似たような話を続けるが、自殺しようとする子供といって思い出すのは、ジュール・ルナールの『にんじん』である。
いまも『にんじん』は子供向けの全集などに所収されているんだろうか。
『にんじん』というと、「赤毛でそばかすだらけのお母さんから「にんじん」と呼ばれている男の子の物語」と思うのは、読んだことのない人だけだ。確かにそうにはちがいないのだが、そんなことは要約にもなんにもなっていない。
わたしは小学生のときにちょっと読んで、すぐに気持ち悪くなり、最後まで読んだのはおとなになってからだった。読んでしばらく、出口のないような気分になったものだったが、未だにどう読んで良いのかよくわからないところがある。
とにかく、上のふたりの子供を偏愛する母親が、にんじんをすさまじく虐めるのである。たとえばにんじんがおねしょをしたシーツをスプーンでこそげて、それをスープに混ぜて、スプーンをにんじんの口につっこんで、はきだせないよう喉の奥にたらす。そうしてそれを兄と姉にも見せて、一緒に笑う、そんなエピソードがつぎからつぎへと出てくるのだ。
そうしてまたにんじんという子も、しゃこの頭を靴でふみつぶし、もぐらを縊死にたたきつけ、猫の額を銃で撃つ。母親の顔色をうかがい、だまし、なんとか裏をかこうとする。この子がこんなふうになったのも親が悪いからだ、とか、子供というのは残酷なものだ、などとわかったような口をたたこうにも、そうした決まり文句をすりぬけるような、一種の過剰なものがある。その意味で名作なのだろうけれど、子供向けの本ではないような気がする。
さて、このにんじんは、少なくとも三度、自殺を図っている。
一度目は
これはまだ遊びの延長のようなものだ。だが二度目に語られる自殺は、はるかにこれよりシリアスである。
「また」と言っているところを見ると、それ以前にも首を吊ろうと思ったにちがいない。だから、少なくとも三度なのである。
この『にんじん』の過酷な情況にくらべると、昨日あげたフィリップの「アリス」は、ずいぶん恵まれている。だが、ともに愛されていないことをふたりは知っている。アリスの場合は、自分が望むほど、という注釈がつくのだが。
弟がまだ母におぶわれているころのことだ。まだうまく回らない舌で、毎日毎日、「ぼくが、うまれたときは?」と聞いていた。母に対して何度も自分が産まれたときがどうだったか、聞くのである。そうして、その話のなかで、たとえば母が「その日は金曜日で」であるとか、「朝の十一時」だとかのディテールがたったひとつでも欠けるようなことがあれば、自分から「あさだった?」と聞いて、その部分を母の口から言わせる。いつもいつも完璧に同じ話でなければ気が済まないのだった。
わたしはそれを横で聞きながら、おなじ事ばっかり何で聞くのだろう、と不思議でならなかったのだが、いま思うに、そうやって「自分の始まり」を確認していたのだろう。
自分で自分の始まりがわからないというのは、確かに不安なものではないか。
わたしたちはしばしば「これはいつから始まったのだろう」と振り返って確かめないではいられない。いつのまにかある集団に属していて、いつのまにかみんなと顔見知りになっているようなときでも、「いまうまくやっているのだからそれでいいじゃないか」とはなかなか思えない。始まりが定かでないと、「いま自分が確かにここにいる」ということすらも揺らぐように思えるのではあるまいか。
そうして「自分の始まり」を確かめるということは、同時に、自分が望まれて生まれてきたことの確認でもある。弟がしつこく要求した話のなかにも、父が何を言い、母が何を言い、姉が何を言ったかが含まれていた。自分はその始まりから愛されていたこと、世界の中心として生まれてきたのだということを、何度でも周囲の口から聞くことで確認したかったにちがいない。
にんじんにはこの確信を持つことはできなかった。アリスもまた、世界の中心の座を小さな弟に奪われることで、確信を失ってしまった。
大人になれば、「一番」以外の関係がありうることも理解できる。時間の流れのなかで、関係が深まったり、遠ざかったり、優先順位が変わっていったりすることも理解できる。つまり、言葉を知ることで、世界の切り分け方が多面的・重層的になっていくのだ。
子供は大人より単純なわけではない。だが、ほんの少しのボキャブラリしか持たない。そのために子供の世界は、混沌を余儀なくされる。「知っていること」と「知っていること」を結びつけた結果、大人には予想もつかない結論を出すことになる。
子供の自殺というのは衝撃的で、大々的に取り上げられることが多いけれど、もしかしたら子供の自殺というのは、あれぐらいですんでいるのが不思議なくらいのことなのかもしれない。
いまも『にんじん』は子供向けの全集などに所収されているんだろうか。
『にんじん』というと、「赤毛でそばかすだらけのお母さんから「にんじん」と呼ばれている男の子の物語」と思うのは、読んだことのない人だけだ。確かにそうにはちがいないのだが、そんなことは要約にもなんにもなっていない。
