陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

シャーリー・ジャクスン「魔女」前編

2009-09-12 22:52:19 | 翻訳
昨日まで訳していた"One Ordinary Day, With Peanuts"(タイトルを昨日までの訳とは変えようと思っています)ですが、「なんとなくよくわからない」という人もいるかもしれません。というか、あれひとつ読むより、ちょうど合わせ鏡みたいな短篇と一緒に読む方がおもしろいような気がするんです。

よくわからない、どこがオチだったんだ、という人にとってはこれが「補助線」になるかもしれない、という、同じシャーリー・ジャクスンの短篇をもうひとつ訳してみることにします。"The Witch" 「魔女」です。日本語では「魔女」ですが、西洋の「魔女」には男もいます。短い短篇なので、今日と明日の二日で訳せるはず。

原文はhttp://jlax.wikispaces.com/file/view/THE+WITCH.doc.で読むことができます。

"The Witch" (「魔女」)



by シャーリー・ジャクスン

【前編】

 車両はがらがらだったので、小さな男の子が座席ひとつぶんをまるまる占領し、母親は通路を隔てた隣の席に腰かけて、男の子の妹を隣りにすわらせていた。妹の方はまだ赤ちゃんで、トーストの切れ端を一方の手に持ち、反対の手にはがらがらを握っている。座席にはベルトでしっかりとくくりつけられていたから、体がぐにゃっと崩れたりしないで周りを見回すこともできたし、少しずつずり落ちたとしても、そのベルトが支えてくれるので、じきに母親が気がついて、赤ん坊をまっすぐにすわり直させることができるのだった。小さな男の子は窓の外を見ながらクッキーを食べているところだ。母親は静かに本を読みながら、男の子がいろいろ聞いてくるのを、顔も上げずに返事をしていた。

「川のとこに来たよ」男の子が言った。「ここは川で、ぼくたち、川の上にいるんだ」

「すてきね」母親は言った。

「ぼくたち、橋を走ってて、その下は川なんだ」男の子は自分に言いきかせるように言った。

 ほかの数人の乗客は、車両の後ろの方におり、誰かがこちらの方にやってくるようなことがあると、小さな男の子はそちらに向き直って、「こんにちは」と声をかけた。言われた方もたいてい「こんにちは」と返し、ときには、汽車に乗るのはおもしろいかい、だの、しっかりした良い子だね、とまで言うのだった。こんなことを言われても男の子にはわずらわしいばかりで、ぷいっと窓の方に顔を背けてしまうのだった。

「牛がいる」男の子はたびたびそんなことを言った。かと思うとため息をつきながら「あとどのくらい?」と聞く。

「もうそんなにかからないわ」そのたびごとに母親はそう言うのだった。

 そのうち、がらがらと母親がひんぱんに取り替えてくれるトーストに夢中になっていて、おとなしかった赤ん坊が、横ざまに倒れかかって頭をぶつけた。わあわあと泣き始め、つかのま、母親がすわっていた席の周囲は、騒々しく、動きもあわただしくなった。小さな男の子も自分の席からすべりおりると、通路を走っていき、妹の足をなでさすりながら、よしよし、泣くんじゃないよ、とあやしてやった。やがて赤ん坊も笑いだし、またトーストに戻ったので、男の子も母親から棒つきキャンデーをもらって窓の席に戻った。

「魔女が見えた」しばらくして男の子は母親に言った。「大きくてすごいおばあさんで、怖い顔の悪ーい年寄りの魔女が外にいたよ」

「すてきね」と母親は答えた。

「大きくてすごいおばあさんで怖い顔の魔女だったから、ぼくは、あっち行け、って言ったんだ。そしたら行っちゃった」小さな男の子は続けたが、それは自分に語って聞かせるような、静かな話し方だった。「魔女はね、こっち来て、言ったんだよ。『おまえを食ってやるからな』って。だからぼくは言った。『いーや、そんなことできないよ』って。それから、追っ払ってやったんだ。悪い、年寄りの、意地悪な魔女なんだ」

 男の子は口をつぐんで顔を上げた。ちょうど車両のドアが開いて、男がやってくるところだった。年かさの男で、にこやかな表情を浮かべ、髪は白くなっている。紺色のスーツは、汽車が出発してからずいぶん経つというのに、いささかの乱れも皺のひとつもない。葉巻を手にしており、小さな男の子が「こんにちは」と声をかけると、葉巻で、やあ、と合図して言った。「やあやあ、坊や、こんにちは」男の子の座席のすぐ横で脚を止めると、背もたれに寄りかかって、小さな男の子を見下ろした。男の子の方は、よく見ようとツルのように首を伸ばして相手を見上げている。「窓の外のいったい何を見ているんだね?」と男は尋ねた。

「魔女だよ」打てば響くように男の子は答えた。「悪い年寄りの意地悪な魔女がたくさん」

「なるほど」男は言った。「たくさん見えたかい?」

「うちのお父さんも葉巻を吸うよ」小さな男の子は言った。

「男はみんな葉巻を吸うものなんだ」男は言った。「坊やだってそのうち葉巻を吸うようになる」

「ぼくはもう男だよ」小さな男の子は言った。

「いくつになる?」

 小さな男の子は、変わりばえのしない質問をしてくる男を、うさんくさげな目でしばらく見ていたがやがて言った。「二十六さい。はちひゃくよんじゅうはちじゅっさい」

 母親が本から顔を上げて言った。「四歳でしょう」そう言いながら、小さな男の子をいとおしげに見やった。

(後半は明日)