陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

子供と死

2009-09-16 22:45:54 | weblog
小学校の一年生か二年生ぐらいの、ランドセルの方が大きいような男の子がふたり、ケンカでもしていたのだろう、道路をはさんで大声で互いを罵倒しあっていた。
「死ね!」
「おまえこそ死ね!」
死ねの大安売りにおかしくもなったのだが、ふとその子たちはほんとうに相手の死を願っているのだろうか、と気になった。

もちろんそんなはずがない、ただ、相手を罵倒しようと、ボキャブラリも決して多くない子供たちが、知っている限りの強烈な言葉を選ぶ、言ってみれば強調表現でしかない、という見方をするのが常識的な考え方だろう。

けれども、もしかしたら腹を立てている当の子供は、相手がほんとうにこの世からいなくなることを望んでいるのではないか、という気もするのだ。
何も子供が残酷だ、ということが言いたいのではない。子供には、たとえば残酷な大人のような残酷さ――たとえば嗜虐性のようなもの――はないように思う。けれども、子供は単に経験がなかったり、深く考えることができない、という理由だけでなく、もっと大人より「死」に近いところにいるのではないか、という気がする。

以前にも引用したことがあるのだけれど、児童文学者の高楼方子(たかどのほうこ)の記憶は大変興味深い。二歳になったばかりの頃、どぶに落ちたときの記憶だ。
 ははあ、落ちたのだな、と思ったすぐあとに頭をよぎったのは、あ、死ぬのだな、でもこれでいいのだ、という思いだった。もともと私は、こことそっくりの所にいたのだもの、あの明るい所に私がいたのは間違いで、本当はこういう所にいるはずなのだ、だからこれでいいのだ、と思ったのだ。そして、ところで、「こういう所」とは、はていったいどこだったろう……と懸命に考えているその途中に、ぱっと光が差して私は救出され、謎は、宙ぶらりんのまま、いつまでも心にのこったのだ。

「こういう所」とは、おなかの中にいた時のことに違いない、とずいぶんあとになって気づいた。二年前くらいのことなら、誰しもが、つい最近のこととして記憶している、ということは、二歳の人間が、二年前のことをからだのどこかに記憶していたとしても、それほど意外なことではないのではないか。

 死ぬのだな、と思いながら、かすかな恐怖さえ感じなかったのも、もといた所に戻れるという安心感があったせいだと思う。もしかするとこれは、さまざまな事態で命を落とさざるを得ない、小さな子どもたちへの自然の配慮なのかもしれない。幼ければ幼いほど、胎児時代の記憶は近く、その分だけ、死に至る独りぼっちの暗闇も、恐怖から遠い、安らかな場所になりかわり、子どもを包むのではないだろうか。
(高楼方子『記憶の小瓶』クレヨンハウス)
前に引用したときは「もといた所に戻れるという安心感」というのは、一種の創作というか、大人になってからの感じ方ではないか、と思ったのだ。わたしたちは「土に還る」といった言い方をしたりして、なんとなく生まれる前と死んでからが同じ場所、という感じ方をしているけれど、子供がそんなふうに考えるものだろうか、と。

だが、もしかしたら、大人になってからのわたしたちがそんなふうに感じているのも、「からだのどこか」の記憶なのかもしれない。そうして、そこから出てきて間がない子供にとって、その世界はかならずしも恐ろしい場所ではないのかもしれないのだ。

フランスの作家シャルル=ルイ・フィリップの連作短篇に『小さな町で』というものがある。そのなかに「アリス」という作品がある。

アリス・ラルチゴーというのは、かわいらしい七歳の女の子である。その子は学校へ行こうとしない。大人たちがあれやこれや言ってみても、頑として言うことを聞かない。実はずっと母親のそばにいたいからだった。学校に行けというと

 「ママが学校に行かせたら、あたし病気になって死ぬ」(『フィリップ傑作短篇集』山田稔訳 福武文庫)

という。ラルチゴー家ではアリスが生まれたあと、四年間に三人の子供が産まれていたが、いずれも生後一週間で死んでいたので、アリスの言葉は両親を震え上がらせるに足るものだったのである。

アリスは一日中外に出ようとしない。母親にまとわりつき、家事に忙殺されているようなときは邪魔をする。母親の注意が姉や兄の上に及ぶ夕食の時間は、アリスにとって恐怖のひとときだ。
 夕食の時間、テーブルのまわりに家族全員が集まっているときなど、姉やふたりの兄をじっとながめていて、アリスはふと云い知れぬ不安に襲われることがあった。彼女は愛されるだけでなく、ほかの誰よりも愛される必要があるのだ。彼女はみなの注意をひくためにまずこう呼んでみる。

「ママ」

 みなが目を上げる。するとアリスはつづけて、

「アリスだわね、いちばんかわいいのは」

やがてこのラルチゴー家に男の赤ちゃんが生まれる。過去三度の経験から、アリスは赤ん坊というのは生後一週間で死ぬものと思いこんでいた。ところが一週間経っても死にそうにはない。だんだんアリスは気が気ではなくなってくる。

周囲の人びとは、毎朝アリスが「ママ、赤ちゃん死んだ?」と聞くのは、弟のことを気遣ってだと思っている。だがやがて、アリスの真意がわかってくる。
 アリスはさらに何ごとかを期待していたのだ。もし弟がいつまでも生きているようなら、そのうち誰かが思いきって殺してくれるだろうと思っていたのだ。赤ん坊を揺籃(ゆりかご)に入れ、寒くないようにと毛布をあごのところまで引き上げるとき、アリスは母親も自分と同じ気持でいると考えてこんな風にすすめるのだった。
「毛布を口と鼻の上にかぶせた方がいいよ。息ができなくなるから」

