とあるところで「なんでも損得勘定で判断して、いったい何が悪いのか」といっている人の話を聞いた。それに対して出された意見というのは、おおむね賛同するものばかり。なかには「それがものごとを客観的に見るという態度だ」という意見まで出てきて、やれやれと思ったのだった。
まあ意見というのはそうしたもので、「損得勘定で判断してはいけない」という人に対しては、そのとおりだ、という意見が表明されるのだろう。
ただ、わたしが不思議に思ったのは、その話をしていた人も賛同した人も、「損得勘定で判断する」のはあくまでも自分で、自分がその判断の対象になる可能性については、それこそまったく「勘定」に入れていないことである。
「損得勘定で判断することはまちがっていない」というなら、恋人から「もうあなたとはつきあうのをやめる、あなたと恋人でいるよりずっと得になるAさんと最近知り合ったから」という理由でふられても、決して文句は言えないことになる。結婚していたって油断はならない。「わたしはあなたといることに何のメリットも感じられない」といって、ある日突然奥さんから離婚を迫られるかもしれないし、女性だって「君より若い女の子と生活したいんだ。その方がぼくにとってずっと得るものが大きいから」と言われるかもしれない。学校だって成績は低空飛行、運動部で活躍できるわけでもない、そんな状態が続けば「君の存在は我が校にとって何の利益にもならない。君は退学だ」と退学処分になるかもしれないし、病院へ行ったって「社会的地位もない、国に税金をたくさん納めているわけでもない、IQが高いわけでもない、肉体的に優れているわけでもないあなたを治療するメリットはない」と言われたら、十分な治療さえ受けられなくなってしまう。
自分のあらゆる能力が数値化され、たえず誰かと比較され、自分の方が劣っていたら容赦なく切り捨てられるのだ。確かに「客観的」といえば「客観的」(その昔、マークシート方式のテストを「客観テスト」と呼んでいた時代があったが、それと同じ使い方での「客観的」である)だが、そんなことになってもみんなそれでいいと言えるのだろうか。
もちろんあなたが並はずれて優秀で、収入・財産も豊かで、美しく、誰の手も煩わせず、事故や災害にも遭わず、ついでに歳まで取らないのでいれば、あなたは誰にとっても「利益」のある人であり続けることができるから、「損得勘定」がこの社会での唯一の判断基準であってまったく問題はないだろう。だが、そうでないのなら、「損得勘定」の「損」にカウントされるケースはかならず出てくる。
「あなたはわたし(あるいは家族/我が校/我が社/我が国/……)にとって、何のメリットもない人だから」
という言い分を肯定できる人だけしか「何でも損得勘定で判断する」ことを肯定しちゃいけないと思うのだけれど、これはおかしな言い分なんだろうか。自分はそうするけれど、周囲が自分に対してそうするのは認められない、なんていうのは、あまりに子供っぽい、視野の狭い考え方ではあるまいか。
もちろんその「損得勘定」がベースになる関係というのはある。
たとえば店へ行って買い物をする場合だ。店の人と相対するわたしたちは、あくまでも客である。客であるわたしたちは、少しでも「得」になるように、店を比較したりバーゲンの期間をねらったりする。一方店の側も「得」になるように、レイアウトを工夫したり、さまざまなサービスをつけたりする。
けれども、その消費行動においてさえも、単純な「損得勘定」がすべてを決めるわけではない。ただ「安い」という理由からだけでなく、お気に入りの店というのはできてくるだろうし、そこで買い物を楽しむようになれば、仮に多少自分が「損」をすることになっても、その店が「得」になるような行動を採るかもしれない。
むしろ「損得勘定」をむきだしにするような客や店は、双方からきらわれることになってしまうだろう。たとえ消費行動のような場面でさえも「損得勘定」がたったひとつの基準ではないのだ。
現実にわたしたちが誰かと関わろうとすると、かならず「損得勘定」以外の要素が関連してくる。そうした部分を排除しようとすると、結局誰とも関わることができなくなってしまうのだ。
だとすれば、どうして「損得勘定」「メリット・デメリット」でわたしたちは判断しようとするのか。むしろ、それは人と関わるまいとして、そういう理由を持ち出しているのではあるまいか。
