陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

トマス・ハーディ「アリシアの日記」その6.

2010-06-01 23:06:15 | 翻訳
その6.

第三章 新郎は、やや明るくなって

九月十日

 二週間以上、日記に何も書き込まなかった。起こることは何もかも悲しいことばかりで、それを書く気力がわかなかったのだ。だが、問題点を書きとめるという行為が、それを取り上げて理解するよい方法となる時期が来るだろう……。

 母の亡骸はイギリスに運ばれ、この教区に埋葬された。これは母自身の希望というより父の希望で、何よりも自分の妻を、先祖代々の納骨所に先妻と並べて埋葬することを希望したのである。わたしは、ひとりの男に愛された女ふたりが隣り合って埋葬されているのを見ていた。

そこに立っていることが、そうしてわたしの隣りにはキャロラインがいることが、夢の中でのできごとのように思えてきた。キャロラインとわたしがひとりの男性に愛されて、こうして葬られるのではないか、と。もちろん姉妹がひとりの男性と結婚することなど、ありえないことなのに。キャロラインがわたしの手を取って、もう帰る時間よ、といって初めて、わたしは白日夢からさめた。


九月十四日

 結婚式は無期延期となった。キャロラインは、まるで夢遊病のさなかに目を覚ました少女のように、自分がいまどこにいるのか、どのような状況におかれているのかもわかっていないのだ。

 口もきかず歩き回っているあの子が何を考えているか、昔は何でもわかったのに、いまはわからない。自分から手紙を書いて、ムッシュー・ド・ラ・フェストに、結婚式を当初計画したように、この秋に挙げることはおそらく無理だろう、と伝えていた。こうやってどんどん延期していくのは、何だかやりきれないような気がする。そうはいっても、どうしようもないことなのだけれど。


十月二十日

 キャロラインを慰めることに追われて、日記のことはもうずっと書くのを忘れてしまっていた。あの子の日常は、わたしのそれよりずっと母に近しいものだった。わたしのように、人に頼らない生活が送れるほど、長くに渡って家を離れたこともないので、生まれて初めて身近な人を失い、それにともなってさまざまな出来事が起こったせいで、雨に打たれた百合のようにうちひしがれてしまったのだ。それでも、あの子はすぐに立ち直る性格だし、悲しみの最高潮の時期も、もう過ぎたのではないか。

 父は、結婚式はあまり延期するべきではないと考えているようだ。ヴェルサイユにいるあいだにムッシュー・ド・ラ・フェストと近づきになり、短いあいだのあわただしいやりとりではあったが、ムッシュー・ド・ラ・フェストの人柄とふるまいには非常に良い印象を受けたようで、娘に求婚してくれたことをとにかく喜んでいる。キャロラインの婚約者を知るようになった人が誰もみな、その人のことを好きになってしまうのは不思議なほどだ。

キャロラインが見せてくれたその人の写真は、確かにこの人なら、そんなこともあるだろう、というような風采である。ただ、外見が良いだけではなく、おそらくそれ以上の、魅力というか、人を夢中にさせるような何かがある――キャロラインがわたしにうまく説明することができなかったあの性質である。

その写真で見る限り、顔と頭のかたちが実に申し分ない。口の輪郭は、口ひげのせいではっきりとはわからないが、弧を描いた眉は、風景画家らしく自然を愛しているらしい、ロマンティックな性質がうかがえる。このような顔のもちぬしなら、やさしく、思いやり深い、真実味のある人にちがいない。


(この項つづく)