陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

シャーリー・ジャクスン「夏の人びと」その4.

2010-07-15 23:12:43 | 翻訳
その4.

「湖にずっといるつもりなんですって?」新聞とサンドゥイッチの店でマーティン夫人がアリスン夫妻に尋ねた。「あなた方がまだしばらくいるって話を聞いたんだけど?」

「今年のすばらしい天気を心ゆくまで味わいたいんですよ」アリスン氏が答えた。

 マーティン夫人はこの田舎町では比較的新参の部類だった。近隣の農場から、この新聞とサンドウィッチの店に嫁いできてから、夫の死後もここを切り盛りしている。マーティン夫人は瓶に入ったソフト・ドリンクと、目玉焼きと厚切りパンにはさんだオニオン・サンドを出す。店の奥の調理台で料理されたものだ。ときどき、マーティン夫人がサンドウィッチを運んでくると、マーティン夫人用の晩ご飯らしいシチューやポークチョップのおいしそうなにおいが一緒に漂ってくるのだった。

「いままでそんなに長くこっちにいた人はいないと思うけど」とマーティン夫人は言った。「とにかく、レイバー・デイが終わってもいるような人はね」

「ふつう、レイバー・デイってのは、ここを発つ日ってことになってるんだ」それからしばらくして、バブコック氏の店の前で、アリスン家の隣人のホール氏が、家に帰るために車に乗ろうとしている夫妻に声をかけた。「驚いたよ。まだいたなんて」

「そんなにすぐ帰るなんてもったいなくって」とアリスン夫人が言った。ホール氏は五キロほど離れたところに住んでいて、バターと卵を届けてくれていた。ときどき、夜がふける前のホール家の人びとが起きている頃合いに、丘のてっぺんにあるアリスン家のコテージから、一家の明かりが見えた。

「ふつうの人はレイバー・デイが来たら、帰っていくもんだ」とホール氏は重ねて言った。

 家までは遠く、道は悪い。あたりは暗くなり始めていて、アリスン氏は湖沿いの荒れた道を、車を慎重に走らせなければならなかった。夫人の方は、シートに深々と身を沈め、ふたりの日ごろの生活と比べると、あっという間に過ぎていった今日一日の買い物を終えて、心地よくくつろいでいた。新しい耐熱ガラス皿に、半ブッシェルの食べ頃の赤いリンゴ、それに棚の縁を飾るつもりの色とりどりの画鋲の箱が、楽しそうに帰るのを待ちわびている。「家へ帰るのはいいものね」空を背景に、黒々と浮かび上がるコテージが見えてきたところで、夫人はそっとつぶやいた。

「帰るのを延ばすことにして良かったよ」とアリスン氏も賛成した。



 翌朝、アリスン夫人は時間をかけながら、ガラス製耐熱皿を丹精こめて洗った。ただ、チャーリー・ウォルポールはうかつにも、皿の一枚の縁が欠けているのを見逃していたようだが。夫人はいささかもったいないとは思ったが、食べ頃の赤いリンゴをいくつか使って、夕食にアップル・パイを焼くことにした。パイがオーブンに入るころ、アリスン氏は郵便を取りに下りていき、夫人はふたりで丘のてっぺんに植えた小さな芝地にすわって、雲が太陽を急ぎ足で横切るたび、湖面が灰色から青に変わる、息を呑むような色の変化を眺めていた。

 アリスン氏がいくぶん落胆のおももちで戻ってきた。散歩が体に良いといっても、州道沿いの郵便受けまで一キロ半も歩いて行ったあげく、手ぶらで戻らなければならないとなると、上機嫌とはいかない。今朝はニューヨークのデパートからのダイレクトメールとニューヨークの新聞だけだった。新聞は郵便で来るため、発行日から一日から四日遅れで、不規則に届く。そのせいで、アリスン家に新聞が三つ届く日があるかと思うと、まったく来ないこともしばしばだった。

アリスン夫人も夫同様、自分たちが心待ちにしている手紙が来なかったせいでがっかりはしたものの、デパートからの案内は熱心に読み耽った。ニューヨークに戻ったら、何をおいてもウールの毛布のセールをのぞいてみなくては、と頭に刻みつけておく。きょうび、きれいな色で、しかも品物が良いとなると、見つけるのはむずかしいですからね。忘れないようにこの案内状は取っておこうかしら。立ちあがって家に入り、しかるべき場所に保管する手間を考えたあげく、夫人は椅子の傍らの芝生の上に放り出し、眼を半ばつむっって椅子に背をもたせかけた。

「一雨来そうだな」とアリスン氏が眼を細めて空を見上げた。

「作物には恵みの雨ね」アリスン夫人はぽつりと言い、それからふたりは声を上げて笑った。





(この項つづく)





シャーリー・ジャクスン「夏の人びと」その3.

2010-07-14 22:45:35 | 翻訳
その3.

