陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

家庭の幸福

2009-09-26 23:19:52 | weblog
太宰治の最晩年の短篇に、「家庭の幸福」というものがある。

この作品はさほど有名なものではないのだが、太宰の言葉「家庭の幸福は諸悪の本(もと)。」という言葉を聞いたことがある人も多いかもしれない。

戦争が終わって、徐々に人びとの生活が落ち着きを取りもどしたころである。太宰の分身とおぼしい小説家の語り手が、寝床でラジオを聞いている。ラジオでは「民衆」と「官僚」が街頭で討論している番組を放送している。

官僚につめよる民衆、それを余裕たっぷりにいなす官僚。それを聞きながら作家は、自分がその場にいたらどう言うだろう、と考える。
「あなたは、さっきから、政府だの、国家だの、さも一大事らしくもったい振って言っていますが、私たちを自殺にみちびくような政府や国家は、さっさと消えたほうがいいんです。誰も惜しいと思やしません。困るのは、あなたたちだけでしょう。何せ、クビになるんだから。何十年かの勤続も水泡に帰するんだから。そうして、あなたの妻子が泣くんだから。」
面罵の言葉があとからあとから出てきて、いよいよ腹を立てながら、やがて眠りにつく。

主人公は官僚になっている。官僚として、自分が出演した討論番組を家族と一緒に聞く。家族は誇らしげな顔で自分の話を聞いている。
家庭の幸福。誰がそれを望まぬ人があろうか。私は、ふざけて言っているのでは無い。家庭の幸福は、或いは人生の最高の目標であり、栄冠であろう。最後の勝利かも知れない。
 しかし、それを得るために、彼は私を、口惜し泣きに泣かせた。

官僚の幸福は、人びとの涙の上に成り立っているのではないか。

そののち作家は眠れないままに短篇を構想している。主人公は、官僚から役所勤めの役人に自分の戸籍名である「津島修治」という名前を与える。
役場の戸籍係である「津島修治」は、時間外に出産届を出しに来た妊婦を、けんもほろろに追い返す。幸せな家族の下に、一刻も早く帰りたいからだ。妊婦はそれが原因で玉川上水に飛び込むことになるというのに。
そこから作家はこのような結論に至る。
曰く、家庭の幸福は諸悪の本。

ほどなくこの作中人物と同じ最期を太宰治は迎えることになるのだが、ここで注目しておきたいのは、「家庭の幸福は諸悪の本。」という部分である。この言葉は、短篇の最後にぽつんと置かれている。

いまになってみると、「家庭の幸福は諸悪の本。」という言葉は、ひどくわかりにくいように思う。というのも、この言葉が逆説として成立するためには、「家庭の幸福」に大きな価値が置かれていなければならないからだ。

結婚しない人も増え、家庭の価値が相対的に低下したような昨今である。とくに女性は「家庭の幸福」を求めるより、自活し、社会に参加していくことの方が、はるかに重要である、という考え方の方が一般的になりつつあるのかもしれない。「家庭の幸福」がさほど重んじられなくなったところで、「家庭の幸福は諸悪の本」と言われても、ピンと来ない。

だが、この作品は、貧困が日常的で、その日その日を生きていくのもやっとだった時代のものだ。なんとか子供を飢えさせまいと父は汗を流し、母も頭を下げる。そうやっても幼くして死んでしまう子供たち。なんとか「家庭の幸福」を手に入れようと、人びとは死にものぐるいなのだ。

人びとが官僚を責めたのも、今日のような官僚批判とはおよそ性格がちがうのだろう。太宰が書くように、官僚が家庭の幸福を得るために、わたしたちは(生活のために苦しみの)涙を流すのだ、という実感があったのだろう。

官僚の幸せな家庭の幸福が、多くの人びとの涙の上に成り立っている。つまり、幸福とはエゴイズムのことなのだ、その批判がこの言葉にはこめられている。

家庭の価値が相対的に低下したいま、わたしたちはこのエゴイズムから自由になっているのだろうか。
百年に一度の不況、という言葉が、職を失った人をのぞけばもうひとつピンと来なかったのは、わたしたちの周囲には相変わらずものが豊富にあったこともあるだろう。売り場にはあり余るほどのものがあり、コンビニでは賞味期限が過ぎた食べ物はどんどん捨てられる。そんなものを目の当たりにしながら、「百年に一度の不況」は将来に対する漠然とした不安以上のものにはなりようがないのではあるまいか。

とはいえ、ものがどれだけ豊富にあっても、わたしたちはやはり幸福であるようには感じられない。個々の人びとは、やはり満たされず、幸福は家庭のなかにはありそうもない。

「家庭の幸福は諸悪の本。」
この言葉はいまならさしあたり、「自分の幸福は諸悪の本」とでも言いかえるべきなのだろうか。


"what's new ver.14" 書きました。
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