陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「早くしなさい」と言ってしまうわけ

2010-07-05 23:11:29 | weblog
先日、何かで読んだのだけれど、子供のいるお母さんが、子供に向かって言う言葉のなかで、一番使用頻度が高いのが、「早くしなさい」という言葉なのだそうだ。

なぜ早くしなければならないか、という問いに、「時間を守らなければならないから」とか、「自分が遅れることによって、ほかの人に迷惑をかけることになるから」などという理由をあげることは可能だ。可能だけれど、実際、ほんとうにそうなのか、と考えてみると、結構よくわからなくなってくる。

たとえば、宮本常一の『忘れられた日本人』のなかに出てくるような「寄り合い」は、朝早くホラ貝が鳴り、寄り合いの招集がかけられる。朝から始まった寄り合いは、夜になっても終わらず、明け方まで続き、つぎの日も続いていく。村の男衆が全員集まって、三日間に渡って、とことん話し合うのである。

この本が出版されたのが1960年、その頃でさえ「忘れられた」集会様式だから、およそいまの時代にはそぐわないものだ。それでも、そういう話し合い方もある。そんな社会では、お母さんは子供に「早くしなさい」とは言わないだろう。

なぜ、わたしたちはそうではないライフスタイルを選んでしまったのか。
…ベンジャミン・フランクリンの「時は金なり」という生活信条をまつまでもなく、時間を費やす、時間をかせぐ、時間をむだにする、時間を浪費する、時間を節約する等々といった時間の動詞自体が、市民社会の〈功利的実践〉(…)の日常感覚における時間と貨幣との(…)同致をすでに物語っている。
(真木悠介『時間の比較社会学』岩波書店)

わたしたちはこのように、貨幣のレトリックを使って、時間を測っている。つまり、目には見えない時間を、「お金」にたとえながら、把握しているというのだ。

その結果、思わぬ効果が生まれてしまう。貨幣と時間をおなじ言葉を使って考えているうちに、時間の貨幣化が起こってしまう。ちょうど「貨幣は多いほどよい」から、「時間も多いほどよい」へと、思考が横滑りしてしまうのである。

「時は金なり」だけではない。「早起きは三文の得」もそうだ。経済優先の社会に生きるわたしたちは、お金を貯め、効率的に使うことを最善とするように、時間を貯め、効率的に使うことを最善と考えている。

だが、そうではない考え方もある。
実際に、そういう生き方をしていた人びともいる。

「そうではない考え方」を知ることで、わたしたちは自分たちが無意識に陥っている思考の癖に気がつくことができる。

「早くしなさい」とつい、言ってしまうのも、母親の無意識の焦りが言わせているのだとしたら、その焦りがいったいどこから来ているのか知っておくことは、意味があるのではあるまいか。