母親は心配して「かわいいじゃないの」とアリスに赤ん坊を見せる。アリスはその小ささ、かわいらしさがたまらない。赤ん坊は死にそうにない。そこでアリスは叫ぶ。
「あたし、いちばん小さくなりたい! あたし、いちばん小さくなりたい!」
 その日の晩、彼女はこう宣言した。
「赤ちゃんが死なないのなら、あたしが死ぬ」

そうしてアリスは自分の言葉を実行する。食事もせず、一日中小さな腰かけにすわったまま、暗い目で母親の動きを追い、管を用いて流動食を注入しようとする医者にも抵抗する。作者は短篇をこの言葉で締めくくる。
アリスは仕返しをしているのだった。母親は泣いていた。アリスは、母親が自分から愛情を取り上げて弟にあたえたことにたいする仕返しをしているのだった。
 アリスは七つの歳で嫉妬のため死んだ。彼女は自分の小さな腰掛けに坐っていた。突然、横に転げ落ちた。見つけた者があわてて抱き起こした。すでに死んでいた。

アリスの世界は小さい。自分と、母親と、赤ん坊と、そうして背景とさほど変わらない大きさで他の家族がいるだけだ。そうして、その世界の中心に自分がいる。ただひたすら母親から愛される、誰よりもいちばん愛されることを求めている。それ以外のことが入り込む余地はないのだ。

アリスの小さな世界のなかには、「愛されること」がある。そうして、「死」がある。
アリスが知っていた「死」は、アリスのそれまでの弟たちが一週間で死んだ、という経験から学んだことだけだったのだろうか。それだと、新しい赤ん坊の死を願うだけとなるのではないか。アリスが自殺したのは、もっと「自分の経験」として、「死」ということを大人とはちがう知り方で知っていたのではないか、という気もするのだ。

子供は「死ね」と平気で言う。確かに、相手にも親がおり、死ねば悲しむ家族がいる、ということに思い至らないから、言葉を換えて言えば「わからない」からこそ、平気で言える側面は確かにあるだろう。けれども、「こういう所」として、身体のどこかに覚えているから、それを知っているから、「死ね」と言う、というところもあるのではないだろうか。

朝の声

2009-09-15 22:57:29 | weblog
昔は夏の夜店でヒヨコを売っていたものだったが、いまはそんなことはしないのだろうか。水風船や金魚すくい、綿あめやリンゴ飴、当てものなどに並んで、段ボール箱のなかで、黄色いばかりでなく、毒々しいピンクや青に染められたヒヨコたちが、裸電球に照らされてピイピイと鳴いていた。

一度、そんなヒヨコを手にのせさせてもらったことがある。おそらく屋台の前にしゃがんで段ボール箱をのぞきこんでいたのだろう。ふわふわした羽毛とオレンジ色の小さなくちばし、丸い目のヒヨコはたいそうかわいらしく、ちょんちょんとわたしの手をつつくのだった。毛糸玉をのせているようなわずかな重みと、痛いようなくすぐったいような感じに胸がしめつけられるようで、どれほどこのまま、手のひらにのせて連れて帰ってやりたかったことか。

値段も金魚すくい一回分とどれほども変わらなかったのではあるまいか。おそらくねだったのだろう、母親から、ヒヨコのうちはかわいいけど、じきにすぐに大きなニワトリになるよ、そうなったらどうするの、あんたに面倒がみてやれるの、と言われたような気がする。だが、目の前のふわふわしたヒヨコが、不気味な赤いとさかを持つ、怖い目のニワトリになるのだとは、頭では理解していても、どうしても信じられないのだった。絶対駄目、と言われて、がっかりしながらヒヨコを箱に戻し、去り際にもう一度振り返ると、もうさっきのがどれだかわからなくなってしまっていた。来たときと同じように、電球に照らされて、黄色やピンクや青いヒヨコたちは箱のなかでピイピイ鳴きながら、うろうろしていた。お祭りが終わったら、あのヒヨコはみんなどうなるのだろう、と思ったのではなかったか。

その年ではなく、それからさらに数年が過ぎていたような気がする。二学期も半分ほどが過ぎ、秋もずいぶん深まり、日の出も遅くなったころだった。
「コォゥケコッコォォー!」と鳴くニワトリの大音声に飛び起きたことがある。いったいどこから聞こえてくるのだろうと二階の窓から頭を出せば、まだ暗いなかに電灯のあかりがぽつりぽつりとついていくのが見えた。どこから聞こえてきたのか、目を凝らしていると、起き出した人に自分の声を聞かせようとするかのように、もう一度「コォゥケコッコォォー!」と聞こえてきた。どうやら家から数軒先の庭先から聞こえてくるらしかったが、暗く冷たい外気をふるわせて響き渡るかのようだった。

後年ハムレットを読んだとき、雄鶏のことを「朝を起こすトランペット」と書いてあって、その夜明け前のことを思い出したものだ。鳴くといえば、竿竹売りや廃品回収車や救急車が通るたびに遠吠えをするイヌもいたが、ニワトリの声はイヌなどの比ではなかった。それとも、まだ人が寝静まっている、静かな時間帯だったからこそ、あそこまで大きく響いたのだろうか。

やがてそのニワトリが、夜店のヒヨコのなれの果てであることを聞いた。そこの家の、わたしより少し年少の子供が、夜店で買って、玄関先の段ボール箱のなかで飼っていたのだそうだ。それが数ヶ月のちには、立派に成人? して、ある日突然、夜明けを告げるようになったらしい。

