陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

菊池寛『下郎元右衛門―敵討天下茶屋』

2009-09-22 23:07:42 | 
「抽象画はわからない」と言う人がいるが、そういう人に、じゃあ誰ならわかるのか、と聞いてみると、たいていゴッホだとかセザンヌだとかという。けれど、もう少し踏み込んで、たとえばゴッホの何が「わかる」というのか、と聞いてみると、「ひまわり」の絵がひまわりを描いていることが「わか」ったり、テーブルの上の静物がリンゴだったりオレンジだったりするのが「わかる」と言っているだけで、なぜ「ひまわり」なのか、ひまわりのどこを見なければならないのか、背景や花瓶の質感がひまわりとどう関係しているのか、その他もろもろのことをいろいろわかった上で「わかる」と言っている人はそれほど多くないような気がする。そんな具合にじっくりと見るならば、ゴッホだってセザンヌだって、めっぽう難解であることには変わりはないだろう。

小説だっておなじことで、「何が書いてあるかわかる」(つまり、物語の筋が追える)小説がわかりやすく、「何が書いてあるかよくわからない」小説が難解であるかのように受けとられることが多いけれども、実際には何が書いてあるかを理解することと、その小説を理解することはちがうように思う。

わたしが菊池寛を最初に読んだのは小学生のときだった。ストーリーは起承転結がくっきりしているし、テーマ小説といわれるだけあって、「何についての話か」もよくわかる。しかも小学生の目にも、人間の心理というのがよく描かれているように思えて、わたしはそのころ菊池寛とアガサ・クリスティをせっせと読んで、「人間とはこんなものなんだ」と考えていたような気がする。

さすがにアガサ・クリスティには戻らなかったけれども、菊池寛はそれから四半世紀近くを隔てて、またおもしろく読むようになった。小学生のころ読んでいた初期の代表作よりも、いわゆる「大衆小説」に分類される後期の仇討ちものの方がおもしろい。

なかでもわたしが好きなのは、『下郎元右衛門―敵討天下茶屋』である。
これは実際にあった天下茶屋の仇討という事件に材を取った、というより、歌舞伎の演目『敵討天下茶屋聚』を下敷きにした作品である。歌舞伎では端役にあたる元右衛門という人物を、菊池寛は中心に据え、そこから話を作り直しているのだ。

残念ながら青空文庫ではいまだ「作業中」ということなので、少し詳しくあらすじを書いてみる。興味のある人はぜひ『仇討小説全集』を読んでみてください。
「菊池寛『仇討小説全集』」

弥助と元右衛門は兄弟(歌舞伎では元右衛門が兄なのだが、菊池版では元右衛門は弟になっている)そろって林家の中間を勤めている。ところが林家は現在、当主が當麻(たいま)三郎右衛門という武士に殺されたために、断絶の憂き目にあっている。いまの目で見ればなんとも理不尽な話なのだが、仇討ちを果たすまで、家は断絶というのが、当時のしきたりであったようだ。

この仇討ちの主役となるのは林家の嫡男重治郎と次男源次郎。家が断絶されているために、ふたりは浪人で、したがって林家に仕える弥助や元右衛門も、いまでは中間ではない。

中間というのはもちろん武士ではなく、単なる奉公人だから、別に家に縛られているわけではない。別の口があれば、別の家へ移ることも可能だ。だが、主人にあたる重治郎は足が悪くて助太刀なしではとても仇討ちもできそうにないために、代々中間を勤めてきた弥助は、家が断絶されたからといって、重治郎を見捨てるわけにもいかない。

とはいえ、弟の方は年季奉公である。弟の元右衛門こそ、よそに移ってかまわない。だが元右衛門も、兄だけ見捨てて主家を出るわけにはいかない。そこでふたりの兄弟は、わらじを編んだり、ときには自分の布子(いまでいう綿入れ)を質に入れて、主人兄弟の米を買ったりして養っている。