アリスン夫人はガラス製耐熱皿の梱包をしっかりやってくれるよう頼んだ。家まで石ころだらけの山道をガタガタ上っても大丈夫なようにお願いね、と。そうしてチャーリー・ウォルポール氏(彼は弟のアルバートとふたりで金物屋兼洋品店兼雑貨屋を経営していた。店が「ジョンスンズ」という名前なのは、昔、ジョンスン家のロッジだった場所に店が建っていたからだ。ただしそのロッジはチャーリー・ウォルポール氏が生まれる五十年前に、すでに焼けてしまっていたのだが)が広げた新聞紙で皿を念入りにくるんでいるあいだ、アリスン夫人は気安げに話かけた。「もちろん、ニューヨークに戻ってからこんなお皿を買っても良かったの。だけど、今年はもうちょっとこっちにいるつもりだから」

「こっちへいなさるって話は聞いたよ」チャーリー老人はぶるぶるふるえる指で、薄い新聞紙をなんとか一度に一枚だけつまみあげようと苦労しながら、顔も上げず、アリスン夫人に目をやらずに言葉を続けた。「これまで湖にずっといた人の話は聞いたことがないな。レイバー・デイを過ぎたあとはな」

「あのね、それは」アリスン夫人はまるで老人に説明しなければならないかのように、言葉を続けた。「毎年わたしたち、急いでニューヨークに戻ってるでしょう、ほんとはそんなことする必要もないのに。街の秋がどんなだかわかるでしょう」
それからうちとけたようすでチャーリー・ウォルポール氏ににっこりと笑いかけた。

 店主はリズミカルに紐を包みの回りに巻き付けていく。この人はひもをけちってるわね、とアリスン夫人は思い、苛立った表情を見せまいとすぐに目を反らせた。「わたしたち、もうここの人間になったぐらいの気持ちでいるのよ」と言った。「みんなが帰っても、ここに残ってる、っていうんじゃなくて」

それを実際に証明しようと、店の向こうの顔見知りの女に明るい笑顔を向けた。もうせん、この人からイチゴを買ったんだっけ。それとも、ときどき食料品店を手伝っている、バブコック氏の叔母さんだか誰だかかもしれない。

「さてね」チャーリー・ウォルポール氏はそう言って、包みをカウンター越しに少しばかり押し出した。売買契約もつつがなく成立し、きちんと包装もすませたところを見せて、あとは料金をいただくのにやぶさかではない、ということらしい。「さて」と彼は繰りかえした。「これまで夏に来た人は、レイバー・デイを過ぎて、湖に残るようなことはしなさらんかったがなあ」

 アリスン夫人は五ドル札を渡すと、店主は1セント銅貨にいたるまできちんと釣りを返した。「レイバー・デイのあとは、誰もな」店主はそう言うと、アリスン夫人にうなずいてみせてから、落ち着いた足取りで店内を歩いていくと、木綿の普段着を見ていたふたりの女性の相手をした。

 アリスン夫人が店を出ようとしたとき、女のひとりの尖った声が耳に入った。「なんであっちの服が1ドル39セントで、こっちのがたった98セントなの?」

「いい人たちなんだわ」金物屋のドアを出たところで夫と合流したアリスン夫人は、並んで歩道を歩きながら夫に言った。「まじめで分別のある、とっても正直な人たちなのよ」

「気分が良さそうだな。まだこんな田舎町が残っているとわかったからか」とアリスン氏は言った。

「そうね、ニューヨークだったら」とアリスン夫人は言った。「このお皿を数セントは安く買えたかもしれない。だけどただそれだけなのよ。人と人とのふれあいみたいなものはないの」






(この項つづく)




シャーリー・ジャクスン「夏の人びと」その2.

2010-07-13 23:18:56 | 翻訳
その2.

「街に帰らなきゃならない理由なんて、本当は何もないじゃない?」と、あたかも不意に思い立ったかのように、アリスン夫人は真剣なおももちで夫に言った。すると夫の方も、これまでふたりともそんなことは考えたことがなかったような調子で答えた。「それならできるだけ長く田舎暮らしを楽しんでみるか」

 かくして、すっかりうれしくなったばかりか、ちょっとした冒険気分まで味わいながら、アリスン夫人はレイバー・デイの翌日、町へ下りていった。行きつけの店の人びとに、主人とわたしは夏の家に少なくとももう一ヶ月は留まることにしたのよ、と、伝統破壊者たる表情を浮かべ、きっぱりと宣言したのだった。

「別に、街に帰ってすることがないわけじゃないの」と夫人は食料品店の主人のバブコック氏に言った。「楽しめるあいだは楽しんでいいんじゃない? って思っただけ」

「これまでレイバー・デイが過ぎたのに湖から引き上げなかった人は、ひとりもいませんでしたよ」とバブコック氏は言った。アリスン夫人が買った食料品を、大きな段ボール箱に詰めていたが、手を止めてクッキーの袋をしげしげと眺めた。それから「誰もね」と言葉を足した。

「でもね、街ってところはね」アリスン夫人がバブコック氏にニューヨークのことを言おうとすると、決まって相手がいつもそこに行くことを夢見ているかのような口調になってしまうのだった。「とっても暑いのよ――想像もつかないでしょうけど。だからいつもここを離れるときは、残念な気持ちでいっぱいになるの」

「去りがたい思いかね」とバブコック氏は引き取った。ここらへんの人の何より気に障るところは、こっちのちょっとした言葉尻をとらえて、古くさい言い方で繰りかえす癖だわ、と、アリスン夫人は思った。

「わしだって去りがたい思いさね」と、しばらく考え込んだ末にバブコック氏はそう言い、アリスン夫人とふたりで微笑み合った。「だが、レイバー・デイが終わっても湖に残ってた人の話なんざ、聞いたことがないな」

「ええ、そうね、だからわたしたちがやってみようって思ってるのよ」というアリスン夫人の言葉を、バブコック氏は重々しく引き取った。「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ、とな」

 風貌だけだったら――食料品店でバブコック氏との要領を得ない会話を交わしたあとはいつも、アリスン夫人は心の中でつぶやくのである――政治家のダニエル・ウェブスターの銅像のモデルはバブコックさんってだって言ってもいいくらいだけれど、中身ときたら……古き良きニューイングランドのヤンキーの末裔が、どれほど堕落したかを考えると、恐ろしいほどね。車に乗り込みながら、そっくりおなじことをアリスン氏に向かって言うと、アリスン氏はこう答えたのだった。
「何代にも渡って血族結婚を繰りかえしてきたせいだな。もうひとつは土地柄が悪いってことだ」