それを聞いて、わたしはそこの家へ見せてもらいに行った。ところが玄関は薄暗いし、段ボール箱は深いしで、よく見えない。なおも頼むと、家の人が箱から出してくれた。

すると、広い世界に出たことがうれしかったのか、ニワトリはいきなりとっとっとこっちへ向かって走り出したのである。ヒヨコのころとはうってかわった猛々しいクチバシである。赤いとさかもびよびよと揺れている。つつかれては大変、と思って、わたしはキャッと逃げ出した。一緒に見ていたそこの家の子も逃げ出した。子供二人がニワトリに追い掛けられている図というのは、いま考えれば笑ってしまうような情景だが、そのときのわたしは怖くて怖くて、死にものぐるいで逃げていたような気がする。にもかかわらず、そのニワトリの白い羽の先が、一部分、そのときもなお青く染まっていて、これは青いヒヨコだったんだなあ、と思ったものだった。

そこの家でも扱いに困っていたのだろう。そこへ、朝も早くから鳴くようになって、近所から苦情が殺到したらしい。気がつけば鳴き声はしなくなり、なんでもそこの家の親類が暮らす千葉の田舎の方にあげたらしかった。

こんなことを思い出したのは、今朝早く、ニワトリの声が聞こえたからだった。明け方雨が降っていたこともあるのだろう、少し離れた場所にある幼稚園から聞こえたものらしかった。集合住宅の建て込む一画に、小さな幼稚園がある。もっと近いマンションの住人から、苦情が行くことはないのか、それとも普段は鳴かないニワトリだったのだろうか。距離もあってか、子供の頃に聞いた声より、はるかに小さなものだったが、なぜかその声は、「クッカドゥードゥルドゥー」と英語風に聞こえたのだった。

距離、空気中の湿度など、いくつかの条件が重なれば、こんなふうに聞こえるのかと思うと、なんだかおかしくなってしまった。そういえばフランスでは、ニワトリは「ココリコ」と鳴くのではなかったか。いったいどういう場面で聞けばココリコと聞こえるのだろう。


シャーリー・ジャクスン「魔女」後編とサイト更新のお知らせ

2009-09-13 22:30:35 | 翻訳
【後編】

「そうなのかい?」男は如才なく、小さな男の子にそう言った。「二十六歳なんだね」通路の向こう側にいる母親をあごで示して「あれは君のお母さん?」と聞いた。

 小さな男の子は前へ身を乗り出してそちらに目をやってから答えた。「そうだよ。お母さんというのはあの人のこと」

「君の名前は?」男が聞いた。

 小さな男の子はまた、うさんくさげな目で男を見た。「ミスター・イエス」

「ジョニーったら」小さな男の子のお母さんはたしなめた。男の子の目をとらえて、きっとにらみつける。

「あれはぼくの妹」小さな男の子は男に言った。「十二ヶ月半なんだ」

「妹のことが好きかね?」男は聞いた。小さな男の子はまじまじと相手を見つめ、男は座席を回りこんで、男の子の隣りに腰をおろした。「さて、と」男は言う。「おじさんの妹の話が聞きたくないか?」

 母親は、男がわが子の隣りにすわろうとするのを心配顔で見やっていたが、やがて安心して本に戻っていった。

「おじさんの妹の話をしてよ」小さな男の子は言った。「魔女だったの?」

「そうだったのかもな」男は言った。

 小さな男の子は興奮のおももちで笑い声を上げ、男は座席に背をもたせかけると葉巻を吹かした。

「昔むかし」と男は話を始める。「おじさんにはちっちゃな妹がいたんだ。ちょうど君の妹のような」小さな男の子は男を見上げ、言葉のひとつひとつにうなずく。「そのちっちゃな妹は」と男は話を続けた。「とってもかわいくて、それはそれはいい子だったから、おじさんは世界中のどんな人や物もかなわないくらい、その子のことが大好きだった。だからおじさんがどうしたか、教えてほしいかい?」

 小さな男の子は、いっそう熱っぽくうなずき、母親も本から顔を上げ、笑みを浮かべて耳を傾けた。

「おじさんはね、妹に木馬とお人形と棒つきキャンディをそれはそれはたくさん買ってやった。それから妹をつかまえて、両手で首をにぎりしめ、ぎゅーっと力いっぱい締め上げたのさ、死んじゃうまで」

 小さな男の子はごくりと息を飲み、母親の方はぱっと振り返った。その顔からは笑みもかき消えている。母親は口を開きかけたが、男が言葉を続けたので、また口を閉じた。「それからおじさんは赤ん坊をつかんで、頭を切り落とした。それからその頭を……」

「頭をばらばらにちょん切っちゃったの?」小さな男の子は息を切らせながら尋ねた。

「頭を落としてから、手と足と髪の毛と鼻をちょん切ってやった」男は言った。「それから棒で叩いて、息の根をとめてやったんだ」

「いいかげんにしてください」母親は言ったが、ちょうどそのとき赤ん坊が横倒しになったので、もう一度すわり直させている途中、男は話を続けた。

「それからおじさんは妹の頭をつかんで、髪の毛を引っこ抜いてやった。それから……」

「おじさんの妹なんでしょ?」小さな男の子は夢中になって話をうながす。

「おじさんの妹だ」男は有無を言わさぬ調子で答えた。「それからその頭をクマの檻のなかへ放り込んだ。するとクマはそれをぺろりとたいらげたのさ」

 母親は本を置くと、通路を横切ってやってきた。男のすぐ脇に立ったままで言った。「自分が何を言ってるか、わかってらっしゃるんですか」男はいんぎんにそちらを見やり、母親は話を続けた。「ここから出ていってください」