ところが元の主人である林兄弟の方は、元中間たちの苦労に気がつこうともしない。兄の方はほとんど寝たきり、弟の方はそれでも百姓や町人たちを集めて漢文の講義をやっているが、それで授業料を取ってはいるものの、弥助ひとりがわらじを作って売った代金にも及ばない。それどころか、わらを打つ音がやかましいといって、講義のあいだはわらじ作りもしてはならないと申しつける始末である。

弥助・元右衛門兄弟は、敵討ちが首尾良くいけば、林家も家老に返り咲くこともできるし、そうなれば自分たちも士分に取り立てられると考えて、なんとか辛抱を重ねている。ところが仇とねらう當麻三郎右衛門がどこにいるかさえもわからない。仇を捜して三年目にもなると、仇討ちということが、四人に重くのしかかるようになっている。

元右衛門はある日、わらじを問屋に納めた帰り、食事をするつもりで店に入る。ところがその店ではちょうどそのとき賭場が開帳されているところで、元右衛門は店の女に言われるままに、ばくちに手を出すことになった。

ビギナーズラックというのもあるもので、元右衛門は運良く一両ほどを手に入れた。いい気分で家に帰り、兄に渡すと、それもまた元主人たちを養う米に消える。だが、元右衛門は初回の勝利に味を占め、賭場に入り浸るようになる。女とつきあい、酒も飲む。だが、そうなると賭のつきには次第に見放され、それでも負けた分は女が立て替えてくれた。

どうやらこの女はおれに気があるらしい、と思うと、もう家に帰るのがいやになる。女と所帯をもてたらどれだけ幸せであろうか。そんなことを考えていたある日、兄の弥助に問いつめられることになる。兄の方は最初の日に一両持って帰ったときから気がついていたのだ。

問いつめる弥助の声を聞いて、主人である重治郎が声をかけてきた。足の悪い重治郎は、寝床に腹這いになったまま、元右衛門を諭そうとする。
「いろいろ苦労をかけ世話になっている。よく働いてくれる。それは、よく判っている。しかし、元右衛門! 不正なことをした金で、助けて貰おうとまでは思わぬぞ。いいか、わしら兄弟は、尾羽打ち枯しているが、人に恥を受けんだけの用意はある。弥助なり、その方なりが、居なくなるとか病気になるとか、万一の時には、これ――」と、云って、敷蒲団の下から、財布を出した。そして、
「小判で、三十両。これが、武士の嗜みと申すものだ。働ける間は、働いてくれるといい。万一の時には、餓えんだけの用意はしてある――」
元右衛門にしてみれば、これほど腹の立つ話もない。
 元右衛門は、身体中が赤くなる位に、腹立ちと憎みとが、起って来た。
(一通りや、二通りの苦労かい。手にゃ、ひびが入るし、足にゃ、あかぎれが出来るし、昼飯も抜いたり、布子を脱いだり、――それを知っていて三十両も、せめてその中の五両でも出したって、罰も当るまい。出来ん辛抱をしている人間を、さんざん働かせておいて、三十両も、のめのめとかくしている。こちとらを牛か馬とでも思っているのか……)
 元右衛門は、三十両の大金をかくして、一言も話さなかった重治郎の態度に、心から憎悪が起って来た。
重治郎は元右衛門の気持ちなど一向に斟酌することもなく、こんなことまで言うのである。
「金と申すものは、一両出すと、すぐ二両が出る。あると思うと、気がゆるむ。まして、敵を討つ身として、いよいよとなれば、晴の仕度もせねばならぬ。林の家の伜として、先祖の顔を潰すようなことも出来ぬ。わしは、幾度かこの金を出そうと思ったか知れぬ。その度に、いやいやと思って、ひっこめた。源次郎にさえ、この金のことは明してない。可哀そうなと思う,こともあるが、心を鬼にして、今日までか<していた。だが、お前が、不正なことしてまで、金を作るような気になったとすると打ち明けずに居られなくなった。わしの貧乏は、ちゃんと心がけがあっての貧乏だ。お前に不正なことをして貰ってまで、餓を凌ごうとまでは思っていないのだぞ。武士の貧乏は、心得のないそち達下郎の考えるものとは違うぞ。」
その晩、元右衛門は腹が立って眠れない。
(三年越、こちらに養われて来て何の下郎だ。宇喜多の家老の息子と家来なら、それでいいが、浪人して此方の厄介になって居れば、同じ人間同志ではないか。それも弥助のように、親代々の小者ならいいが、わしは給金目当の仲間奉公だ。それだのに、男の意地と情誼で、三年も辛抱してやっているのに。三十両もしまい込んで置いて、下郎不正な金では世話にたりたくないと、何が不正な金だ。俺達を、こんなに不当に働かしながら、貯めて置く金こそ、不正の金ではないか)
隣では弥助がぐっすりと眠っている。重治郎も眠っているらしい。弟の源次郎は留守だ。元右衛門は考える。三十両あれば、女と江戸へ逃げて所帯が持てる……。