 今日は遠路はるばる田舎町まで、二週間に一度の、配達してもらえない日用品の買い出しの日だった。一日がかりの仕事で、昼は新聞とソーダを売っている店に立ち寄ってサンドウィッチを食べ、車の後部座席に荷物を山積みにして帰るのだ。

定期的に配達を頼むこともできたのだが、アリスン夫人は、電話ではバブコック氏の店に何があるのか正確なところはわからないと思っていた。おまけに、夫人のあれやこれやの購入品目一覧表には、いつも自分たちには必要ないようなものまで付け加わるのが常だった。たとえば店頭に急に顔を出した地場産の新鮮な野菜や、入荷したばかりのキャンディの袋のようなものが。

今回の買い出しでも、アリスン夫人は金物屋兼衣料品店兼雑貨屋で偶然見つけたガラス製の耐熱皿セットに心奪われた。まるでほかの誰でもない、アリスン夫人をそこで待っていたかのようだったのだ。

なにしろ田舎の人ときたら、木や石や空と同じくらい長持ちしそうにないものに対しては、何に寄らず不信の目で眺めるのだから。ちかごろやっと鉄製の耐熱皿の代わりにアルミ製それを、おそるおそる使い始めたところだ。きっとここには、鉄製品が気に入って、堅焼き陶器を使わなくなったころのことを覚えている人がいるにちがいない。





(この項つづく)




シャーリー・ジャクスン「夏の人びと」

2010-07-12 23:26:29 | 翻訳
今日からしばらくシャーリー・ジャクスンの1950年に発表された短篇 "The Summer People" を訳していきます。のちに一幕ものの戯曲にもなりました。

ほかのことをやりながら訳しているので、遅々としたスピードですが、もたもた読むのがまだるっこしい、という方は、一週間か十日くらいして、またのぞいてみてください。

(※以前に見たときはオンラインでフルテキストが読めたのですが、いまはそのページがなくなってしまいました。)

The Summer People

by Shirley Jackson


その1.


アリスン家のコテージは、一番近い町からも10キロほど離れた丘のてっぺんに、ちょこんと建っていた。三方の斜面は、夏の盛りでも干からびたりしおれたりしない針葉樹林や草むらでおおわれ、残る一方は湖が見下ろせた。湖にはアリスン夫妻が長年に渡って修繕を繰りかえしてきた桟橋が突き出し、玄関からも、横手のベランダからも、そこから湖まで続く木の階段のどこからでも、湖の眺望が楽しめた。

アリスン夫妻は夏の家がことのほか気に入っており、初夏ともなれば、ここへ来る日を指折り数えて待つのが常だったし、秋の訪れとともに離れなければならなくなると、ひとしきり残念がっていたけれど、かといってわざわざそこを、もっと住み心地良くしようとは思わなかった。自分たちに残された年月を考えれば、この家と湖があるだけで、住み心地はもう十分だと考えていたからだ。

夏の家にはガス設備もなかったし、水も、裏庭のポンプで汲みあげる分だけで、電気も来ていなかった。十七年のあいだ、夏になるとジャネット・アリスンは石油コンロで料理をし、水はすべて煮沸してから使用していた。ロバート・アリスンは毎日井戸からポンプで水をくみ上げ、バケツで何度も運んだ。夜になると新聞を石油ランプの明かりで読み、ふたりとも衛生的な都会人だったのだが、屋外トイレを無頓着かつ事務的に使用していた。

最初の二年ばかりは、屋外トイレにまつわる寄席や雑誌で仕入れた小話を披露し合ったが、いまではそれにひるむような訪問客もなくなり、屋外トイレも井戸や石油コンロと同様、なんとはなしに自分たちの夏の日々を彩るものとして、いつのまにか馴染んでしまったのだった。

 アリスン夫妻自身は、ごくふつうの人びとだった。夫人は五十八歳で、夫のアリスン氏は六十歳である。子供たちは一緒に夏の家に来るには大きくなり過ぎ、いまはそれぞれの家族とともに、海辺へ避暑に出かけていく。友人の多くは亡くなったか、一年中快適な土地に引っ込むかで、甥や姪たちとはつきあいもなくなっていた。

冬のあいだ、ふたりはニューヨークのアパートメントで、夏が来るまでの辛抱だ、と言い合い、夏になれば、ここに来るのを待ちわびている冬というのも悪くないものですね、と話す。

 もはや自分たちが習慣の奴隷であることに気が引けるような歳でもなかったから、アリスン夫妻は毎年、レイバー・デイ(※9月の第1月曜日)の翌日の火曜日に夏の家を引き上げることに決めていた。それでいて、九月から十月初旬のあいだは、天気が良かろうものなら、都会での生活が耐えがたいまでに味気なく思え、離れたことを後悔するのが常だった。毎年、ニューヨークで自分たちを待つものは何ひとつないと知ってはいたのだが、レイバー・デイが過ぎて、夏の家に留まろうとは思わなかったのだ。ところがついに今年、久しい間の惰性をうち破ろうと決心したのである。




(この項つづく)



愛のための結婚

2010-07-10 23:39:33 | weblog
「クレメンティーナ」の中に、アメリカに留まりたいクレメンティーナが、牛乳配達の老人と結婚しようとする場面がある。それを反対する主人に、クレメンティーナは「もし人が愛のために結婚するというなら、この世は生活の場ではなくて、頭のおかしな人を収容する病院ってことになるんじゃないのでしょうか。」と言い返す。愛していなければ結婚してはならないという主人のことを、「シニョーレは目に星がキラキラしてる男の子みたいな話をしていらっしゃいます」とまで言う。

