信仰を持っているか、と聞かれると、ちょっと返答に困ってしまうわたしなのだが、それでも、「その言葉の使い方はなんだかなあ」と思う言葉がある。そのひとつが、タイトルにもあげた「宗教みたい」という言葉である。
何もお盆の季節に迎え火を焚いたり、クリスマスになると賛美歌を歌ったり、正月に注連縄を飾ったり、神社に参拝に行ったりするような行為を指して、「これが直接、信仰に関わるわけでもないけれど、宗教みたいな行為だなあ」と言っているわけではないのだ。
たとえば誰かがある組織に対して、ふつうより多少余分に(あくまでもそれを指摘する人の主観に照らし合わせて)忠誠心を見せたり、自分以外の人にも共同行動を求めたりするようなことに対して、多くの場合、直接面と向かってではなく、陰へ回って言うときに使われる。わたし自身、何度となく聞いたことがあるのだが、一度、それがどういう意味か、聞いたことがある。
大学にいた頃だから、ずいぶん前の話なのだけれど、ある同好会に入っている人が、別のサークルを指して「あそこは宗教みたいだからね」と言ったのだった。「宗教みたい」と言われたそこには、わたしの知り合いもいた。だから少し驚いて、どういうところが「宗教みたい」なのかと聞いてみたのである。
その答えに、いっそう驚いた。そこは練習時間が長いだけではない、親睦会だの飲み会だのがやたらあって、みんながやたら仲が良い。しかもメンバーはみんな、そのサークルのことを、いいところだ、先輩の技術も高いし、伝統もある、と言い合っているだけでなく、真剣にそう思っているらしい。そういうところが「ちょっと宗教みたい」なのだ、とか。
それって本当に「宗教みたい」なのか? と不思議に思ったので、未だに覚えているのだ。
ほかにも、あるアイドルグループに熱を上げている人に対して、「宗教みたい」と別の人が言うのを聞いたこともあるし、全国規模のとある団体に入ろうとした未成年の学生が、両親から「そんな宗教みたいなところに行くな」と反対された、という話を聞いたこともある。そこのご両親が、その非宗教的かつ非政治的な団体の、どこがどう宗教的と考えたのか、未だに見当もつかないのだが。
そのほかにも、誰かを普通よりも多少余分に尊敬していたり、自分の考えや嗜好より、組織や集団の判断を優先したりするような人に対しても、そんな非難、というより陰口だろうか、「まるで宗教みたい」という言葉が向けられる。
端で聞いていると、そんなことまで……と思うようなことも少なくない。単に自分の気に染まない人に対する悪口ではないか、というような場面すらある。
そうなのだ。「宗教みたい」というのは、あくまで悪口なのである。
ある人や集団に対して、強い帰属意識をもち、その一員として熱心に活動している人がいるとする。たとえば坂本龍馬はそれに当てはまるだろうし、もしあなたが熱心に仕事に取り組んでいる人なら、あなただってそれに該当する。けれども幕末の日本にあって、東奔西走する坂本龍馬を「宗教みたい」と考える人はいない。
つまり、ほかの多くの悪口がそうであるように、この「宗教みたい」という言葉も、誰かを悪意の目で見るために張るレッテルなのである。かくかくしかじかだから、「宗教みたい」なのではなく、気に入らないから「宗教みたい」に見えるだけなのだ。
反面、わたしたちは日常的に、「宗教みたい」なことをたくさんやっている。先に挙げたような行事ばかりではない。何かの折りに、祈ることをしない人はいないのではないか。自分がいったい誰に、あるいは何ものに祈っているのかは定かではなくても、自分の力を超える、大きなものにすがったりしない人は、おそらくいないだろう。
わたしたちの多くは、自分たち自身の行動や習慣のなかにある宗教的な側面に目を向けないまま、「宗教みたい」というレッテル張りは、やはりいかがなものかと思うのだが、どうだろうか。