陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

シャーリー・ジャクスン「ある晴れた日に、落花生を持って」その4.

2009-09-07 22:58:53 | 翻訳
その4.

「引かれた分はぼくがお支払いしますよ」ミスター・ジョンスンは言った。すると、その言葉は魔法の呪文のように働いた。かならずしもそれが真実であるとわかったからでも、彼女の側が真剣に期待したからというわけではない。ミスター・ジョンスンの無粋な言葉も、彼の口から発せられると、どう考えても皮肉な調子とは無縁で、責任があり、信頼がおけ、耳を傾けるべき発言のように聞こえてくるのだった。

「どういうことですか」彼女は尋ねた。

「つまり、どう考えてもあなたの遅刻はぼくの責任だから、その埋め合わせはしなきゃならないでしょう?」

「変なことをおっしゃらないで」そう言うと、彼女の顔は初めてしかめっつらではなくなった。「あなたに何か弁償していただこうなんて夢にも思ってません。さっき、わたしの方が迷惑料をお支払いするって言ったばかりじゃありませんか。ともかく」言葉を継いだ彼女の顔は、笑顔といってもよいものだった。「わたしが悪かったんです」

「もしお仕事に行かなかったら、いったいどうなりますか?」

彼女は目を見張った。「お給料がもらえなくなるじゃありませんか」

「それは仰せのとおりだ」

「仰せのとおり、ってどういうことですか? 二十分前に会社に顔を出していなきゃ、わたし、一時間につき一ドル二十セント引かれるんです。つまり、一分につき二セント、ってことは」少し考えてから言葉を続けた「だいたい十セント分、あなたとお話していたことになりますね」

ミスター・ジョンスンが声を上げて笑ったので、とうとう彼女も一緒になって笑い出した。「もう遅刻してしまってるんですね」と確かめた。「じゃあもう四セント分、ぼくに時間をくださいませんか?」

「どうしてですか」

「じき、わかります」ミスター・ジョンスンは請け合った。彼女を歩道の端からビルのすぐそばまで引っ張っていく。「ここに立っていて」それから忙しく行き交う人波のなかに飛び込んでいった。一生のかかった選択をしなければならない人のように、通る人びとを見定め、熟慮を重ねて白羽の矢を立てようとしていた。一度、動きそうになったが、結局思い返し、引き下がる。とうとう半区画ほど向こうに、求めていた人物が現れた。流れの真ん中に立ちふさがり、若い男を引き留めた。急いでいて、寝過ごしたかのような身づくろい、しかめっつら。

「おっと」若い男がそう言ったのは、ミスター・ジョンスンが相手を引き留めようにも、さっきの娘がうっかり自分に対して取った方法しか思いつかなかったからである。

「どこへ行くつもりなんだ」歩道に倒れた若い男は食ってかかった。

「君に話したいことがあるんだ」とミスター・ジョンスンは思わせぶりに言った。

 若い男は神経質そうに立ちあがると、埃を払いながらミスター・ジョンスンをにらみつけた。「何だ? オレが何かしたか?」

「あれが今日びの人間のいちばん厄介なところだね」ミスター・ジョンスンは、おおっぴらに行き交う人びとの悪口を言った。「何をしてるんだかしてないんだか知らないが、連中はいつだって誰かに追い立てられているような気でいるらしい。自分がいったい何をするつもりなんだかね」そう若い男に向かって話しかける。

「あのな」若い男は、なんとかミスター・ジョンスンを振り払おうとして言った。「遅れてるんだ。話を聞いてるような暇はないんだ。ここに十セントある。やるから、消えてくれ」

「どうもありがとう」ミスター・ジョンスンはそう言って、十セントをポケットに入れた。「おうかがいするが、君は走るのをやめたら、一体どうなってしまうんだね?」

「遅刻するんだよ」若い男はそう言うと、なんとかかわそうとしたが、驚いたことに相手はまとわりついてくる。

「君は一時間いくら稼いでるんだ」ミスター・ジョンスンはたずねた。

「あんた、共産党かい?」と若い男は言った。「さあ、頼むよ、行かせてくれないか」

「断る」ミスター・ジョンスンはにべもなく言った。「いくらだ」

「一ドル五十。これで気が済んだか?」

「冒険は好きかね?」

 若い男はあっけにとられたような顔になった。まじまじと見ながら、ミスター・ジョンスンの人好きのする笑顔にからめとられていた。すんでのところで笑みを返しそうになり、ぐっとこらえて、身をふりほどこうとした。「急がなきゃ」

(この項つづく)