そうして、愛のために結婚したふたりは、愛のために離婚した。クレメンティーナは、ほら、わたしの言った通りになった……と思う代わりに、彼らの喪失を悲しむ。平和な一家は、同時に、クレメンティーナが心に抱く理想像として、クレメンティーナのものでもあったからだ。

さて、アメリカ人と話をしていて驚くのは、離婚率の高さである。たいてい、身内の何人かが離婚経験者だし、離婚した両親がそれぞれ再婚していて、義理まで含めればきょうだいが11人という人もいれば、いまのパートナーが三度目の結婚相手という人もいる。日本人の友人のなかに、離婚経験者がいて、離婚に至るまでのプロセスを、あれは疲れる、あんなに疲れることはもうこりごり、と、感に堪えたような言い方をしていたのに比べると、肉ばっかり食ってるやつらは体力あるなあ……、と思わないでもない。

ただ、根底にあるのは「クレメンティーナ」同様、愛し合っているから結婚する、愛がなくなれば別れる、という、一種の恋愛至上主義である。

ただ、恋愛というのは、感情の一種であって、物理的なものではない。つまりは「優しさ」や「冷たさ」が眼に見えたり、量で量られたりするものではないように、あったり、増えたり、減ったり、なくなったりするものではないのだ。

おまけに、わたしたちは大きな問題を抱えているときでも、空腹を感じたり、疲労を感じたり、そればかりかさっきすれちがった人が、いやな目つきでこちらを見ていたけれど、あれはどういう意味なのだろうか、などと、些細なことが気にかかったりもする。
その中で、「恋愛」という感情だけを取り出して、それが、たとえば「経済的安定」とか、「滞留資格」とかが不純物として除去することができるのだろうか。

クレメンティーナが言う「もし人が愛のために結婚するというなら、この世は生活の場ではなくて、頭のおかしな人を収容する病院ってことになるんじゃないのでしょうか」というのは、愛という感情だけを純粋に持ち続けている人がいない以上、確かにそのとおりなのだ。

そういえば高校の頃、好きだと言われて上級生とつきあうようになった子に対して、あなた、あの先輩のことなんて、告白されるまで、好きでも何でもなかったんでしょ、と責めるように言っていた子がいた。あの先輩が好きなんじゃなくて、バスケ部のポイントゲッターのカノジョになりたかっただけよ、と。

その話を聞きながら、だったら彼女の考える「純粋な気持ち」というのは、人知れず、相手にも知られないまま、胸の内で育てることだけしかないのではないか、と思ったものだった。さまざまな関係の中で生きているわたしたちは、「バスケ部のポイントゲッター」という要素を、その人から切り離すわけにはいかない。

「クレメンティーナ」でも、もしジョーが老人ではなく、せめて四十代の男性であれば、主人も反対しなかったように思う。つまり、主人が問題にしているのは、実は単に「釣り合わない」というだけで、こう考えると「愛し合う」ということすらも、実は相当にいい加減なのだ。

愛し合って結ばれるふたり、というのが、別に幻想だ、というつもりはないが、そうでなければ幸福にはなれない、というのもずいぶん不思議な話だ。人間の感情というのが、さまざまな種類のものがからまりあい、刺激に応じて、ある種の部分が増幅したり、後景化したりして、つねに流動するものだということをわきまえておけば、「愛ゆえに結婚する」などということは言えなくなってしまうだろう。

まあ、それが良いことかどうかはわからないのだけれど。




正直な身体

2010-07-08 23:31:06 | weblog
雑踏を歩いていると、たまに人とぶつかることがある。そんなときには雑踏であることをお互い意識しているから、ぶつかるといっても、軽く肩や上腕の一部がふれるくらいで、すいません、とぶつかり際に軽く一言、言うか言わないかのうちに、すでに双方はすれちがっている。

ところがごくたまに、どしん、と正面からぶつかってくる人がいる。それも、たいていの人は、ぶつかった拍子に、意識しなくても、瞬間的にさっと身を引くようになっていると思うのだけれど、どしんとぶつかってくる人のなかには、身を引けない人がいて、そんなときにはこちらの身体に、相手の身体がべたっとぶつかってきて、特に暑い季節だったりすると、不快なことこの上ない。

こういう人は、きっと身体感覚が鈍いのだろうと思う。

ぶつかった瞬間、人間の身体というのは、とっさにひるむものだ。小さくなるというか。
それに対して、誰かを抱きしめたり、抱きしめられたりするとき、特に、それが心を許している相手だったりすると、全身の緊張はゆるみ、表面積を広くして、少しでも相手の身体との接触面を増やそうとする。
頭で考えるのではなく、身体がそう反応するのだ。

わたしは昔から、身体にふれられるのがどちらかというと苦手な方で、肩を組まれたり腕を組まれたりされると、仲の良い相手でも、ちょっと、と思うことが多い。アメリカに行ったとき、最初は、何かあるとハグされるのには困った。ぎゅっと抱きしめるばかりか、相手が女性だと、頬や耳元にぶちゅっとキスまでされてしまう。どうしたものだろう、と頭を抱えた。

それで、編み出した解決法が、こちらから先にハグしてしまうやり方だ。
自分の方から腕を広げて、相手にがっと腕を回す。腕に力を入れて肩をぶつけるようにして、逆に、相手と自分の胸を合わさないようにするのだ。そうすることで、いかにも親密なハグをしているようで、実際にはあまり身体を接触させずにすんで、なかなか具合のよいハグができるのだった。

この方式を編み出して以来、わたしはいつも、このハグで乗り切ることにしている。ガッとハグして、肩を片方だけ合わせ、背中をぽんぽんと叩いて、やあやあ、と挨拶して、ぱっと離れるのである。大変男らしいハグだ、と言われたこともある。

