その7.
だがこんな日に、いつまでも暗い気分でいられるものではない。今日ほど田舎が心引かれる場所に見えたことはなかった。下に目をやると、木々の間からのぞく湖面は穏やかにさざ波を立てている。風景画さながらの穏やかな眺望である。アリスン夫人は自分たちが湖や遠くに広がる緑の山々、木々を渡る風のそよぎを独占しているのだと思うと、満足のあまりに深い吐息がもれるのだった。
晴天が続いた。つぎの日の朝、アリスン氏は食料品のリストで武装し――その最上段に「灯油」と大きな字で書いてある――、車庫への小道を下っていった。アリスン夫人は買ったばかりの耐熱皿で、パイ作りに取りかかった。パイ生地の粉を混ぜ合わせ、リンゴの皮を剥いているところに、急ぎ足で坂道を上ってきたアリスン氏が、台所のスクリーンドアをばたんと開けて入ってきた。「くそっ、車が動かない」と大きな声を出した。車を右腕にしていた人間が、頼みの綱を切られたような声だった。
「どこか悪いの?」アリスン夫人は片手でナイフを持って、リンゴを剥く手を止めて聞いた。「火曜日にはどこも悪くなかったのに」
「さあな」アリスン氏は食いしばった歯の間から言った。「ともかく、金曜日には悪くなったってことだ」
「直せそう?」アリスン夫人は聞いた。
「無理だ」アリスン氏は答えた。「うちじゃ無理だ。誰かを呼ばなくては」
「誰を?」
「ガソリンスタンドの店主がいたな」アリスン氏はきっぱりした顔で電話に向かった。「去年一度、修理を頼んだ」
かすかな不安の念を抱きながら、アリスン夫人は上の空でリンゴの皮を剥き続けながら、夫が電話をかける音に耳をすませた。リンリン、と鳴らしてしばらく待ち、またリンリンと鳴らして待つ。やっと交換手に番号を告げる声が聞こえてきて、ふたたび待ち、また番号を告げ、さらに三度目に番号を告げてから、がしゃんと受話器を叩きつける音がした。
「誰も出ない」台所に入って来るなり、そう言った。
「たぶんちょっと出かけてるんじゃないかしら」アリスン夫人は不安そうにそう言った。どうしてこんなに不安になるのか、自分でもよくわからない。もしかすると、あの人が我を忘れるほど怒ってしまうのが不安なのかしら。「ご主人はひとりでやってらっしゃるでしょう、だからもし席を外すようなことでもあれば、電話には誰も出られないし」
「そんなところだろうな」アリスン氏は皮肉めいた口調で言った。台所の椅子にどさっと座りこみ、夫人がリンゴの皮を剥いているのを眺めている。しばらくして、夫人がなぐさめるように言った。「手紙を取りに行って、それからまた電話をかけてみたら?」
アリスン氏はしばらく決めかねているようだったが、やがて言った。「そうしてみるか」
重い腰を持ち上げ、台所から出がけに振り返って言った。「もし手紙が来てなかったら……」恐ろしいような沈黙を残したまま、夫は小道を下りていった。
アリスン夫人はパイ作りを急いだ。二度、窓辺へ行き、空を見上げて雲が出ているかどうか確かめた。不意に部屋が暗くなり、嵐が近づいてくるとき特有の張りつめた空気が感じられたからだ。だが、いつ見ても澄んだ空は晴れわたり、アリスン家のコテージにも、世界のほかの場所と同様、明るい陽射しが降り注いでいた。
あとはもうパイをオーブンに入れるばかりにしておいて、アリスン夫人は三度目に外を見た。夫が小道を歩いてくる。すっかり機嫌が良くなって、夫人に気が付くと、手紙を持った手を振り回した。
「ジェリーからだ」声が聞こえる距離まで来てから、大声で言った。「やっと……手紙がきたぞ!」あの人はもう、緩い坂道さえも、息を切らさずに上れないんだわ、とアリスン夫人は気がついた。だが、そのときにはもう、手紙を差し上げながら、戸口のところまできていた。「戻るまで、読むのをがまんしてきたんだ」
(この項つづく)