「君を怖がらせちゃったかな」男は言った。そう言うと、男の子を見下ろし、肘でちょんちょんと相手をつついて、一緒になって笑い出した。

「この人、妹をバラバラにしちゃったんだって」男の子は母親に言った。

「車掌さんを呼んでもいいんですよ」母親は男に言った。

「車掌さんはママを食べちゃうよ」小さな男の子は言った。「ぼくと車掌さんで頭をちょん切っちゃうんだ」

「それから妹の頭もな」と男は言うと立ち上がり、母親は後ろへさがって座席から出ようとする男を通してやった。「もうこの車両にはいらっしゃらないでください」と母親が言った。

「ママがおじさんを食べちゃうんだ」小さな男の子は男に言った。

 男が笑うと男の子も笑い、男は「では失礼」と母親に向かって言うと、そのかたわらをすりぬけて、車両から出ていった。男の背後でドアが閉まってから、小さな男の子は言った。「あとどれぐらいこの古ぼけた汽車に乗ってなきゃいけないの?」

「あともう少しよ」母親は言った。立ったまま小さな男の子を、何か言いたげな面もちで見下ろしていたが、ちょっとしてから言った。「静かにして良い子でいてちょうだい。棒つきキャンディをもう一本あげるから」

 小さな男の子は張り切って座席をすべりおりると、元の席に戻ろうとする母親についていった。母親は棒つきキャンディをハンドバッグのなかから取り出し、男の子にやった。「こういうときなんていうの?」

「どうもありがとう」男の子は言った。「さっきの人、ほんとに妹をバラバラにちょん切っちゃったんだと思う?」

「冗談を言っただけ」母親は言い、ひどく力を込めて繰りかえした。「ただの冗談だったの」

「かもしれない」男の子は言った。棒つきキャンディを持ったまま自分の席に戻ると、また外を見る姿勢になった。「きっとあの人は魔女だったんだ」



The End


(※後日手を入れてサイトにアップします)

【お知らせ】
「鶏的思考的日常vol.28」をアップしました。
これで2008年分が完了です!

またお暇なときにでものぞいてみてください。

http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

シャーリー・ジャクスン「魔女」前編

2009-09-12 22:52:19 | 翻訳
昨日まで訳していた"One Ordinary Day, With Peanuts"(タイトルを昨日までの訳とは変えようと思っています)ですが、「なんとなくよくわからない」という人もいるかもしれません。というか、あれひとつ読むより、ちょうど合わせ鏡みたいな短篇と一緒に読む方がおもしろいような気がするんです。

よくわからない、どこがオチだったんだ、という人にとってはこれが「補助線」になるかもしれない、という、同じシャーリー・ジャクスンの短篇をもうひとつ訳してみることにします。"The Witch" 「魔女」です。日本語では「魔女」ですが、西洋の「魔女」には男もいます。短い短篇なので、今日と明日の二日で訳せるはず。

原文はhttp://jlax.wikispaces.com/file/view/THE+WITCH.doc.で読むことができます。

"The Witch" (「魔女」)



by シャーリー・ジャクスン

【前編】

 車両はがらがらだったので、小さな男の子が座席ひとつぶんをまるまる占領し、母親は通路を隔てた隣の席に腰かけて、男の子の妹を隣りにすわらせていた。妹の方はまだ赤ちゃんで、トーストの切れ端を一方の手に持ち、反対の手にはがらがらを握っている。座席にはベルトでしっかりとくくりつけられていたから、体がぐにゃっと崩れたりしないで周りを見回すこともできたし、少しずつずり落ちたとしても、そのベルトが支えてくれるので、じきに母親が気がついて、赤ん坊をまっすぐにすわり直させることができるのだった。小さな男の子は窓の外を見ながらクッキーを食べているところだ。母親は静かに本を読みながら、男の子がいろいろ聞いてくるのを、顔も上げずに返事をしていた。

「川のとこに来たよ」男の子が言った。「ここは川で、ぼくたち、川の上にいるんだ」

「すてきね」母親は言った。

「ぼくたち、橋を走ってて、その下は川なんだ」男の子は自分に言いきかせるように言った。

 ほかの数人の乗客は、車両の後ろの方におり、誰かがこちらの方にやってくるようなことがあると、小さな男の子はそちらに向き直って、「こんにちは」と声をかけた。言われた方もたいてい「こんにちは」と返し、ときには、汽車に乗るのはおもしろいかい、だの、しっかりした良い子だね、とまで言うのだった。こんなことを言われても男の子にはわずらわしいばかりで、ぷいっと窓の方に顔を背けてしまうのだった。

「牛がいる」男の子はたびたびそんなことを言った。かと思うとため息をつきながら「あとどのくらい?」と聞く。

「もうそんなにかからないわ」そのたびごとに母親はそう言うのだった。

 そのうち、がらがらと母親がひんぱんに取り替えてくれるトーストに夢中になっていて、おとなしかった赤ん坊が、横ざまに倒れかかって頭をぶつけた。わあわあと泣き始め、つかのま、母親がすわっていた席の周囲は、騒々しく、動きもあわただしくなった。小さな男の子も自分の席からすべりおりると、通路を走っていき、妹の足をなでさすりながら、よしよし、泣くんじゃないよ、とあやしてやった。やがて赤ん坊も笑いだし、またトーストに戻ったので、男の子も母親から棒つきキャンデーをもらって窓の席に戻った。

