陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

トマス・ハーディ「アリシアの日記」その10.

2010-06-06 23:19:47 | 翻訳
五月十日

 ムッシュー・ド・ラ・フェストが今夜もまた、客間で風景画の流派についての興味深い話を聞かせてくれた。父は眠り込んでしまい、シャルルさんの話を聞いているのはキャロラインとわたしだけだった。わたしはあの方とあまり長々と話し込むつもりはなかったので、本棚からジョン・ラスキンの『近代画家論』を取り出してそれを読み始め、恋人たちをふたりきりにしておいた。ところがあの方はわたしを聞き手に引きいれようとなさるので、本を脇へ置かなければならなくなってしまった。わたしがなんとかキャロラインを会話に混ぜようと努めたのに、あの子の絵画に対する意見というのは、かわいらしいほどに幼く拙いものなのだ。

 明日もし晴れたら、三人でウェリーボーンの森へ行って、シャルルさんが今夜挙げてくださった色彩原理を、実際の絵の中で見せてくださることになっている。わたしはあの方がわたしに気遣いするあまりに、キャロラインをおろそかになさることのないよう、森の奥へ行ったところで、遅れることにして、そこから抜けだし、帰ってくるときにはふたりきりになれるようにするつもりだ。あの方がわたしに細かく心を配ってくださるのも、キャロラインに近い係累に親切にして、彼に対する評価を上げようとなさっておられるのだろう。


五月十一日

深夜。
 眠れないので、思い切ってロウソクの明かりをともし、ペンを取ることにした。わたしがどうにも落ち着かない心地でいるのは、今日起こったことのせいだ。最初は書き残したり、誰かに打ち明けたりするつもりはなかったのだけれど。

わたしたち、キャロライン、シャルルさん、そうしてわたしは予定通り、ウェリーボーンの森へ向かった。シャルルさんを真ん中に、キャロルとわたしが脇を固めて、緑の小道を歩いていった。やがて、気がついてみると、いつものようにあの方とわたしが話をし、キャロラインは鳥やリスを楽しそうに見ながら、婚約者の傍らを歩いていく。そのことに気がついたわたしは、きっかけを見つけて足を遅めて木立に身を潜め、家へ通じる別の小道の方角へ歩いていった。ところがその道に出て、黙ったまま、考え事をしながら歩いていくと、曲がり角で気がかりそうな微笑をしながら立ちつくしている、ムッシュー・ド・ラ・フェストに出くわしたのだった。

「キャロラインはどこにいるのですか」とわたしは聞いてみた。

「ここからちょっと行ったところです」とあの方はおっしゃった。「あなたがぼくらの後ろからいらっしゃらないので、道を間違えたのかと心配していたのです。だからキャロラインはあっちの方を、そうしてぼくはこの道であなたを探していたんです」

 わたしたちは今度はキャロラインを探したが、どこにも見つからない。結局、ふたりきり、森の中を一時間以上もあちこち歩き回ることになってしまった。家に戻ってみると、あの子がそこにいる。わたしたちをしばらく探したあと、あきらめて、しばらく前に家に帰っていたのだという。これだけのことに、そんなに心を騒がせるのも、おかしな話なのかもしれない。もし、あの方が、真剣に妹を捜そうとしていらっしゃらないことに、気がつきさえしなかったなら。

わたしが何度も何度も、あの子はどこで迷ったのかしら、と言ったのに、あの方ときたら、「大丈夫ですよ、彼女はここからだったらどこにいても家に帰っていける、って言ってましたしね。さっきの話の続きをしませんか。あこがれの人と一緒にいられて、どれほどうれしく思ってるか。ご想像なんてできないと思うな」といったことをおっしゃったのだ。

わたしは馬鹿げたことに、動揺したところを見せてしまった。どうして自分の気持ちをちゃんとコントロールできなかったのだろう。わたしが冷静でいられないことを、あの方も気がつかれたようだ。キャロラインはいつも通り、単純にただ信じているので、今日のこともまったく気にしていないが、そうはいってもわたしは平気ではいられないのだ。



(この項つづく)