このことは明日ももう少し考えてみたい。
まあ意見というのはそうしたもので、「損得勘定で判断してはいけない」という人に対しては、そのとおりだ、という意見が表明されるのだろう。
ただ、わたしが不思議に思ったのは、その話をしていた人も賛同した人も、「損得勘定で判断する」のはあくまでも自分で、自分がその判断の対象になる可能性については、それこそまったく「勘定」に入れていないことである。
「損得勘定で判断することはまちがっていない」というなら、恋人から「もうあなたとはつきあうのをやめる、あなたと恋人でいるよりずっと得になるAさんと最近知り合ったから」という理由でふられても、決して文句は言えないことになる。結婚していたって油断はならない。「わたしはあなたといることに何のメリットも感じられない」といって、ある日突然奥さんから離婚を迫られるかもしれないし、女性だって「君より若い女の子と生活したいんだ。その方がぼくにとってずっと得るものが大きいから」と言われるかもしれない。学校だって成績は低空飛行、運動部で活躍できるわけでもない、そんな状態が続けば「君の存在は我が校にとって何の利益にもならない。君は退学だ」と退学処分になるかもしれないし、病院へ行ったって「社会的地位もない、国に税金をたくさん納めているわけでもない、IQが高いわけでもない、肉体的に優れているわけでもないあなたを治療するメリットはない」と言われたら、十分な治療さえ受けられなくなってしまう。
自分のあらゆる能力が数値化され、たえず誰かと比較され、自分の方が劣っていたら容赦なく切り捨てられるのだ。確かに「客観的」といえば「客観的」(その昔、マークシート方式のテストを「客観テスト」と呼んでいた時代があったが、それと同じ使い方での「客観的」である)だが、そんなことになってもみんなそれでいいと言えるのだろうか。
もちろんあなたが並はずれて優秀で、収入・財産も豊かで、美しく、誰の手も煩わせず、事故や災害にも遭わず、ついでに歳まで取らないのでいれば、あなたは誰にとっても「利益」のある人であり続けることができるから、「損得勘定」がこの社会での唯一の判断基準であってまったく問題はないだろう。だが、そうでないのなら、「損得勘定」の「損」にカウントされるケースはかならず出てくる。
「あなたはわたし(あるいは家族/我が校/我が社/我が国/……)にとって、何のメリットもない人だから」
という言い分を肯定できる人だけしか「何でも損得勘定で判断する」ことを肯定しちゃいけないと思うのだけれど、これはおかしな言い分なんだろうか。自分はそうするけれど、周囲が自分に対してそうするのは認められない、なんていうのは、あまりに子供っぽい、視野の狭い考え方ではあるまいか。
もちろんその「損得勘定」がベースになる関係というのはある。
たとえば店へ行って買い物をする場合だ。店の人と相対するわたしたちは、あくまでも客である。客であるわたしたちは、少しでも「得」になるように、店を比較したりバーゲンの期間をねらったりする。一方店の側も「得」になるように、レイアウトを工夫したり、さまざまなサービスをつけたりする。
けれども、その消費行動においてさえも、単純な「損得勘定」がすべてを決めるわけではない。ただ「安い」という理由からだけでなく、お気に入りの店というのはできてくるだろうし、そこで買い物を楽しむようになれば、仮に多少自分が「損」をすることになっても、その店が「得」になるような行動を採るかもしれない。
むしろ「損得勘定」をむきだしにするような客や店は、双方からきらわれることになってしまうだろう。たとえ消費行動のような場面でさえも「損得勘定」がたったひとつの基準ではないのだ。
現実にわたしたちが誰かと関わろうとすると、かならず「損得勘定」以外の要素が関連してくる。そうした部分を排除しようとすると、結局誰とも関わることができなくなってしまうのだ。
だとすれば、どうして「損得勘定」「メリット・デメリット」でわたしたちは判断しようとするのか。むしろ、それは人と関わるまいとして、そういう理由を持ち出しているのではあるまいか。
このことは明日ももう少し考えてみたい。
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