されたくないときは、こちらからそれをしかけて、自分のペースでそれをすること。わたしはアメリカで「攻撃は最大の防御」ということを学んだのだ。

まあ、太ったおばさんの大きな胸に抱きしめられるのは、確かにそれだけで安心するものだな、と思ったこともあるのだけれど。


それからしばらくして、まだ野茂がメジャーリーグにいたころ、テレビの衛星放送で、メジャーの野球中継を見たことがある。
試合が終わって、野茂がチームメイトにハグされるのを見たことがある。いかにもハグが苦手らしく、顔をできるだけ相手から遠ざけようとしていた野茂は、身体を反らしたせいで逆に相手と胸がぴったり合って、まるで胴締めされているようだった。日本人がハグされると、よくなりがちなパターンである。

それがおもしろくて、しばらくメジャーリーグの一員となった日本人選手のハグばかり観察していたのだが、佐々木のハグは、アメリカ人と混じって一切遜色なく(遜色のないハグというのも変な表現だが)、この人はほんとうに違和感なくここで生活しているのだな、と思ったものだった。わたしのように意識的にしているのではなく、自然に相手に反応するがごとくのハグである。おそらくこの人は、身体感覚の順応性の高い、すぐに相手に同期できる人なのだろうと思ったものだった。

変だったのは、伊良部のハグで、身体が三分の二くらい横にずれ、顔はそっぽを向いていた。手を相手には回してはいるのだけれど、相手も見ていない、相手の身体も感じていない、やってりゃあいいんだろ、みたいな、失礼なハグだった。この人は、自分が一緒にやっている相手をチームメイトと見なしていないにちがいない、と思ったのである。

なんというか、身体の反応というのは、そのくらい正直なのだ。頭ではこうすべき、と思ってみても、身体はいうことをきかない。文字通り全身で、頭の命令に反抗する。

人にぶつかってもさっと身をひくことができない、べたっとぶつかってしまう人は、自分が他者の身体に取り囲まれているということを、身体で認識していない人なのだと思う。

「空気が読めない」「KY」などという言葉をあちこちで耳にしていたころは、この言葉を悪く言う人の方が多かったように思うが、何のことはない、人間は昔から場の空気を読んできたのだ。足を一歩踏み入れるだけで、その場の空気がどんなものかわかっていたし、場によって態度も言葉遣いも変えてきた。

ただそれが、ことさらに言われるようになったのは、身体感覚が鈍くなり、言葉で説明されなければわからない人が増えてきたからなのかもしれない。わざわざ「KY」などと言われなければならなかったのは、身体が空気を感じるのではなく、文字通り、言葉として読め、という意味だったのだろうか。



女中さんの言葉

2010-07-07 23:40:16 | weblog
先日、「クレメンティーナ」を訳すとき、最後まで決まらなかったのが、クレメンティーナのしゃべり方だった。彼女が日本語で話し出すとしたら、どんな話し方をすることになるのか、ちっとも「聞こえて」来なかったのだ。

地方から出てきて、東京のお屋敷に奉公することになった十七、八の娘のしゃべり方を、そのままクレメンティーナの言葉にスライドさせることがどこまで当を得たものであるか、という問題は、ひとまず置いておく。わたしがここで言いたいのは、「お屋敷に奉公することになった十七歳の娘」が、どんなしゃべり方をするかがわからなかった、ということだ。

ところで、志賀直哉が太宰治の『斜陽』に関して、座談会の席上で、「閉口したつていふのは、貴族の娘が山だしの女中のやうな言葉を使ふんだ」と批判したのを読んだことがある。その「山だしの女中のやうな言葉」が具体的に『斜陽』の中のどこを指しているのかわからないし、貴族の娘が実際にどんな言葉遣いをしていたのか、わたしには見当もつかないのだが、少なくとも現代のわたしたちにとって『斜陽』に出てくる語り手の、少し古風で、育ちの良さを感じさせる女言葉は、昭和二十年代の上流階級の女性の語りとして、何ら違和感を覚えさせないように思う。

ともかくそんなふうに太宰の語りを批判する志賀直哉だから、「山だしの女中のやうな言葉」にさぞかし通じているだろう、と考えた。

何があったっけ、と考えて思い出したのが、「流行感冒」という短篇である。これは、インフルエンザに感染することを怖れた「私」が、一家に外出禁止を言い渡す。
ところがその村に、ドサ回りの芝居の一座がやってくる。女中たちはそれを見たがるが、主人である「私」は、とんでもない、と行かさない。

ところが女中のひとりはいなくなる。どうやら芝居を見に行ったらしいのだが、問いつめても、行かなかった、と言い張る。嘘をつかれて不快を感じ、暇を出そうとした女中が、一家全員が流感にやられ、寝込んだときに、たったひとり、家事と赤ん坊の子守に献身的に働く、という内容のものである。

その働き者の女中が主要な役割を占める短篇である。きっとさぞかし会話も多いにちがいない、そう思って読み返してみたのだが、話し言葉という意味では、実に参考にならなかった。ちょっと腹が立つくらいである。

主人公一家は千葉の我孫子で生活している。女中の「石」と「きみ」という若い娘は、近在の村の娘である。その石がこんな口調で、朋輩のきみに話しかけるのである。

「こんな日に芝居でも見に行ったら、誰でもきっと風邪をひくわねえ」

誰がしゃべったか書いてなければ、語り手である「私」の妻(奥様)の言葉と見間違えるかもしれない。

まず、千葉というのは、東京からそれほど離れていなくても、かなり言葉が東京都は異なっている。1980年代に千葉の内陸部に行ったことがあるのだが、そこの年配の人たちが話している言葉は、これが日本語か、と絶句するほどのものだった。後に、秋田の仙北郡の訛りのある人と話をしたこともあるけれど、いわゆる東北弁というのが比較的ゆっくりであるのに対し、千葉の方言はおっそろしく早口で、いったいどこで切れるのか、まるで見当がつかず、英語を勉強し始めた当時、ネイティヴのふつうの会話スピードにおよそついていけなかったことを思い出したものだ。