「魔女が見えた」しばらくして男の子は母親に言った。「大きくてすごいおばあさんで、怖い顔の悪ーい年寄りの魔女が外にいたよ」

「すてきね」と母親は答えた。

「大きくてすごいおばあさんで怖い顔の魔女だったから、ぼくは、あっち行け、って言ったんだ。そしたら行っちゃった」小さな男の子は続けたが、それは自分に語って聞かせるような、静かな話し方だった。「魔女はね、こっち来て、言ったんだよ。『おまえを食ってやるからな』って。だからぼくは言った。『いーや、そんなことできないよ』って。それから、追っ払ってやったんだ。悪い、年寄りの、意地悪な魔女なんだ」

 男の子は口をつぐんで顔を上げた。ちょうど車両のドアが開いて、男がやってくるところだった。年かさの男で、にこやかな表情を浮かべ、髪は白くなっている。紺色のスーツは、汽車が出発してからずいぶん経つというのに、いささかの乱れも皺のひとつもない。葉巻を手にしており、小さな男の子が「こんにちは」と声をかけると、葉巻で、やあ、と合図して言った。「やあやあ、坊や、こんにちは」男の子の座席のすぐ横で脚を止めると、背もたれに寄りかかって、小さな男の子を見下ろした。男の子の方は、よく見ようとツルのように首を伸ばして相手を見上げている。「窓の外のいったい何を見ているんだね?」と男は尋ねた。

「魔女だよ」打てば響くように男の子は答えた。「悪い年寄りの意地悪な魔女がたくさん」

「なるほど」男は言った。「たくさん見えたかい?」

「うちのお父さんも葉巻を吸うよ」小さな男の子は言った。

「男はみんな葉巻を吸うものなんだ」男は言った。「坊やだってそのうち葉巻を吸うようになる」

「ぼくはもう男だよ」小さな男の子は言った。

「いくつになる?」

 小さな男の子は、変わりばえのしない質問をしてくる男を、うさんくさげな目でしばらく見ていたがやがて言った。「二十六さい。はちひゃくよんじゅうはちじゅっさい」

 母親が本から顔を上げて言った。「四歳でしょう」そう言いながら、小さな男の子をいとおしげに見やった。

(後半は明日)



シャーリー・ジャクスン「ある晴れた日に、落花生を持って」最終回.

2009-09-11 23:14:03 | 翻訳
最終回

「穀物ですって?」と運転手は聞いた。「馬の名前の話でしょ、たとえば、小麦とかなんとかだっていいんですかね?

「そういうことだ」ミスター・ジョンスンは言った。「実際のところ、もっと話を簡単にすると、CとRとLを含む名前の馬なら何だっていい。単純なことなんだよ」

「トールコーンだったらどうです?」運転手は目を輝かせている。「お客さんが言う馬の名前っていうのは、たとえばトールコーンなんかもそうですよね?」

「すばらしい」ミスター・ジョンスンは言った。「これが君のお金だよ」

「トールコーン」運転手は口に出した。「お客さん、ありがとうございます」

「じゃ、さよなら」ミスター・ジョンスンは言った。

 自分のアパートメントがある一画で降りると、まっすぐ部屋に上がっていった。ドアを開けて中に入り「ただいま」と声をかける。するとミセス・ジョンスンが台所から「お帰りなさい、早かったのね」と応えた。

「タクシーを使ったんだ。チーズケーキのことも思い出してね。晩ご飯は何かね」

ミセス・ジョンスンは台所から出てくると、夫にキスをした。頼もしい感じの女性で、ミスター・ジョンスン同様に、にこやかな表情である。

「今日は大変でした?」

「いや、それほどでもなかった」ミスター・ジョンスンはコートをクロゼットにかけながら答えた。「君の方はどうだったのかい?」

「まあまあ」妻の方は、台所の戸口に立ち、ミスター・ジョンスンはアームチェアに腰かけて、はき心地の良い靴を脱ぐと、今朝買った新聞を取りだした。「あっちでもこっちでも」と彼女は言った。

「ぼくの方は、悪くない一日だった。若いふたりを取り持ってやったし」

「よかったわね。わたしはお昼に少し寝て、一日じゅう、のんびり過ごしてたの。朝のうち、デパートへ行ったんだけど、すぐ横にいた女が万引きをしてたの。だから警備員に言って、つかまえてもらった。犬も三匹、野犬センターに送ったわ。まあいつものことね。そうそう」と急に思い出したらしく、つけ加えた。「それはそうと」

「どうしたんだい?」ミスター・ジョンスンはたずねた。

「あのね、今日、バスに乗ったんだけど、運転手に乗車券ください、って言ったの。そしたらわたしを後回しにして、よその人を先にしようとするものだから、失礼なことをしないで、って言ってやったの。そしたら言い争いになっちゃって。それで、『軍隊に入ったらどう?』って言ってやった。大きな声で言ったから、きっとみんなに聞こえたんだと思うの。それからその人の番号を控えておいて、苦情係りに出したの。きっとクビになるでしょうね」

「結構。だが君、ずいぶん疲れたみたいだが。明日は役を交替してあげようか?」

「そうしてくれるとありがたいわ。きっと気分転換になるはず」

「わかったよ。晩ご飯は何かな」

「子牛のカツレツよ」

「昼に食べたんだがね」とミスター・ジョンスンは言った。


The End



(※後日手を入れてサイトにアップします。お楽しみに)



シャーリー・ジャクスン「ある晴れた日に、落花生を持って」その7.

2009-09-10 23:27:13 | 翻訳
その7.

