陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ランチタイムの楽しみ

2009-09-28 22:35:08 | weblog
先日、出先で昼食を取った。行ったことのない場所で、ファーストフードも見当たらない。しょうがないので、目に付いた店に入ることにした。イタリアの国旗が店の前に立てかけてあるのがちょっと不安だったが、入り口の小さな黒板には、Aランチ、Bランチとあって、それぞれ値段が書いてある。わたしが昼食にかけたい金額よりを大幅に上回っていたのだが、たまにはいいか、と思って入ることにした。

ところが扉を押して一歩入るや否や、店構えからは信じられないほどの喧噪が耳に飛び込んできた。一瞬、わたしが開けたのはどこでもドアで、開けた先にあるのは中学の校門、下校時にどっと中学生が吐き出されてきたところか? と思ったほどだ(含嘘)。

それほど広くない店はほぼいっぱい、二十人ほどの客は全員見事なまでに女性である。おっと、ちがった、何人か走り回っている小さな子供たちのなかに男の子がいる。ドアに手をかけたまま、このままきびすを返して外に出ようかと一瞬思った。

そうしなかったのは、バイトとおぼしき店のウェイトレス(そういえば最近はあまりこの言葉も聞かないが、もっとユニセックスなスタッフという呼称の方が好まれるのだろうか)と目がばしっと合ってしまったからだ。彼女はきびきびとした仕草でドアを引いてくれ、お一人様ですか、こちらへどうぞ、とわたしを招じ入れた。わたしは出るタイミングを失ってしまった。

隅の二人がけの席に通される。覚悟を決めて、しばらく辛抱することにした。どうやら団体客というわけではなさそうだ。いずれもカジュアルな格好をした主婦とおぼしき人たちである。いわゆる「ママ友」というのか、三人から四人の仲良しグループのようだ。

それにしてもやかましい。確かに店が狭く、テーブルそれぞれで話をしていれば、隣りの声に混ざらないよう、徐々に話し声は大きくなっていくのかもしれない。店内がやかましいため、自分の話がかき消されないよう、声を張り上げる。その声が店内のやかましさを倍加させている。とはいえ、川をはさんでしゃべっているわけではないのだ。自分の目の前にいる相手に話をするのに、そこまで大きな声を出すものだろうか。耳がわんわんしてきた。耳栓は置いてないかしらん。

もしかしたら、大きな声を出すことで、ストレスを解消させようとしているのかもしれない。ただのおしゃべりにしては、なんだか妙に必死な感じもする。

おそらく、こんなふうに主婦が誘い合わせてランチに出かけるということは、おそらくはそれほど頻繁なことではないのだろう。週に一回か、月に一回かは知らないけれど、その日を楽しみにしてきたのだ。だからこそ、こんなにテンションが高いのだろう。

不意に隣の席の女性の声が耳に飛び込んできた。「このところ手抜きが続いてたから、おいしくておいしくて……。」すると、その向かいにいた人は「そうそう、昼なんかまともに作れへんよね。昨日の昼は卵かけやったわ」「勝った! わたしはふりかけ」そこでどっと笑い声が上がる。

自分以外の人に食べさせるために、せっせせっせとご飯を作る生活を続けていると、自分ひとりの食事となると、フライパンを使う目玉焼きを作ることさえいやになるのだろう。ときには母でもなく、妻でもなく、ひとりの人間として食事に行きたくなる……その気持ちはなんだかとてもよくわかるような気がした。

そうしたときの行き先は、吉野屋やマクドナルドであってはならないのだろう。ちょっと気取った店でも、ランチならたかが知れている。そうやってイベントにして、予定表に書き込むのだ。

それでも「あーちゃんママ」「ゆうちゃんママ」と互いに子供の名前にママをつけて呼び合って、どれだけにぎやかにしゃべり合っても、子供を介在させた人間関係に気を遣いながら話し続ける。なんというか、それはそれでしんどいことのように思えた。

高校時代、ときに母親の作る弁当を、教室でみんなで食べるのがいやで、たまに売店で焼きそばパンと牛乳を買って、空き教室でひとりで本を読みながら食べていた。その静かさと、化学室のなじみのないにおいと、そこから見る普段とちがう空はいいものだった。

いまの主婦にそんなふうな昼食の場所はないものだろうか。
そんなことを思ったのである。