「流行感冒」の中には、石の母親のこんな言葉もある。

「馬鹿な奴で、ご主人様はためを思っていってくれるのを、隣のおかみさんに誘われたとか、おきみさんと三人で、芝居見に行ったりして、今も散々叱言をいったところですが……」

これも、絶対に母親はこんな言葉遣いはしていない、と断言していい。
「我孫子」という地名をはっきり出しているし、しかも冒頭、「最初の児が死んだので」という書き出しを見ると、読者は、この短篇の「私」はおそらく作者志賀直哉の分身であろうと思いながら読み進めるはずだ。そう考えると、場所も時代も特定できる。ならば、登場人物にも土地的にも、社会階層的にも、それにふさわしいしゃべり方をさせるべきではないのか。閉口したつていふのは、山だしの女中が東京の奥様のやうな言葉を使ふんだ、と言い返してやりたいぐらいである。

念のために言っておくと、同じ志賀直哉でも、『清兵衛と瓢箪』という短篇では、登場人物たちは尾道の言葉で会話している。

「えらい大けえ瓢じゃったけのう」
「あの瓢はわしには面白うなかった。かさ張っとるだけじゃ」
「ちょっと、見せてつかあせえな」

拾い上げてみるだけでも、こんな言葉がいきいきと描かれている。小学生のくせに瓢箪集めなどするという奇妙な趣味を持ってしまった清兵衛という男の子のおもしろさのかなりの部分を、この、なんとなく年寄りくさいとも思える尾道弁が占めていることは言うまでもない。

尾道時代の志賀直哉は、ひとり暮らしのために、地元の人びとと交わらざるをえなかった。我孫子時代のように、頻繁に東京と往復することもかなわなかっただろうし、土地の人との交渉は、妻に任せておく、というわけにもいかなかったにちがいない。

土地の言葉をそれらしく書き起こすのはむずかしい。自分が生まれ育った土地ならともかく、のちに移り住んだ土地であっても、その土地に根を下ろさなければ、言葉を習得することはできない。

そう考えると、女中の言葉の例が、なかなか日本の文学作品の中に見つけることができないのも、多くの男性作家が女中との交渉をしてこなかったことの表れなのかもしれない。




時計のない人びと

2010-07-06 23:45:24 | weblog
もう少し、時間の話。

『ザ・ホワイトハウス』のシーズン2に、こんなエピソードがあった。
エイズの蔓延するアフリカを代表して、ニンバラ大統領がホワイトハウスを訪れている。その高潔な人柄に惹かれたホワイトハウスのスタッフは、製薬会社の幹部と交渉して、安価なジェネリック薬品をアフリカに供給することを求める。
それに対して、製薬会社の幹部は、そんなことをしても無駄だ、と答える。というのも、抗エイズ薬というのは、服用時間が厳密に定められている、数分の遅れでも、まるで効果がなくなってしまう。ところがアフリカの農村部には、そもそも時計がなく、人びとは時計とは無縁の生活を送っている、というのである。

悲劇的な話ではあるのだけれど、このエピソードは非常に興味深いものだった。
仮に薬と一緒に、アラーム付きの時計を送ったとしても、効果はないだろう。
というのも、時計のない世界で生きる人びとは、時間のとらえ方そのものが、わたしたちとはまるで異なっているから、「ある一定の時間が来ると、薬を飲まなければならない」という考え方も、おそらくは理解できないものだろう。

いま何時か、と、わたしたちは毎日常に、意識のどこかで考えている。
時計のない家はおそらくないだろうし、たとえ時計を持っていなくても携帯電話を開いて、正確な時間を確かめる。

ひとりで暮らしていても、そろそろ寝なくては、と考えたり、もう二時間も過ぎてしまった、と驚いたり、なんとか日々の生活を、時間に即したものにしようとしている。それは、会社に遅れたり、学校に遅れたりすまいとするばかりではない。休暇を取ったときであっても、「十時まで寝てしまった……」と起きる時間を確認するし、特に何もしなければ、「今日は無為に過ごしたなあ」と、空白の時間を振り返ることになる。

逆に、世間の時間から離れ、昼夜逆転の生活を送ったりすると、体の調子がおかしくなったり、精神的にも不安定になったりする。

あたかも、「時間」という目盛りが空中のどこかに漂っているかのような生活をわたしたちは送っている。

昨日もふれた『時間の比較社会学』には、人類学者エドマンド・リーチのこんな文章が引用されている。
われわれは、時間を計ることについて語るが、そうすることはあたかも時間が、計られるのを待っている何か具体的なものかのように考えることである。しかし、実際には、われわれは社会生活における間隔期を創り出すことによって時間を創り出すのである。こうするまでは、計るべき時間は存在しなかったのである。
(エドマンド・リーチ『人類学再考』『時間の比較社会学』からの孫引き)


高浜虚子に「去年今年 貫く棒の如きもの」という句があるが、ここで「棒」のように貫いているのは「連続する時間」のことだろう。つまり、わたしたちの生活は、わたしたちとは無関係に、一定の速さで進行していく時間に貫かれているという意識が、ここにはある。

ところがリーチはそうではない、と指摘する。わたしたちが客観的に「そこにある」と思っている「時間」など、どこにも存在せず「時間を計る」ことによって、逆にわたしたちが「時間」というものを生みだしているのだ、と。

