陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

トマス・ハーディ「アリシアの日記」その23.

2010-06-23 23:22:33 | 翻訳


 まもなくふたりがやってきた。右手の角を舟が曲がったところであの子の日傘の色が目に入ったので、それと知れた。ふたりは仕方なしに並んで坐ってはいたものの、一言も口をきいてない。わたしの目には、妹がほほを染めているのに対し、シャルルさんは青ざめていらっしゃるように映った。

舟が階段の下に漕ぎ寄せられ、シャルルさんは妹に手を貸した。あの子はその手を拒むかもしれない、とわたしは思ったのだが、あの子はその手につかまった。まもなくわたしの部屋の前を通り過ぎていく妹の足音がした。どんな話をしたのか気になり、ゴンドラがシャルルさんを乗せて漕ぎ出そうとするようすもないので、わたしは階下に降りてみることにした。シャルルさんはちょうどドアを出ようとするところだったが、水路の方ではなく、三月二十二日通りに出る路地を抜けて、歩いて帰るおつもりらしかった。

「あの子、あなたを許しましたでしょう?」

「わたしは何も頼んでいません」

「だけど、そうなさらなくては」

シャルルさんはしばらく黙っておられたが、やがて口を開いた。「アリシア、ぼくたち、互いに確認しておこうじゃありませんか。あなたがおっしゃっておられるのは、はっきり言ってしまえば、もし妹さんがぼくの妻になるおつもりでしたら、あなたは妹さんのためにすっぱり身を引いて、ぼくが提案したことはもはや考えてはくださらないということですか?」

「おっしゃるとおりです」わたしはそっけなく答えた。「だってあなたはもう妹のものなんですもの――そのほかにわたしに何ができまして?」

「そうですか。そうかもしれませんね。純粋に信義の問題なのかもしれない」とおっしゃった。「なるほど、結構です。愛ではなく、信義を賭けた約束ということですね。妹さんの正直な気持ちを聞いてみることにします。もし結婚したい、とおっしゃるなら、式を挙げましょう。ただ、ここではない。イギリスのあなたがたのお屋敷で挙げることにしましょう」

「いつですの」

「そちらに妹さんと一緒に参ります。それから一週間以内には。先送りしても、何にもならないのだから。それでも、その結果どうなったとしても、責任はぼくにはとれません」

「どういう意味ですの」とわたしはたずねたが、あの方は返事はしてくださらないまま、行っておしまいになった。だからわたしも部屋に帰ってきたのだった。

第六章 最後を見届ける

四月二十日 ミラノにて。

午後十時三十分 帰国途上のわたしたちも、ここまでやってきた。わたしはあきらかにデ・トロ(邪魔者)、ほかの人とはできるだけ離れて旅を続けている。ここのホテルでの夕食が終わると、ひとりで出かけることにした。たしなみなどということは考えず、ただ部屋にいられなかったのだ。アレッサンドロ・マンツォーニ通りをぶらぶらあるいていると、ヴィットリオ・エマヌエーレ二世のガッレリアが目に飛び込んできた。高いガラスのアーケードをくぐり、中央の八角堂まで行き、そこにある椅子のひとつに腰を下ろした。そぞろあるきの人びとに目が慣れてくると、やがて、向こう側の椅子にキャロラインとシャルルさんが坐っているのが見えた。わたしがあの方とお話ししてからというもの、あのふたりが差し向かいでいるのを見るのは、初めてだ。キャロラインはすぐ、こちらに気がついたが、さっと目をそむけてしまった。だが、衝動に身を任せたように、勢いよく立ちあがると、わたしの方にやってきた。ヴェニスで会ってから、話をしていなかったのだ。

「アリシア」妹はわたしの隣りに腰を下ろした。「シャルルさんが、お姉さんを許してあげなさい、って。だから、許すことにするわ」

 わたしはあの子の手を押さえた。涙が目からあふれそうだった。「そうして、あの方のことも許してあげたのね?」

「ええ……」恥ずかしそうにそう答えた。

「それで、どうなった?」

「わたしたち、結婚するの。家に帰ったらすぐに」

 これがわたしたちの話したほとんど全部だ。あの子はわたしと一緒にホテルへ戻り、シャルルさんはわたしたちの少し後ろからついてきていらっしゃった。キャロラインは後ろを振り返ってばかりいた。わたしたちに追いついてこないのをやきもきするかのように。「愛ではなく信義を賭ける」という言葉が、耳の中でこだまする。とはいえ、事は決した。キャロラインはまた幸せになれたのだ。


(この項つづく)





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