 昼食をすませてミスター・ジョンスンは休息を取ることにした。そこから近い公園まで歩いていって、鳩に落花生を食べさせてやる。午後も遅くなって、彼は街の中心部まで戻ることにした。それまでチェッカーのレフェリーを二ゲーム務め、小さな男の子と女の子のお母さんが居眠りをしていたので、その子たちの面倒を見てやっていたからである。はっと目をさましてパニックになりかけていた母親だったが、ミスター・ジョンスンを目にすると、おかしそうな顔になった。

キャンディはほとんど人にやってしまったし、落花生の残りも鳩にやった。家に帰る時間だ。午後遅くの日差しもまた心地よく、靴もまだ快適だったが、彼はタクシーに乗って市街地に戻ることにした。

 タクシーを拾うのにひどく苦労してしまう。というのも三台か四台目までは、自分よりもタクシーが必要ならしい人に、空車がくるたびに譲っていたからである。どれでもひとりになって交差点で、ピクピクと跳ねる魚を網で押さえようとでもするかのように、必死で手を振り回していると、やっと一台、タクシーをつかまえることができた。そのタクシーは住宅街に向かって急いでいたのだが、その意志に反してミスター・ジョンスンの方に引き寄せられたらしい。

「お客さん」タクシーの運転手は、乗り込んできたミスター・ジョンスンに言った。「お客さんは前触れなんだって気がしたんですよ。最初はお乗せする予定じゃなかったんですけどね」

「それはご親切にありがとう」ミスター・ジョンスンはよくわからないままにそう答えた。

「もしお客さんの前を通り過ぎてたら、あたしは十ドルをすってたかもしれません」と運転手は言った。

「そうなのかい?」

「ええ。さっきお乗せしたお客さんがね、降りしなに十ドルくだすってね。それを急いでヴァルカンっていう名前の馬に賭けろ、っておっしゃったんです。いますぐに」

「ヴァルカンだって?」ミスター・ジョンスンは仰天して言った。「水曜日に火の象徴(※ヴァルカンは古代ローマの火と鍛冶の神)だって?」

「何ですって? ともかくあたしは自分で決めたんです。もしここから向こうのあいだでお客さんがひとりもいなかったら、その十ドルを賭けてみようって。だけど、もしタクシーを捜してる人に出くわしたなら、その前触れってことで、家に持って帰ってかみさんにやろうじゃないか、ってね」

「君はまったく正しかったよ」ミスター・ジョンスンは心からそう言った。「今日は水曜にだからね、君が賭けてたら、お金はもうなくなってしまっただろうね。月曜日ならかまわない。たぶん土曜日でも大丈夫だろう。だが、絶対に絶対にぜーったいに、水曜日に火の象徴はダメだ。日曜日なら良かったんだが、今日はダメだ」

「ヴァルカンは日曜には走らないんです」とタクシー運転手は言った。

「じゃあそのつぎの時まで待った方がいい。そうそう、この通りを入ってもらいたいんだよ。つぎの交差点のところで降りるから」

「でも、前のお客さんはヴァルカンっておっしゃったんですけどね」

「こうしよう」ミスター・ジョンスンはタクシーの半開きにしたドアに手をかけたまま、ためらいがちに言った。「十ドルはふところに入れとけばいいさ。それとは別に、ぼくからも十ドルあげよう。で、それを持って賭けに行けばいい。木曜日なら、そうだな……木曜日……そうだ、穀物に関連した名前を持っている馬だな。穀物ばかりじゃない、食べ物のうち、何であれ大きくなるものだ。」

「穀物ですって?」と運転手は聞いた。「馬の名前の話でしょ、たとえば、小麦とかなんとかだっていいんですかね?

「そりゃもちろん」とミスター・ジョンスンは請け合った。「ほら、これが君の取り分だ」

(すいません、今日最後までいかなかった。あとは明日)

シャーリー・ジャクスン「ある晴れた日に、落花生を持って」その6.

2009-09-09 22:49:32 | 翻訳
その6.

 ミスター・ジョンスンが行きかけたところで、あっけにとられて相手の顔を穴の空くほど見ていたアーサー・アダムズは急に我に返った。
「いや、ちょっと、待ってくださいよ、こんなことをしちゃいけません。だって――どうやってわかるっていうんです――ぼくらがこのお金を、おっしゃったようなことに使わないかもしれないじゃないですか」

「君たちはぼくの金を受けとってくれましたよね」ミスター・ジョンスンは言った。「別にぼくの言ったことなんて聞かなくてもいいんですよ。もっと楽しいことを思いつくかもしれないんだし――たとえば美術館に行ってもいいし、どこだってかまわない」

「だけど、オレがこの人をここへほっぽらかして、金を持ったままトンズラしたとしたら?」

「君はそんなことはしない」ミスター・ジョンスンは落ち着いていた。「だってそんなことをぼくに聞くぐらいなんだから。では失礼」彼はそう言い置いて、歩いていった。

 顔に日差しを浴び、履き心地の良い靴を履いて、通りを歩くミスター・ジョンスンの耳元に、どこか後ろの方から若い男の話す声が聞こえてくる。「まあ、君がその気になれなきゃ別にどうしても、ってわけじゃないんだぜ」

娘が答えている。「でも、あなたがいやじゃないんだったら……」

 ミスター・ジョンスンはひとりにんまりし、少し急いだ方がいいな、と考えた。ひとたびそうしようと思えば、たいそう早く歩くこともできるので、娘がなんとか「ええ、もしあなたがそうしたいんだったらいいわよ」と言い出すころには、ミスター・ジョンスンは数区画先まで進み、すでに二度も歩を止めていた。一度は大きな荷物をいくつもタクシーに運び込もうとしている女性を手伝うために、そうして二度目はカモメに落花生をひとつ食べさせてやるために。

