以前、志望校選択を前にした高校生の男の子が、「まだ自分の人生を決めろ、と言われても、どう考えたらいいかわからない」と言っていた。「十七やそこらで人生が決められるわけがない」とも。
まず、理系にするか文系にするかで、おおざっぱな自分の進路を決める。そこからさらに、大学か、専門学校か。これに回答を出そうと思えば、将来医療方面に進みたい、とか、先生になりたい、とかのおおまかな自分の将来の青写真が必要になってくる。とりあえず大学に行っておけば何とかなる、という同級生もいるが、この就職難、とりあえず大学に行けば、すぐに就活、結局サラリーマンになる、ということと同じだ。それも何だかちがうような気がする、というのである。
かといって、何かやりたいことがあるわけではない。医者になるには成績が良くないし、そこまで熱意はない。先生も大変そうだし、公務員になれたら安泰かな、とも思う。こんな考えしか出てこない自分が、自分でもなんだか情けない。自分の意志というのは、いったいどこにあるのだろう……。
「意思」という言葉を聞いて、わたしが思ったのは、この「意思」というのはいったい何なのだろう、ということだった。
わたしたちは、自分の人生は、自分の意志によって決めることができる、と思っている。ところがこの自分ときたら、自分の意志を自分に問うても、一向にわからないのだ。自分が何がしたいのか、自分に何ができるのか、自分で自分がわからない。そんな自分が情けなく、ふがいなく思えてくる。
なかには、早くから医者になる、弁護士になる、画家になる、音楽家になる、と志望する職業を決め、それに向かって邁進するような子もいる。だが、多くの子は(わたしもそうだったのだが)、そこまで深く考えることなく、もうちょっと先で……と問題を先送りして、さしあたって決めなければならない志望校や学部を、何となく、あるいはエイヤっと決めているような気がする。
つまり、この問いは、真剣に考えれば考えるほど、わからなくなってくるものなのではあるまいか。
ひところ「自分探し」なる言葉を頻繁に耳にした。これも煎じ詰めれば「自分はいったい何がしたいのか」という問いでもあっただろう。当時「自分探し」をした人がほんとうにいたのかどうかは知らないが、「自分」なるものを探した結果、いったい何が見つかったのだろうか。もしほんとうに「自分探し」をした人がいたのなら、その結果を聞いてみたいような気がする。
だが、そのような「意思」など、まるで問題にならないような情況に生まれていたらどうだろう。生まれる前からすでに人生のレールが引かれているような情況である。
たとえば菊池寛の仇討ち小説のひとつに、「ある敵討ちの話」というものがある。(青空文庫ではまだ「作業中」なのだが、個人のサイトで読めるところがあるので、興味のある方はタイトルで検索してみてください)
主人公の八弥は十七歳のときに仇討ちの旅に出ることになる。自分の生まれる前、父親を殺した敵(かたき)を討ち取らなければならない。
なにしろ生まれる前の出来事なのである。八弥はその敵の顔も知らなければ、父親に会ったことさえない。元服するまで母親はそのことを伏せており、さまざまな面で幸せに育った八弥は、相手に対する憎しみもばくぜんとしたものだ。だから「彼は自分が少しも関知しない生前の出来事が自分の生涯を支配して居るという事実を、痛切に感ぜずには居られなかった。」
それでも彼には大きな目的がある。果たすべき目的を前にして「彼は復讐という事に多少の不安が伴ったものの、全体としては、華やかな前途に、多くの勇ましい事と美しい事があるような気がした。復讐という事がどんなに困難であるかは知らぬが然しそれは華やかな、人間としてやり甲斐のある仕事である事は確だと思った。彼の心は自分の仕事に可なり熱狂する事が出来た。」
ところが現実にはそうはいかない。なかなか敵には巡り会えない。讃岐訛りと、ほほのほくろだけをたよりに、日本中を歩き回る。なにしろ敵討ちを果たすまでは国許には帰れないのだ。
四年目のある日、前橋で泊まった八弥は按摩を頼む。揉んでもらいながら、話を交わすうち、その按摩が讃岐の人間、しかも元は武士であることを聞く。見れば、唯一の手がかりであるほくろが相手の頬にある。
八弥は相手の本名を呼び、自分の名を相手に告げる。盲人も「拙者も之で死花が咲き申すわ。」と討たれることを覚悟している様子である。八弥はそこで初めて、生前の父と彼とは友人であったこと、父の名をなつかしげに呼ぶさまを聞く。しかも盲人である。敵愾心を持とうにも、持つことができない。自分を討て、という盲人の言葉に、応えることができないのである。
彼がどうしたか。
菊池寛はその点をあきらかにすることはない。ただ、そこには首のない盲人の死体、どうやら切腹したらしい腹の傷のある死体が残っていた、とするだけである。
八弥は首を下げて帰郷し、加増を得る。だが、やがて浪人して藩を出、江戸に出て剣客としてその名をとどろかしたのが彼であるらしい、と消息を読者に告げたところで、この短篇は終わる。
この短篇は、「自分の意思」というのは、自分が決められるものではない、ということを教えてくれる。自分がこれに対してどのような態度を取るかを迫られる局面は、かならず来る。だが、それは個人が決められることではないのだ、と。八弥の仇討ちは、彼とその「敵」による共同作業として遂行された。そうして藩に首を持ち帰ることで、社会的に意味づけられたのである。
こう考えていくと、「自分の意志」とは、自分に問いかけてみれば、答えが出てくるようなものではない、ということがわかる。「自分の意志」なるものは自分の内部にストックされているのではなく、むしろ周囲との諸関係のなかで決められているものといえる。そのなかで、具体的なやりとりをしていく他者との共同作業によって、作り上げられていくものである、と考えることができないだろうか。