わたしは小学生のときにちょっと読んで、すぐに気持ち悪くなり、最後まで読んだのはおとなになってからだった。読んでしばらく、出口のないような気分になったものだったが、未だにどう読んで良いのかよくわからないところがある。
とにかく、上のふたりの子供を偏愛する母親が、にんじんをすさまじく虐めるのである。たとえばにんじんがおねしょをしたシーツをスプーンでこそげて、それをスープに混ぜて、スプーンをにんじんの口につっこんで、はきだせないよう喉の奥にたらす。そうしてそれを兄と姉にも見せて、一緒に笑う、そんなエピソードがつぎからつぎへと出てくるのだ。
そうしてまたにんじんという子も、しゃこの頭を靴でふみつぶし、もぐらを縊死にたたきつけ、猫の額を銃で撃つ。母親の顔色をうかがい、だまし、なんとか裏をかこうとする。この子がこんなふうになったのも親が悪いからだ、とか、子供というのは残酷なものだ、などとわかったような口をたたこうにも、そうした決まり文句をすりぬけるような、一種の過剰なものがある。その意味で名作なのだろうけれど、子供向けの本ではないような気がする。
さて、このにんじんは、少なくとも三度、自殺を図っている。
一度目は
事実、にんじんは、水をいれたバケツで自殺を企てる。彼は、勇敢に、鼻と口とを、その中へじっと突っ込んでいるのである。その時、ぴしゃりと、どこからか手が飛んできて、バケツが靴の上へひっくり返る。それで、にんじんは、命を取り止めた。(ジュール・ルナール『にんじん』岸田 国士訳 岩波文庫)
これはまだ遊びの延長のようなものだ。だが二度目に語られる自殺は、はるかにこれよりシリアスである。
にんじん――「そんなら、もし僕が、自殺しようとしたことがあるっていったら、どうなの?
ルピック氏――おどかすな、やい。
にんじん――嘘じゃないよ。父さん、昨日だって、また、僕あ、首を吊ろうと思ったんだぜ。
「また」と言っているところを見ると、それ以前にも首を吊ろうと思ったにちがいない。だから、少なくとも三度なのである。
この『にんじん』の過酷な情況にくらべると、昨日あげたフィリップの「アリス」は、ずいぶん恵まれている。だが、ともに愛されていないことをふたりは知っている。アリスの場合は、自分が望むほど、という注釈がつくのだが。
弟がまだ母におぶわれているころのことだ。まだうまく回らない舌で、毎日毎日、「ぼくが、うまれたときは?」と聞いていた。母に対して何度も自分が産まれたときがどうだったか、聞くのである。そうして、その話のなかで、たとえば母が「その日は金曜日で」であるとか、「朝の十一時」だとかのディテールがたったひとつでも欠けるようなことがあれば、自分から「あさだった?」と聞いて、その部分を母の口から言わせる。いつもいつも完璧に同じ話でなければ気が済まないのだった。
わたしはそれを横で聞きながら、おなじ事ばっかり何で聞くのだろう、と不思議でならなかったのだが、いま思うに、そうやって「自分の始まり」を確認していたのだろう。
自分で自分の始まりがわからないというのは、確かに不安なものではないか。
わたしたちはしばしば「これはいつから始まったのだろう」と振り返って確かめないではいられない。いつのまにかある集団に属していて、いつのまにかみんなと顔見知りになっているようなときでも、「いまうまくやっているのだからそれでいいじゃないか」とはなかなか思えない。始まりが定かでないと、「いま自分が確かにここにいる」ということすらも揺らぐように思えるのではあるまいか。
そうして「自分の始まり」を確かめるということは、同時に、自分が望まれて生まれてきたことの確認でもある。弟がしつこく要求した話のなかにも、父が何を言い、母が何を言い、姉が何を言ったかが含まれていた。自分はその始まりから愛されていたこと、世界の中心として生まれてきたのだということを、何度でも周囲の口から聞くことで確認したかったにちがいない。
にんじんにはこの確信を持つことはできなかった。アリスもまた、世界の中心の座を小さな弟に奪われることで、確信を失ってしまった。
大人になれば、「一番」以外の関係がありうることも理解できる。時間の流れのなかで、関係が深まったり、遠ざかったり、優先順位が変わっていったりすることも理解できる。つまり、言葉を知ることで、世界の切り分け方が多面的・重層的になっていくのだ。
子供は大人より単純なわけではない。だが、ほんの少しのボキャブラリしか持たない。そのために子供の世界は、混沌を余儀なくされる。「知っていること」と「知っていること」を結びつけた結果、大人には予想もつかない結論を出すことになる。
子供の自殺というのは衝撃的で、大々的に取り上げられることが多いけれど、もしかしたら子供の自殺というのは、あれぐらいですんでいるのが不思議なくらいのことなのかもしれない。