陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

素人下宿の話

2010-07-30 00:18:13 | weblog
『こころ』の中に、「素人下宿」という言葉が出てくる。商売として下宿屋をやっているのではなく、知り合いや知り合いの紹介がある人をひとりふたり、下宿させている普通の家のことだ。

これに対して、素人のつかない下宿屋が、かつてはあった。いまの学生は、学生専用アパートのようなところで生活しているから、下宿屋自体がいまはもうほとんどなくなってしまっているのだろう。

大学時代、わたしは学生寮に住んでいて、下宿屋というところで生活した経験はないのだが、それでも何人かはそんな下宿屋で生活する友だちがいた(当時のことは「家のある風景」の「3.家出少女たち」で書いている)。

いまの学生アパートしか知らない人にはちょっと想像もつかないだろうが(何か、年寄り臭い書き方だなあ)、大家さんと同じ家の中で、風呂やトイレを「使わせてもらっている」という生活は、さぞかし気を遣うものだったにちがいない。明治時代は先生のように、大家さん一家と親しく行き来するのはよくあることだったのかもしれないが、わたしの友だちのところでは、日ごろ、ほとんど行き来はなく、話をするのはもっぱら電話が長いとか、音楽の音がやかましいとかで苦情を言われるのに限られていたようだ。

わたしがそういうところに住みたくなかったのは、事前にそんなことを知っていたからではない。大家の側の話を聞いたことがあるからだ。

といっても、わたしが直接に聞いたわけではない。
母方の親戚が、戦後、間もない一時期、素人下宿をやっていた。その話を、子供だった母は聞いて、それを大人になってからわたしに聞かせてくれたのだ。

そもそもそこの家の主人が、仕事先の人から大学に通う親戚の子を下宿させてほしいと頼まれて、預かるようになったのが始まりだったらしい。縁故が縁故を呼んで続けていくことになって、十数年ほどそんなことが続いた。

最初は男の子だったのだが、やがて女の子になった。そうしてその女の子が友だちを呼んだり、部屋を汚したりするので出てもらったら、つぎの女の子もやっぱり部屋を汚して、もう下宿生を置くのは懲りたのだそうだ。

母は、その親戚から聞いたという「常識とは逆に、男の子は部屋を汚さない。女の子は部屋でいろんなものを食べたり、小さなコンロなんかを持ち込んで料理したりするから、部屋が汚れてかなわない」という話を、わたしにもよく聞かせてくれた。そうしてわたしにも、女の子はだらしがないんだから、部屋をちゃんと片づけるように、とお説教で終わるのが常だった。そんなことを陰で大家から言われるなんて冗談じゃない。一軒の家に大家と一緒に暮らす下宿だけはゴメンだ、と思った物だった。

だが、自分が一人暮らしをするようになってわかったのは、部屋が汚れるというのは、そこで生活しているということなのだ。部屋を汚さないという男子学生は、おそらく寝に帰るだけの部屋だったのだろう。そこで過ごす時間が短ければ短いほど、掃除も楽にすむ。女の子の方がだらしない、とか、男の子の方がきちんとしている、などという傾向があるわけではないだろう。

ともかく、わたしは自分の部屋を持つようになってから、「女の子はだらしないんだから」という言葉を繰りかえし聞かされ、片づけろ、整理整頓しろ、と言われ続けた。

その甲斐あって……と言いたいところだが、わたしの周囲は整然と片づいているとは言い難い。もちろん掃除はするし、とりあえず水回りだけは、汚れていることのないようにしている。それでも、手近で使う本は椅子の回りに同心円上に広がるし、つい、床に積んでしまうし、文房具や紙類もばらばらとたまってしまう。おかげで机は気がつくとひどくせまくなっている。

それだけではないだろう。おそらく、自分の目の届かないところがあちこちたくさんあって、そんな死角には、埃がたまっていたり、手垢がついていたりするのにちがいない。

実際、人の家に出かけると、そこが生活の場であるかぎり、ショー・ルームやホテルの一室では決して見ることのできない、なんというか、ゆるみのようなものがある。そのゆるみというのは、その家によって異なるのだけれど、どんなに掃除のゆきとどいている家、几帳面に片づけてある家でも、そこの家に独特のにおいがあるように、その家独特の「ゆるみ」として存在しているのだ。

片づけても、拭いても、磨いても、整然としきらない、微妙に崩れているところ。いわゆる「家庭のぬくもり」なんていうのも、そのゆるみあたりから立ち上ってくるものであるような気がする。

わたしはそのきちんとしていたという男子学生の部屋を見たことがなくて、男の下宿というと、いしいひさいちの「安下宿共闘会議」や松本零士の「男おいどん」や大友克洋の 「宇宙パトロール・シゲマ」あたりを思い出して、どう考えてもその話を話半分に聞いてしまうのだが、そこで生活していた数人の男子学生は、みんなきちんと下宿を使っていたのだろうか。寝に帰るだけの部屋というのは、そんなゆるみとは無縁のものなのだろうか。

そこで思い出すのは、『こころ』の先生やKの暮らしぶりである。先生もKも、汚したり散らかしたりせず、きちんと生活していたのだろうか。Kが自分で掃除をしていたのなら、自分の血しぶきを部屋に飛び散らすようなことはしないような気がする。掃除は奥さんにやってもらっていたのだろうか。