家全員が流感にやられ、寝込んだときに、たったひとり、家事と赤ん坊の子守に献身的に働く、という内容のものである。
その働き者の女中が主要な役割を占める短篇である。きっとさぞかし会話も多いにちがいない、そう思って読み返してみたのだが、話し言葉という意味では、実に参考にならなかった。ちょっと腹が立つくらいである。
主人公一家は千葉の我孫子で生活している。女中の「石」と「きみ」という若い娘は、近在の村の娘である。その石がこんな口調で、朋輩のきみに話しかけるのである。
「こんな日に芝居でも見に行ったら、誰でもきっと風邪をひくわねえ」
誰がしゃべったか書いてなければ、語り手である「私」の妻(奥様)の言葉と見間違えるかもしれない。
まず、千葉というのは、東京からそれほど離れていなくても、かなり言葉が東京都は異なっている。1980年代に千葉の内陸部に行ったことがあるのだが、そこの年配の人たちが話している言葉は、これが日本語か、と絶句するほどのものだった。後に、秋田の仙北郡の訛りのある人と話をしたこともあるけれど、いわゆる東北弁というのが比較的ゆっくりであるのに対し、千葉の方言はおっそろしく早口で、いったいどこで切れるのか、まるで見当がつかず、英語を勉強し始めた当時、ネイティヴのふつうの会話スピードにおよそついていけなかったことを思い出したものだ。
「流行感冒」の中には、石の母親のこんな言葉もある。
「馬鹿な奴で、ご主人様はためを思っていってくれるのを、隣のおかみさんに誘われたとか、おきみさんと三人で、芝居見に行ったりして、今も散々叱言をいったところですが……」
これも、絶対に母親はこんな言葉遣いはしていない、と断言していい。
「我孫子」という地名をはっきり出しているし、しかも冒頭、「最初の児が死んだので」という書き出しを見ると、読者は、この短篇の「私」はおそらく作者志賀直哉の分身であろうと思いながら読み進めるはずだ。そう考えると、場所も時代も特定できる。ならば、登場人物にも土地的にも、社会階層的にも、それにふさわしいしゃべり方をさせるべきではないのか。閉口したつていふのは、山だしの女中が東京の奥様のやうな言葉を使ふんだ、と言い返してやりたいぐらいである。
念のために言っておくと、同じ志賀直哉でも、『清兵衛と瓢箪』という短篇では、登場人物たちは尾道の言葉で会話している。
「えらい大けえ瓢じゃったけのう」
「あの瓢はわしには面白うなかった。かさ張っとるだけじゃ」
「ちょっと、見せてつかあせえな」
拾い上げてみるだけでも、こんな言葉がいきいきと描かれている。小学生のくせに瓢箪集めなどするという奇妙な趣味を持ってしまった清兵衛という男の子のおもしろさのかなりの部分を、この、なんとなく年寄りくさいとも思える尾道弁が占めていることは言うまでもない。
尾道時代の志賀直哉は、ひとり暮らしのために、地元の人びとと交わらざるをえなかった。我孫子時代のように、頻繁に東京と往復することもかなわなかっただろうし、土地の人との交渉は、妻に任せておく、というわけにもいかなかったにちがいない。
土地の言葉をそれらしく書き起こすのはむずかしい。自分が生まれ育った土地ならともかく、のちに移り住んだ土地であっても、その土地に根を下ろさなければ、言葉を習得することはできない。
そう考えると、女中の言葉の例が、なかなか日本の文学作品の中に見つけることができないのも、多くの男性作家が女中との交渉をしてこなかったことの表れなのかもしれない。
地方から出てきて、東京のお屋敷に奉公することになった十七、八の娘のしゃべり方を、そのままクレメンティーナの言葉にスライドさせることがどこまで当を得たものであるか、という問題は、ひとまず置いておく。わたしがここで言いたいのは、「お屋敷に奉公することになった十七歳の娘」が、どんなしゃべり方をするかがわからなかった、ということだ。
ところで、志賀直哉が太宰治の『斜陽』に関して、座談会の席上で、「閉口したつていふのは、貴族の娘が山だしの女中のやうな言葉を使ふんだ」と批判したのを読んだことがある。その「山だしの女中のやうな言葉」が具体的に『斜陽』の中のどこを指しているのかわからないし、貴族の娘が実際にどんな言葉遣いをしていたのか、わたしには見当もつかないのだが、少なくとも現代のわたしたちにとって『斜陽』に出てくる語り手の、少し古風で、育ちの良さを感じさせる女言葉は、昭和二十年代の上流階級の女性の語りとして、何ら違和感を覚えさせないように思う。