だがこんな日に、いつまでも暗い気分でいられるものではない。今日ほど田舎が心引かれる場所に見えたことはなかった。下に目をやると、木々の間からのぞく湖面は穏やかにさざ波を立てている。風景画さながらの穏やかな眺望である。アリスン夫人は自分たちが湖や遠くに広がる緑の山々、木々を渡る風のそよぎを独占しているのだと思うと、満足のあまりに深い吐息がもれるのだった。
晴天が続いた。つぎの日の朝、アリスン氏は食料品のリストで武装し――その最上段に「灯油」と大きな字で書いてある――、車庫への小道を下っていった。アリスン夫人は買ったばかりの耐熱皿で、パイ作りに取りかかった。パイ生地の粉を混ぜ合わせ、リンゴの皮を剥いているところに、急ぎ足で坂道を上ってきたアリスン氏が、台所のスクリーンドアをばたんと開けて入ってきた。「くそっ、車が動かない」と大きな声を出した。車を右腕にしていた人間が、頼みの綱を切られたような声だった。
「どこか悪いの?」アリスン夫人は片手でナイフを持って、リンゴを剥く手を止めて聞いた。「火曜日にはどこも悪くなかったのに」
「さあな」アリスン氏は食いしばった歯の間から言った。「ともかく、金曜日には悪くなったってことだ」
「直せそう?」アリスン夫人は聞いた。
「無理だ」アリスン氏は答えた。「うちじゃ無理だ。誰かを呼ばなくては」
「誰を?」
「ガソリンスタンドの店主がいたな」アリスン氏はきっぱりした顔で電話に向かった。「去年一度、修理を頼んだ」
かすかな不安の念を抱きながら、アリスン夫人は上の空でリンゴの皮を剥き続けながら、夫が電話をかける音に耳をすませた。リンリン、と鳴らしてしばらく待ち、またリンリンと鳴らして待つ。やっと交換手に番号を告げる声が聞こえてきて、ふたたび待ち、また番号を告げ、さらに三度目に番号を告げてから、がしゃんと受話器を叩きつける音がした。
「誰も出ない」台所に入って来るなり、そう言った。
「たぶんちょっと出かけてるんじゃないかしら」アリスン夫人は不安そうにそう言った。どうしてこんなに不安になるのか、自分でもよくわからない。もしかすると、あの人が我を忘れるほど怒ってしまうのが不安なのかしら。「ご主人はひとりでやってらっしゃるでしょう、だからもし席を外すようなことでもあれば、電話には誰も出られないし」
「そんなところだろうな」アリスン氏は皮肉めいた口調で言った。台所の椅子にどさっと座りこみ、夫人がリンゴの皮を剥いているのを眺めている。しばらくして、夫人がなぐさめるように言った。「手紙を取りに行って、それからまた電話をかけてみたら?」
アリスン氏はしばらく決めかねているようだったが、やがて言った。「そうしてみるか」
重い腰を持ち上げ、台所から出がけに振り返って言った。「もし手紙が来てなかったら……」恐ろしいような沈黙を残したまま、夫は小道を下りていった。
アリスン夫人はパイ作りを急いだ。二度、窓辺へ行き、空を見上げて雲が出ているかどうか確かめた。不意に部屋が暗くなり、嵐が近づいてくるとき特有の張りつめた空気が感じられたからだ。だが、いつ見ても澄んだ空は晴れわたり、アリスン家のコテージにも、世界のほかの場所と同様、明るい陽射しが降り注いでいた。
あとはもうパイをオーブンに入れるばかりにしておいて、アリスン夫人は三度目に外を見た。夫が小道を歩いてくる。すっかり機嫌が良くなって、夫人に気が付くと、手紙を持った手を振り回した。
「ジェリーからだ」声が聞こえる距離まで来てから、大声で言った。「やっと……手紙がきたぞ!」あの人はもう、緩い坂道さえも、息を切らさずに上れないんだわ、とアリスン夫人は気がついた。だが、そのときにはもう、手紙を差し上げながら、戸口のところまできていた。「戻るまで、読むのをがまんしてきたんだ」
(この項つづく)