いまは大きな店が軒を並べ、さらに大勢の人が足繁く行き交う場所にやってきていた。両側から、先を急ぐ人が絶えずぶつかってくるのだが、みんなむずかしい、遅れて機嫌の悪そうな表情を浮かべている。十セントをねだる男に落花生をひとつやり、つぎに交差点でバスを停めて、運転席の窓を開け、まるで新鮮な空気と少しでも静かな往来が恋しいとでもいうように、頭を突き出していた運転手にもやった。十セントくれないか、と言っていた男が落花生を受けとったのは、ミスター・ジョンスンが一ドル札にくるんで渡したからだったが、バスの運転手の方は落花生をもらって「おっさん、これで乗ろうってのかい」と憎まれ口を叩いた。

 人でにぎわう交差点で、ミスター・ジョンスンは若いふたりづれに会った。一瞬、ミルドレッド・ケントとアーサー・アダムズではないか、と思ったほどだが、そのふたりは行き交う人波を避けるために、背中を店先にぴったり押しつけて、熱心に新聞をのぞきこんでいた。なにしろミスター・ジョンスンは汲めどもつきぬ好奇心のもちぬしであったから、ふたりの横で同じように店に背をもたせかけ、男の肩越しに新聞をのぞきこんだ。ふたりが見ていたのは空き部屋情報だった。

 そういえばお母さんと小さな男の子がヴァーモントに引っ越した部屋があの通りにあったな、と思い出したミスター・ジョンスンは、男の肩を軽く叩いて、にこやかに声をかけた。「西十七丁目へ行ってみてごらんなさい。区画の真ん中あたりに、今朝引っ越しがありましたよ」

「いまなんておっしゃいました?」男はそう言いながら、ミスター・ジョンスンをまじまじと見た。「どうもありがとう。どこだっておっしゃいましたっけ」

「西十七丁目です。区画の真ん中あたりです」もう一度笑顔を見せて、言い添えた。「うまくゆくといいですな」

「どうもありがとう」男は言った。

「ほんとにありがとうございます」娘も言いながら、ふたりは歩いていった。

「じゃ、さよなら」ミスター・ジョンスンは言った。

 気持ちの良いレストランで、彼はひとりで昼食を取った。なかなか豪華な料理で、しかもデザートにホイップクリームつきのラム酒入りチョコレートケーキを二皿も平らげるというのは、ミスター・ジョンスンほどのすばらしい消化能力にして初めて可能といえよう。さらにコーヒーを三杯飲み、ウェイターにたっぷりとチップをはずみ、また日差しの心地よい通りへ、心地よい靴と軽い足取りで出ていった。外では物乞いをする男が、出てきたばかりのレストランの窓から中をのぞきこんでいる。ポケットの金を慎重に確かめてから、ミスター・ジョンスンはその男のところまで行くと、数枚の硬貨と二、三枚の紙幣を手に押し込んだ。「子牛のカツレツとチップ代の分だ。じゃ、さよなら」


(明日最終回)



シャーリー・ジャクスン「ある晴れた日に、落花生を持って」その5.

2009-09-08 22:55:03 | 翻訳
その5.

「不思議なことは? びっくりするようなことはどうだい。ありきたりじゃない、ワクワクするような出来事はどうだね」

「あんた、何か売ろうとでも言うのかい」

「そういうことだ」ミスター・ジョンスンは言った。「ひとつ乗ってみないか」

 若い男は迷っていたが、行き先と思われる通りの向こうを恨めしそうな目で見やったとき、ミスター・ジョンスンが言った。「ぼくがその時間分の給料を払ってあげよう」独特の、説得力のある口調に、彼も振り返ると言った。「よし、じゃ決まりだ。だけどオレが何を売りつけられるのか、最初に見ておかなくちゃな」

 ミスター・ジョンスンは息を弾ませながら、若い男を歩道端に引っ張っていく。そこにはさっきの娘が立っていた。娘はミスター・ジョンスンが若い男をつかまえるのをおもしろそうに見ていたのだが、いまやおずおずとした笑みを浮かべ、ミスター・ジョンスンを、もうびっくりするようなことにはすっかり慣れちゃったわ、という目で見やった。