ともかくそんなふうに太宰の語りを批判する志賀直哉だから、「山だしの女中のやうな言葉」にさぞかし通じているだろう、と考えた。
何があったっけ、と考えて思い出したのが、「流行感冒」という短篇である。これは、インフルエンザに感染することを怖れた「私」が、一家に外出禁止を言い渡す。
ところがその村に、ドサ回りの芝居の一座がやってくる。女中たちはそれを見たがるが、主人である「私」は、とんでもない、と行かさない。
ところが女中のひとりはいなくなる。どうやら芝居を見に行ったらしいのだが、問いつめても、行かなかった、と言い張る。嘘をつかれて不快を感じ、暇を出そうとした女中が、一家全員が流感にやられ、寝込んだときに、たったひとり、家事と赤ん坊の子守に献身的に働く、という内容のものである。
その働き者の女中が主要な役割を占める短篇である。きっとさぞかし会話も多いにちがいない、そう思って読み返してみたのだが、話し言葉という意味では、実に参考にならなかった。ちょっと腹が立つくらいである。
主人公一家は千葉の我孫子で生活している。女中の「石」と「きみ」という若い娘は、近在の村の娘である。その石がこんな口調で、朋輩のきみに話しかけるのである。
「こんな日に芝居でも見に行ったら、誰でもきっと風邪をひくわねえ」
誰がしゃべったか書いてなければ、語り手である「私」の妻(奥様)の言葉と見間違えるかもしれない。
まず、千葉というのは、東京からそれほど離れていなくても、かなり言葉が東京都は異なっている。1980年代に千葉の内陸部に行ったことがあるのだが、そこの年配の人たちが話している言葉は、これが日本語か、と絶句するほどのものだった。後に、秋田の仙北郡の訛りのある人と話をしたこともあるけれど、いわゆる東北弁というのが比較的ゆっくりであるのに対し、千葉の方言はおっそろしく早口で、いったいどこで切れるのか、まるで見当がつかず、英語を勉強し始めた当時、ネイティヴのふつうの会話スピードにおよそついていけなかったことを思い出したものだ。
「流行感冒」の中には、石の母親のこんな言葉もある。
「馬鹿な奴で、ご主人様はためを思っていってくれるのを、隣のおかみさんに誘われたとか、おきみさんと三人で、芝居見に行ったりして、今も散々叱言をいったところですが……」
これも、絶対に母親はこんな言葉遣いはしていない、と断言していい。
「我孫子」という地名をはっきり出しているし、しかも冒頭、「最初の児が死んだので」という書き出しを見ると、読者は、この短篇の「私」はおそらく作者志賀直哉の分身であろうと思いながら読み進めるはずだ。そう考えると、場所も時代も特定できる。ならば、登場人物にも土地的にも、社会階層的にも、それにふさわしいしゃべり方をさせるべきではないのか。閉口したつていふのは、山だしの女中が東京の奥様のやうな言葉を使ふんだ、と言い返してやりたいぐらいである。
念のために言っておくと、同じ志賀直哉でも、『清兵衛と瓢箪』という短篇では、登場人物たちは尾道の言葉で会話している。
「えらい大けえ瓢じゃったけのう」
「あの瓢はわしには面白うなかった。かさ張っとるだけじゃ」
「ちょっと、見せてつかあせえな」
拾い上げてみるだけでも、こんな言葉がいきいきと描かれている。小学生のくせに瓢箪集めなどするという奇妙な趣味を持ってしまった清兵衛という男の子のおもしろさのかなりの部分を、この、なんとなく年寄りくさいとも思える尾道弁が占めていることは言うまでもない。
尾道時代の志賀直哉は、ひとり暮らしのために、地元の人びとと交わらざるをえなかった。我孫子時代のように、頻繁に東京と往復することもかなわなかっただろうし、土地の人との交渉は、妻に任せておく、というわけにもいかなかったにちがいない。
土地の言葉をそれらしく書き起こすのはむずかしい。自分が生まれ育った土地ならともかく、のちに移り住んだ土地であっても、その土地に根を下ろさなければ、言葉を習得することはできない。
そう考えると、女中の言葉の例が、なかなか日本の文学作品の中に見つけることができないのも、多くの男性作家が女中との交渉をしてこなかったことの表れなのかもしれない。