一方、「時間」という概念のない世界もあるという。『時間の比較社会学』から、さらに孫引きを続ける。エヴァンズ=プリチャードは、スーダンに住むヌアー族の「時間」について、つぎのように述べる。
彼らは、我々の言語でいう「時間(タイム)」に相当する表現法をもっていない。そのため、彼らは時間について、我々がするように、それがあたかも実在するもののごとく、経過したり、浪費したり節約したりできるものとしては話さない。彼らは時間と闘ったり、抽象的な時間の経過にあわせて自分の行動の順序を決めねばならない、というような、我々が味わうのと同じ感情を味わうことは絶対にないであろう。なぜなら、彼らの照合点は主として活動そのものであり、活動は一般的性格としてかなり幅をもつものだからである。物事は順序正しく行われているが、正確に行動を合わせねばならないような自律的な照合点は存在しないから、彼らは抽象的な体系によって支配されるということはない。
(エヴァンズ=プリチャード『ヌアー族』『時間の比較社会学』からの孫引き)

確かにこんな世界に生きる人びとに、時計を送ったところで意味がない話だろう。
それでも実際に、時間を前提としないものの考え方がどのようなものか、正直に言うと、わたしにはうまくイメージできない。そのくらい、時間というのは、わたしたちの考え方にしみついてしまっているのだ。

さて、話は急に飛ぶのだが、以前、パソコンのプロバイダ契約を解除された30代の引きこもり男性が、一家全員を殺害する、という事件があった。インターネットの経験がない人にとっては、原因と結果があまりにかけ離れていて、理解を絶する事件なのだろうが、インターネットユーザーなら、その「感じ」は、多少なりとも想像できるのではあるまいか。

自分の部屋に引きこもったまま、外へ出ない人間が、独房に収監されている囚人とちがうのは、インターネットを通じて、外部へとつながっている、という実感があるからだろう。そうして、その「つながっている」という感覚を支えるのは、画面が刻々と移り変わっていくことにあるように思える。ブログが更新されたり、新しい書き込みが加えられたりすることで、確かに、向こうに人がいる、と実感されるのではないか。

こんなとき、わたしたちはしばしば「リアルタイム」という言葉を使う。「はやぶさ」がどうなっているかリアルタイムで追いかける、というふうに。このときの「リアルタイム」とは、あるもののいまある状態を、一瞬の遅れもなく、わたしたちがとらえられる、という意味合いだろう。

反面、わたしたちは目の前にいる相手に対しては「リアルタイム」という言葉は使わない。リアルタイムを共有する、とはいわない。つまり、「リアルタイム」というのは、「リアル」にはとらえられない人やものを、インターネットやテレビの生中継などを通じて、自分とそれとが「同じ時間を共有している」ということを確認することなのだ。

電話で話す、メールする、それはあくまでも私的な関係だ。けれども、インターネットは公的な空間である。どんどん情報が更新されていく、この公的な空間は、虚子にならえば、「棒の如きもの」としてわたしたちに提供されているのではないか。だからこそ、わたしたちはたったひとりでいても、孤独感は感じない。

パソコンの隅には、かならず時計がついている。
そうやって「世界の時間」を教えてくれながら、刻々と更新される画面によって、更新する人がその向こうにいることを教えてくれる。時計は同時に、わたしたちが「同じ時間」という共同体の住人であることを教えてくれるのだ。

時間の概念を持たないヌアー族がパソコンを使えば、どのように感じるのだろうか。




「早くしなさい」と言ってしまうわけ

2010-07-05 23:11:29 | weblog
先日、何かで読んだのだけれど、子供のいるお母さんが、子供に向かって言う言葉のなかで、一番使用頻度が高いのが、「早くしなさい」という言葉なのだそうだ。

なぜ早くしなければならないか、という問いに、「時間を守らなければならないから」とか、「自分が遅れることによって、ほかの人に迷惑をかけることになるから」などという理由をあげることは可能だ。可能だけれど、実際、ほんとうにそうなのか、と考えてみると、結構よくわからなくなってくる。

たとえば、宮本常一の『忘れられた日本人』のなかに出てくるような「寄り合い」は、朝早くホラ貝が鳴り、寄り合いの招集がかけられる。朝から始まった寄り合いは、夜になっても終わらず、明け方まで続き、つぎの日も続いていく。村の男衆が全員集まって、三日間に渡って、とことん話し合うのである。

この本が出版されたのが1960年、その頃でさえ「忘れられた」集会様式だから、およそいまの時代にはそぐわないものだ。それでも、そういう話し合い方もある。そんな社会では、お母さんは子供に「早くしなさい」とは言わないだろう。

なぜ、わたしたちはそうではないライフスタイルを選んでしまったのか。
…ベンジャミン・フランクリンの「時は金なり」という生活信条をまつまでもなく、時間を費やす、時間をかせぐ、時間をむだにする、時間を浪費する、時間を節約する等々といった時間の動詞自体が、市民社会の〈功利的実践〉(…)の日常感覚における時間と貨幣との(…)同致をすでに物語っている。
(真木悠介『時間の比較社会学』岩波書店)

わたしたちはこのように、貨幣のレトリックを使って、時間を測っている。つまり、目には見えない時間を、「お金」にたとえながら、把握しているというのだ。

その結果、思わぬ効果が生まれてしまう。貨幣と時間をおなじ言葉を使って考えているうちに、時間の貨幣化が起こってしまう。ちょうど「貨幣は多いほどよい」から、「時間も多いほどよい」へと、思考が横滑りしてしまうのである。