 ミスター・ジョンスンはポケットに手を延ばして財布を取りだした。「さて」彼は言うと、紙幣を一枚娘に渡した。「これで君の日給は埋め合わせがつくね」

「だけど、ダメよ」驚いた娘は思わずそう言った。「あのね、わたしが言ったのはそんなことじゃなかったの」

「どうか最後まで聞いてください」ミスター・ジョンスンは娘に言った。「それからこれを」と、若い男に向かって言う。「こっちはあなたの分」

若い男はあっけにとられた表情で札を受けとったが「たぶん偽札だな」と口の端で娘にささやいた。

「さて」ミスター・ジョンスンは若い男の言うことなどものともせずに続けた。「お嬢さんは何とおっしゃいます」

「ケントです」問われるまま、娘は答えた。「ミルドレッド・ケント」

「結構」ミスター・ジョンスンは言った。「では、君は?」

「アーサー・アダムズ」若い男は仏頂面で答えた。

「すばらしい」ミスター・ジョンスンは言った。「では、ミス・ケント、あなたにアダムズ君を紹介しますよ。アダムズ君、こちらはミス・ケント」

 ミス・ケントはびっくりして目を見張り、神経質そうに唇を舌で示し、いまにも逃げ出しそうな構えになりながら言った。「初めまして」

ミスター・アダムズは肩をそびやかし、険しい表情でミスター・ジョンスンをにらむと、いつでも走り出せそうな構えになりながら、「初めまして」と言った。

「ではこれを」ミスター・ジョンスンは財布から札を何枚か抜いて言った。「おふたりで一日を過ごすには、これだけあれば足りるでしょう。アドヴァイスをさせていただけるなら、コニー・アイランドでも行かれてはどうでしょうかな。いや、ぼくなどはあんなところは別に好きなわけじゃないんだが。そうでなければどこかでステキな昼食を取るとか、ダンスやマチネー、ことによったら映画でもいいかもしれない。ただ映画なら、慎重に、いい映画を見つけてくださいよ。今日びはひどい映画が多いから。それとも」急に良い考えが湧いてきたとでもいうように言った。「ブロンクス動物園へお行きなさい。そうでなきゃプラネタリウム。いや、実際のところ」彼は結論を出した。「おふたりが行きたい場所へ行けばよろしい。ともかく、楽しんでいらっしゃい」


(この項つづく)


シャーリー・ジャクスン「ある晴れた日に、落花生を持って」その4.

2009-09-07 22:58:53 | 翻訳
その4.

「引かれた分はぼくがお支払いしますよ」ミスター・ジョンスンは言った。すると、その言葉は魔法の呪文のように働いた。かならずしもそれが真実であるとわかったからでも、彼女の側が真剣に期待したからというわけではない。ミスター・ジョンスンの無粋な言葉も、彼の口から発せられると、どう考えても皮肉な調子とは無縁で、責任があり、信頼がおけ、耳を傾けるべき発言のように聞こえてくるのだった。

「どういうことですか」彼女は尋ねた。

「つまり、どう考えてもあなたの遅刻はぼくの責任だから、その埋め合わせはしなきゃならないでしょう?」

「変なことをおっしゃらないで」そう言うと、彼女の顔は初めてしかめっつらではなくなった。「あなたに何か弁償していただこうなんて夢にも思ってません。さっき、わたしの方が迷惑料をお支払いするって言ったばかりじゃありませんか。ともかく」言葉を継いだ彼女の顔は、笑顔といってもよいものだった。「わたしが悪かったんです」

「もしお仕事に行かなかったら、いったいどうなりますか?」

彼女は目を見張った。「お給料がもらえなくなるじゃありませんか」

「それは仰せのとおりだ」

「仰せのとおり、ってどういうことですか? 二十分前に会社に顔を出していなきゃ、わたし、一時間につき一ドル二十セント引かれるんです。つまり、一分につき二セント、ってことは」少し考えてから言葉を続けた「だいたい十セント分、あなたとお話していたことになりますね」

ミスター・ジョンスンが声を上げて笑ったので、とうとう彼女も一緒になって笑い出した。「もう遅刻してしまってるんですね」と確かめた。「じゃあもう四セント分、ぼくに時間をくださいませんか?」

「どうしてですか」

「じき、わかります」ミスター・ジョンスンは請け合った。彼女を歩道の端からビルのすぐそばまで引っ張っていく。「ここに立っていて」それから忙しく行き交う人波のなかに飛び込んでいった。一生のかかった選択をしなければならない人のように、通る人びとを見定め、熟慮を重ねて白羽の矢を立てようとしていた。一度、動きそうになったが、結局思い返し、引き下がる。とうとう半区画ほど向こうに、求めていた人物が現れた。流れの真ん中に立ちふさがり、若い男を引き留めた。急いでいて、寝過ごしたかのような身づくろい、しかめっつら。

「おっと」若い男がそう言ったのは、ミスター・ジョンスンが相手を引き留めようにも、さっきの娘がうっかり自分に対して取った方法しか思いつかなかったからである。

「どこへ行くつもりなんだ」歩道に倒れた若い男は食ってかかった。

「君に話したいことがあるんだ」とミスター・ジョンスンは思わせぶりに言った。

 若い男は神経質そうに立ちあがると、埃を払いながらミスター・ジョンスンをにらみつけた。「何だ? オレが何かしたか?」

「あれが今日びの人間のいちばん厄介なところだね」ミスター・ジョンスンは、おおっぴらに行き交う人びとの悪口を言った。「何をしてるんだかしてないんだか知らないが、連中はいつだって誰かに追い立てられているような気でいるらしい。自分がいったい何をするつもりなんだかね」そう若い男に向かって話しかける。

「あのな」若い男は、なんとかミスター・ジョンスンを振り払おうとして言った。「遅れてるんだ。話を聞いてるような暇はないんだ。ここに十セントある。やるから、消えてくれ」

「どうもありがとう」ミスター・ジョンスンはそう言って、十セントをポケットに入れた。「おうかがいするが、君は走るのをやめたら、一体どうなってしまうんだね?」

「遅刻するんだよ」若い男はそう言うと、なんとかかわそうとしたが、驚いたことに相手はまとわりついてくる。

「君は一時間いくら稼いでるんだ」ミスター・ジョンスンはたずねた。

「あんた、共産党かい?」と若い男は言った。「さあ、頼むよ、行かせてくれないか」

「断る」ミスター・ジョンスンはにべもなく言った。「いくらだ」

「一ドル五十。これで気が済んだか?」

「冒険は好きかね?」

 若い男はあっけにとられたような顔になった。まじまじと見ながら、ミスター・ジョンスンの人好きのする笑顔にからめとられていた。すんでのところで笑みを返しそうになり、ぐっとこらえて、身をふりほどこうとした。「急がなきゃ」

(この項つづく)