ところが重治郎は、実はそんな金など持ってはいなかったのである。わざわざそんなことを元右衛門にいったのは、「金が無いと思うと、人間と云うものは、心細くなって、つい道を踏み外す事もあるが、万一の場合三十両あると思うと、却って安心をして、つらい辛抱も出来るであろう」と考えてのことだった。実は元右衛門に見せた財布には、自分たち兄弟が返り討ちにでもなった場合、回向料としての三両しか入っていなかったのだ。

夜半、重治郎の布団に手がかかる。重治郎は起き直り、坐ったままで刀をふるったが、賊は逃げてしまった。隣の部屋へいくと、自分の脇差しで切られ、息絶えようとしている弥助の姿があり、隣の元右衛門の寝床はもぬけのからだ。重治郎は弥助を介抱しようとしたが、そのまま弥助は息絶えた。

一方、財布を奪った元右衛門は、まっすぐ女の下にかけつける。江戸へ逃げて、所帯を持とう、ここに三十両ある。さしだした財布を女が改めると、そこから出たのは「回向料」と書かれた薄い紙包み。女からは「わしはお前さんの、初心な所が好きだが、惚れるとか夫婦になるとか、それは別だよ。――こんな所にいる女が、一寸のことで、惚れたり、夫婦になったりしちゃ、商売にならないじゃないの。」と言われてしまう。

元右衛門は「腸(はらわた)がねじれるような気がした」。
(どうして、三十両などと、嘘をついたのだろう――弥助が、組みついて来たので、手に持っていた脇差で突いたが――どうしたか、死んで呉れなけりゃいいが。俺は、一体何をしたと云うのだ。――この女は惚れていたいし)

元右衛門は酒を飲んだあげく、店を出る。そこで四、五人の伴(とも)を連れた立派な武士に呼び止められる。なんとそれは當麻三郎右衛門だった。當麻に「林兄弟はどこにいる」と聞かれる。隠すと命はないぞ、と脅され、正直に言えば三十両やろう、とまで言われるのである。三十両あれば、あの女に軽蔑されないですむ、と考えた元右衛門は、當麻三郎右衛門の手引きをすることになる。

かつての主人の家までの道を歩かせられながら元右衛門は考える。
(どうして、俺はこんなひどい悪人になってしまったんだろう。別に、おれは特別悪人に生れついたとは思えないんだが、なぜ俺がこんた大それた男になったんだろう。敵討、貧乏、女、賭変、忠義、人情、そんなものが妙に、こんぐらがってしまったんだ。そして、俺がいつの間にか、こんな悪人になってしまっているんだ。俺は悪人じゃないが)

この短篇は、ここですぱりと切り落としたように終わってしまう。このあとどうなるか、歌舞伎を知っていれば話はわかるが、菊池寛はその先を言わない。読者であるわたしたちも、元右衛門と一緒に、暗い道をひたすら歩き続けるしかないのだ。そもそも自分は悪い人間ではなかったはずなのに、どこで足を踏み外してしまったのだろう、と考えながら。まるで醒めない悪夢のように、この話はどこへも行き着かない。