まず、理系にするか文系にするかで、おおざっぱな自分の進路を決める。そこからさらに、大学か、専門学校か。これに回答を出そうと思えば、将来医療方面に進みたい、とか、先生になりたい、とかのおおまかな自分の将来の青写真が必要になってくる。とりあえず大学に行っておけば何とかなる、という同級生もいるが、この就職難、とりあえず大学に行けば、すぐに就活、結局サラリーマンになる、ということと同じだ。それも何だかちがうような気がする、というのである。
かといって、何かやりたいことがあるわけではない。医者になるには成績が良くないし、そこまで熱意はない。先生も大変そうだし、公務員になれたら安泰かな、とも思う。こんな考えしか出てこない自分が、自分でもなんだか情けない。自分の意志というのは、いったいどこにあるのだろう……。
「意思」という言葉を聞いて、わたしが思ったのは、この「意思」というのはいったい何なのだろう、ということだった。
わたしたちは、自分の人生は、自分の意志によって決めることができる、と思っている。ところがこの自分ときたら、自分の意志を自分に問うても、一向にわからないのだ。自分が何がしたいのか、自分に何ができるのか、自分で自分がわからない。そんな自分が情けなく、ふがいなく思えてくる。
なかには、早くから医者になる、弁護士になる、画家になる、音楽家になる、と志望する職業を決め、それに向かって邁進するような子もいる。だが、多くの子は(わたしもそうだったのだが)、そこまで深く考えることなく、もうちょっと先で……と問題を先送りして、さしあたって決めなければならない志望校や学部を、何となく、あるいはエイヤっと決めているような気がする。
つまり、この問いは、真剣に考えれば考えるほど、わからなくなってくるものなのではあるまいか。
ひところ「自分探し」なる言葉を頻繁に耳にした。これも煎じ詰めれば「自分はいったい何がしたいのか」という問いでもあっただろう。当時「自分探し」をした人がほんとうにいたのかどうかは知らないが、「自分」なるものを探した結果、いったい何が見つかったのだろうか。もしほんとうに「自分探し」をした人がいたのなら、その結果を聞いてみたいような気がする。
だが、そのような「意思」など、まるで問題にならないような情況に生まれていたらどうだろう。生まれる前からすでに人生のレールが引かれているような情況である。
たとえば菊池寛の仇討ち小説のひとつに、「ある敵討ちの話」というものがある。(青空文庫ではまだ「作業中」なのだが、個人のサイトで読めるところがあるので、興味のある方はタイトルで検索してみてください)
主人公の八弥は十七歳のときに仇討ちの旅に出ることになる。自分の生まれる前、父親を殺した敵(かたき)を討ち取らなければならない。
なにしろ生まれる前の出来事なのである。八弥はその敵の顔も知らなければ、父親に会ったことさえない。元服するまで母親はそのことを伏せており、さまざまな面で幸せに育った八弥は、相手に対する憎しみもばくぜんとしたものだ。だから「彼は自分が少しも関知しない生前の出来事が自分の生涯を支配して居るという事実を、痛切に感ぜずには居られなかった。」
それでも彼には大きな目的がある。果たすべき目的を前にして「彼は復讐という事に多少の不安が伴ったものの、全体としては、華やかな前途に、多くの勇ましい事と美しい事があるような気がした。復讐という事がどんなに困難であるかは知らぬが然しそれは華やかな、人間としてやり甲斐のある仕事である事は確だと思った。彼の心は自分の仕事に可なり熱狂する事が出来た。」
ところが現実にはそうはいかない。なかなか敵には巡り会えない。讃岐訛りと、ほほのほくろだけをたよりに、日本中を歩き回る。なにしろ敵討ちを果たすまでは国許には帰れないのだ。
四年目のある日、前橋で泊まった八弥は按摩を頼む。揉んでもらいながら、話を交わすうち、その按摩が讃岐の人間、しかも元は武士であることを聞く。見れば、唯一の手がかりであるほくろが相手の頬にある。
八弥は相手の本名を呼び、自分の名を相手に告げる。盲人も「拙者も之で死花が咲き申すわ。」と討たれることを覚悟している様子である。八弥はそこで初めて、生前の父と彼とは友人であったこと、父の名をなつかしげに呼ぶさまを聞く。しかも盲人である。敵愾心を持とうにも、持つことができない。自分を討て、という盲人の言葉に、応えることができないのである。
彼がどうしたか。
菊池寛はその点をあきらかにすることはない。ただ、そこには首のない盲人の死体、どうやら切腹したらしい腹の傷のある死体が残っていた、とするだけである。
八弥は首を下げて帰郷し、加増を得る。だが、やがて浪人して藩を出、江戸に出て剣客としてその名をとどろかしたのが彼であるらしい、と消息を読者に告げたところで、この短篇は終わる。
この短篇は、「自分の意思」というのは、自分が決められるものではない、ということを教えてくれる。自分がこれに対してどのような態度を取るかを迫られる局面は、かならず来る。だが、それは個人が決められることではないのだ、と。八弥の仇討ちは、彼とその「敵」による共同作業として遂行された。そうして藩に首を持ち帰ることで、社会的に意味づけられたのである。
こう考えていくと、「自分の意志」とは、自分に問いかけてみれば、答えが出てくるようなものではない、ということがわかる。「自分の意志」なるものは自分の内部にストックされているのではなく、むしろ周囲との諸関係のなかで決められているものといえる。そのなかで、具体的なやりとりをしていく他者との共同作業によって、作り上げられていくものである、と考えることができないだろうか。