陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

時計のない人びと

2010-07-06 23:45:24 | weblog
もう少し、時間の話。

『ザ・ホワイトハウス』のシーズン2に、こんなエピソードがあった。
エイズの蔓延するアフリカを代表して、ニンバラ大統領がホワイトハウスを訪れている。その高潔な人柄に惹かれたホワイトハウスのスタッフは、製薬会社の幹部と交渉して、安価なジェネリック薬品をアフリカに供給することを求める。
それに対して、製薬会社の幹部は、そんなことをしても無駄だ、と答える。というのも、抗エイズ薬というのは、服用時間が厳密に定められている、数分の遅れでも、まるで効果がなくなってしまう。ところがアフリカの農村部には、そもそも時計がなく、人びとは時計とは無縁の生活を送っている、というのである。

悲劇的な話ではあるのだけれど、このエピソードは非常に興味深いものだった。
仮に薬と一緒に、アラーム付きの時計を送ったとしても、効果はないだろう。
というのも、時計のない世界で生きる人びとは、時間のとらえ方そのものが、わたしたちとはまるで異なっているから、「ある一定の時間が来ると、薬を飲まなければならない」という考え方も、おそらくは理解できないものだろう。

いま何時か、と、わたしたちは毎日常に、意識のどこかで考えている。
時計のない家はおそらくないだろうし、たとえ時計を持っていなくても携帯電話を開いて、正確な時間を確かめる。

ひとりで暮らしていても、そろそろ寝なくては、と考えたり、もう二時間も過ぎてしまった、と驚いたり、なんとか日々の生活を、時間に即したものにしようとしている。それは、会社に遅れたり、学校に遅れたりすまいとするばかりではない。休暇を取ったときであっても、「十時まで寝てしまった……」と起きる時間を確認するし、特に何もしなければ、「今日は無為に過ごしたなあ」と、空白の時間を振り返ることになる。

逆に、世間の時間から離れ、昼夜逆転の生活を送ったりすると、体の調子がおかしくなったり、精神的にも不安定になったりする。

あたかも、「時間」という目盛りが空中のどこかに漂っているかのような生活をわたしたちは送っている。

昨日もふれた『時間の比較社会学』には、人類学者エドマンド・リーチのこんな文章が引用されている。
われわれは、時間を計ることについて語るが、そうすることはあたかも時間が、計られるのを待っている何か具体的なものかのように考えることである。しかし、実際には、われわれは社会生活における間隔期を創り出すことによって時間を創り出すのである。こうするまでは、計るべき時間は存在しなかったのである。
(エドマンド・リーチ『人類学再考』『時間の比較社会学』からの孫引き)


高浜虚子に「去年今年 貫く棒の如きもの」という句があるが、ここで「棒」のように貫いているのは「連続する時間」のことだろう。つまり、わたしたちの生活は、わたしたちとは無関係に、一定の速さで進行していく時間に貫かれているという意識が、ここにはある。

ところがリーチはそうではない、と指摘する。わたしたちが客観的に「そこにある」と思っている「時間」など、どこにも存在せず「時間を計る」ことによって、逆にわたしたちが「時間」というものを生みだしているのだ、と。

一方、「時間」という概念のない世界もあるという。『時間の比較社会学』から、さらに孫引きを続ける。エヴァンズ=プリチャードは、スーダンに住むヌアー族の「時間」について、つぎのように述べる。
彼らは、我々の言語でいう「時間(タイム)」に相当する表現法をもっていない。そのため、彼らは時間について、我々がするように、それがあたかも実在するもののごとく、経過したり、浪費したり節約したりできるものとしては話さない。彼らは時間と闘ったり、抽象的な時間の経過にあわせて自分の行動の順序を決めねばならない、というような、我々が味わうのと同じ感情を味わうことは絶対にないであろう。なぜなら、彼らの照合点は主として活動そのものであり、活動は一般的性格としてかなり幅をもつものだからである。物事は順序正しく行われているが、正確に行動を合わせねばならないような自律的な照合点は存在しないから、彼らは抽象的な体系によって支配されるということはない。
(エヴァンズ=プリチャード『ヌアー族』『時間の比較社会学』からの孫引き)

確かにこんな世界に生きる人びとに、時計を送ったところで意味がない話だろう。
それでも実際に、時間を前提としないものの考え方がどのようなものか、正直に言うと、わたしにはうまくイメージできない。そのくらい、時間というのは、わたしたちの考え方にしみついてしまっているのだ。

さて、話は急に飛ぶのだが、以前、パソコンのプロバイダ契約を解除された30代の引きこもり男性が、一家全員を殺害する、という事件があった。インターネットの経験がない人にとっては、原因と結果があまりにかけ離れていて、理解を絶する事件なのだろうが、インターネットユーザーなら、その「感じ」は、多少なりとも想像できるのではあるまいか。

自分の部屋に引きこもったまま、外へ出ない人間が、独房に収監されている囚人とちがうのは、インターネットを通じて、外部へとつながっている、という実感があるからだろう。そうして、その「つながっている」という感覚を支えるのは、画面が刻々と移り変わっていくことにあるように思える。ブログが更新されたり、新しい書き込みが加えられたりすることで、確かに、向こうに人がいる、と実感されるのではないか。

こんなとき、わたしたちはしばしば「リアルタイム」という言葉を使う。「はやぶさ」がどうなっているかリアルタイムで追いかける、というふうに。このときの「リアルタイム」とは、あるもののいまある状態を、一瞬の遅れもなく、わたしたちがとらえられる、という意味合いだろう。

反面、わたしたちは目の前にいる相手に対しては「リアルタイム」という言葉は使わない。リアルタイムを共有する、とはいわない。つまり、「リアルタイム」というのは、「リアル」にはとらえられない人やものを、インターネットやテレビの生中継などを通じて、自分とそれとが「同じ時間を共有している」ということを確認することなのだ。

電話で話す、メールする、それはあくまでも私的な関係だ。けれども、インターネットは公的な空間である。どんどん情報が更新されていく、この公的な空間は、虚子にならえば、「棒の如きもの」としてわたしたちに提供されているのではないか。だからこそ、わたしたちはたったひとりでいても、孤独感は感じない。

パソコンの隅には、かならず時計がついている。
そうやって「世界の時間」を教えてくれながら、刻々と更新される画面によって、更新する人がその向こうにいることを教えてくれる。時計は同時に、わたしたちが「同じ時間」という共同体の住人であることを教えてくれるのだ。

時間の概念を持たないヌアー族がパソコンを使えば、どのように感じるのだろうか。