陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

トマス・ハーディ「アリシアの日記」その22.

2010-06-22 22:49:35 | 翻訳

 ゴンドラの船頭たちがどこへ向かって漕いでいるのか、わたしはそれまで気がついていなかった。おそらくわたしが聞いていないところで、シャルルさんが行く先をおっしゃったのにちがいあるまい。もう何がどうなってもわたしは知らない、という気分でゴンドラの動きに身を任せていたのだが、ふと気がつくと舟は大運河をさかのぼっており、グリマーニ宮殿に近づいたところで横に折れ、大きな教会のはずれの石段に止まった。

「ここはどこなんですか」とわたしはたずねた。

「フラーリ教会です。ここで結婚したっていいんだけど。ともかく中に入って落ち着いて、これからどうするか決めましょう」

 教会の中に入っていくと、そこで結婚式を挙げているのかどうなのかは知らないのだけれど、ひどく陰鬱なところだった。ヴェニスのいたるところから聞こえてくる「崩壊」という言葉が、ある意味、ここではさらに深刻化しているようだった。

地盤がゆるいために、建物全体の重さをささえきれずに、ずぶずぶと沈んでいきつつあるように思えるのだ。壁にはひび割れが蜘蛛の巣のようにジグザグと走り、同じ亀裂が曇った窓ガラスにも走っている。通路は甘ったるいすえた臭いがした。シャルルさんのあとを歩いたが、ときおり歴史的遺物などのあれこれを手短かに説明してくださるほかは、気まずい沈黙が落ち、わたしは結婚許可証が取り出されたらどうしよう、と気が気ではなかった。やがて聖具室へ至る南側の袖廊のドアの前にやってきた。

 ドアの窓を通して向こうの端にある小さな祭壇にちらりと目をやった。そこはがらんとしていて、ただひとつ、ぽつんと人影があるだけだった。女がひとり、ベリーニの美しい祭壇画の前に跪いている。美しい絵も目に入らぬかのようにこうべを垂れていた。胸も張り裂けんばかりに、むせび泣きながら、祈りを捧げている。それはわたしの妹、キャロラインの姿だった。わたしはシャルルさんを手招きし、自分のすぐそばまで呼び寄せると、一緒にドアの向こうの姿を見た。

「あの子と話をしてやってください」とわたしは言った。「きっと許してくれるはずですわ」

 あの方をドアの方へそっと押しやると、わたしは袖廊へ戻り、教会堂を抜けると、西のドアをまっすぐ進んでいった。そこに父がいたので、わたしは声をかけた。未だ厳しい口調ではあったが、父はこんなことを教えてくれた。まず、大運河沿いにある居心地の良さそうな宿を借りてから、スキアヴォーニ河岸のホテルに引き返してわたしを探したがいなかった、と。いまはキャロラインを待っているところで、あの子が戻ってきたら、一緒にその宿に帰るつもりだ、とのことだった。あの子は落ち着きを取りもどすまで、ひとりにしてほしい、と言ったらしかった。

 わたしは父に、過ぎたことをあれこれ言ってもせんのない話だし、わたしが間違っていたこともよくわかった、これから先、ふたりを結婚させることで償いたい、と話した。このことに関しては、父も心から賛成してくれて、わたしがムッシュー・ド・ラ・フェストがいま、キャロラインと一緒に聖具室にいることを伝えたところ、このままふたりだけにしておこう、わたしたちは宿に戻ろう、そこにはおまえのために取った部屋もあるから、と言った。父の言う通りにして、父がわたしに用意してくれた、運河に臨む部屋へ上がって、窓にもたれ、シャルルさんと妹を乗せて戻ってくるゴンドラを待った。



(この項つづく)