「時は金なり」だけではない。「早起きは三文の得」もそうだ。経済優先の社会に生きるわたしたちは、お金を貯め、効率的に使うことを最善とするように、時間を貯め、効率的に使うことを最善と考えている。

だが、そうではない考え方もある。
実際に、そういう生き方をしていた人びともいる。

「そうではない考え方」を知ることで、わたしたちは自分たちが無意識に陥っている思考の癖に気がつくことができる。

「早くしなさい」とつい、言ってしまうのも、母親の無意識の焦りが言わせているのだとしたら、その焦りがいったいどこから来ているのか知っておくことは、意味があるのではあるまいか。




書く資格

2010-07-03 23:05:00 | weblog
昨日も書いたのだけれど、街頭でいきなりカメラが自分を映しだし、マイクを向けられて、「日本代表はワールドカップで何勝できると思いますか」などと聞かれて、答えられるものだなあと感心してしまう。もちろん、テレビでは編集してあって、いかにも誰もが進んで答えてくれているように見えても、実際にはそんなふうに答えてくれるのは、十人のうちで一人でもいればいい方なのかもしれない。

ただ、実際の放送では、マイクを向けられても無視する人も、意見など持っていなくて、特に意見はありません、という人も、答えにつまる人も、一切出てこないから、道行く人、すなわち、いわゆる一般人が誰でも、日本の勝ち負けや普天間基地や新しい首相について明確な意見、しかも報道のトーンにぴったりそぐうような意見を持っているかのような印象を受けてしまう。

自分の意見を作るのは、簡単なことではない。
最低限の事実を知っていなければ、どうにもならないし、どうしてそう考えるのかの根拠も必要だ。仮に、誰かの受け売りをしようと思っても、その「誰か」の意見を読んでいなければならないし、それを納得して自分の意見としようと思えば、そのための判断も必要になってくる。

それでも、Webを見ていると、マイクを向けられたわけでもない人が、自発的にニュースについての意見や、映画や本や音楽についての意見を発表している。それはどうしてなのだろう。

ある出来事に遭遇したときや、文学作品や、音楽や映画に感動したとき、わたしたちはひどく勘定が揺さぶられて、何かを書かないではいられなくなるような衝動を感じることがある。おそらくそれは、一瞬で消えてしまうような衝動を、なんとか形にしたい、言葉につなぎ止めたいという願いがあるのだろう。

そうしてこの衝動というのは、刺激を受けて立ち上ってきた「自分」にほかならない。日常のなかでは忘れてしまっている「自分」が、大きな刺激によって不意に立ち現れてくるのだ。つまり、「わたし」という意識は、「わたし」の身体の奥底に、ちょうどパソコンのCPUのように、あるいは自動車のエンジンのようにあって、身体全体を駆動させているのではなく、何らかの刺激にふれた瞬間に立ち上ってくるものなのだ。だからわたしたちはその正体が知りたいし、見きわめたい。だから、移ろいやすいそれを言葉につなぎ止めようとする。

ところが、この衝動というのは、実にあやふやなもので、つかまえかけたと思ったら、どこかへ行ってしまう。いきおい、どこかで見たような、出来合いの言葉におしこめるしかなくなる。何かちがう、どこかちがう、と思いながら、借り物の言葉にむりやり押し込めていくうちに、そのことに違和感を覚えなくなるのかもしれない。窮屈な靴に無理矢理足を押し込んでいるうちに、足の方が変形していくように、立ち上った「わたし」の意識は変形したまま固定されてしまうのかもしれない。


以前、清水義範が何かで、ネットのレビューは読まないと書いていた。書く資格のない者が、延々とネガティヴなことを書いている。それを見ても気分が悪くなるだけだ……といったことだった。

それを読みながらわかる一方で、「書く資格」というのは、いったいどういうことを指すのだろうと考えずにはいられなかった。このわたしには、その資格があるのだろうか、と。

たとえば、ある小説を読んで、この考え方は自分にはどうしても受け入れられないと思ったとする。どうしてそうなのか。さまざまな証拠を集め、理由をできるだけひとりよがりにならないように書いていく。けれども、この意見は、作家に向けてのものではない。すでに書かれている作品を、自分がどうこうすることはできないし、作家に考え方を改めよ、と迫ることもできないだろう。

だとすれば、なぜそれを書くのか。
書くことによって、自分をはっきりさせるために。
それを書いている自分は、いったいどんな意見を持っているのか。いったいどう考えたら良いと思っているのか。

昨日も書いたように、何かを言うことは、あるものが、あるカテゴリーに属すると分類する作業である。頭の中にあるうちは、ばくぜんとしたものでしかなくても、分類先を考えていくうちに、少しずつ確かなものになっていく。

結局レビューというのは、どこまでいってもそういうものだろう。そうして、そうしたものである限り、その人に「書く資格」があるかどうか、ということは、ほとんど問題にはなってこないはずだ。

「書く資格」が問題になるのは、それをほかの誰かに向かって訴えるとき、すなわち、意見を公然化し、自分の意見に責任が生じるときだろう。

そうして、そう考えていくと、「書く資格」というのは、自分が書いたものに対して責任を取れるか否か、自分が書いたものに疑問や批判が寄せられたときに、それに答えることができるか否か、ではないのだろうか。

借り物の言葉や受け売りでは、批判や疑問に答えることはできない。いや、最初は借り物や受け売りでしかなくても、自分の意見として批判や疑問に答えていくたびに、その意見は自分のものとなっていく、ということなのかもしれない。最初は靴の方に無理矢理合わせていても、それを履いて歩いているうちに、靴の方のかたちが少しずつ変わっていくように。

それは、刺激を受けた直後に立ち上った「自分」ではないけれど、そうやって時間をかけて少しずつ形作られていくのもまた、「自分」であるのだろう。