陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

My Little Town

2008-12-24 23:19:18 | weblog
My Little Town


日付のある歌詞カード
 Simon & Garfunkel "My Little Town"

~ Anywhere But Here (ここではないどこかへ)~

いまでこそ大概のときニコニコしていて、いつも愛想がいい、と近所でも評判の(含嘘)わたしだが、中学から高校にかけては、毎日がいらだたしくてたまらず、不安と鬱屈のなかに閉じこめられていた。周りがバカに見えて、そんなに何も知らないのに、なんで平気でのうのうと生きていられるのだろうと腹を立てたかと思えば、つぎの瞬間には、逆に、自分ひとりが何も知らない、何もできないことに気がついて、自分は一生、このまま何もできなかったらどうしよう、と焦るばかり。どうにも未熟な自分を持て余す日々だった。

はっきりいってそんな時期にサイモン&ガーファンクルなどではないのである。クラスには「サイモン&ガーファンクルが好き」と言っている女の子もいたけれど、あんなものは所詮オンナコドモの聴くもの(わたしはそのオンナコドモだったのだが)、体の芯にダイレクトに響くベースラインと、空気を切り裂くギター・ソロのないような曲は、音楽ではないと思っていた。

その頃、学校の音楽の教科書には、ビートルズの《オブラディ・オブラダ》とサイモン&ガーファンクルの《サウンド・オブ・サイレンス》が載っていたような気がする。実際に授業でやったわけではないが、イタリア歌曲の譜面や、ブラームスの交響曲の鑑賞のページのあいだにある、ハイフンでつないだ英単語が音符ごとについている、メロディラインだけのアホらしくなるほど単純な譜面は、実際にその曲の持っていた魅力を、ほんの少しも伝えなかった。教科書にビートルズを載せるなんて、もしかするとそれはビートルズやS&Gを聴かせまいとする陰謀ではあるまいか、と思ったものだ。

気がつけばそこにあったような音楽、たまに「ああ、いいな」と思うことがなくはなかったが、自分からもっと聴いてみようというほどではない。だからサイモン&ガーファンクルも、知っている曲はたくさんあったが、これはもしかしてすごくない? と初めて思ったのは、映画《あのころペニー・レインと》のなかで《アメリカ》を聴いたときが初めてだった。聴きやすい、一見単純なメロディラインなのだが、ところどころで予想をくつがえす意外なコード進行に気がついたのは、最初に耳にしてから20年近くが過ぎていた。

* * *


My Little Town(ぼくのちっぽけな町)

In my little town
I grew up believing
God keeps his eye on us all
And he used to lean upon me
As I pledged allegiance to the wall
Lord I recall
My little town

 ちっぽけな町で
 ぼくはこう信じて大きくなった
 神様はいつだってみんなのことを何もかも見ているんだと
 だからぼくはよく のしかかられているみたいに感じたものだった
 壁に向かって忠誠を誓うたびにね
 やれやれ いまだに浮かんでくるよ
 あのちっぽけな町のことが

Coming home after school
Flying my bike past the gates
Of the factories
My mom doing the laundry
Hanging our shirts
In the dirty breeze

 学校が退けて帰ってきたら
 自転車に飛び乗って
 続いていく工場の門の群れを走り抜けていく
 母さんは洗濯をしていて
 ぼくたちのシャツを干していた
 薄汚れた風のなかで

And after it rains
There's a rainbow
And all of the colors are black
It's not that the colors aren't there
It's just imagination they lack
Everything's the same
Back in my little town

 雨があがったら
 虹が出る
 だけど色は全部黒だった
 色がなかったってわけじゃない
 なかったのはたぶん想像力の方だ
 何もかもが同じだったから
 あのちっぽけな町では

Nothing but the dead and dying
Back in my little town
Nothing but the dead and dying
Back in my little town

 死んだやつと死にそうなやつしかいなかった
 あのちっぽけな町では
 死んだやつと死にそうなやつしかいなかった
 ぼくのちっぽけな町には

In my little town
I never meant nothin'
I was just my fathers son
Saving my money
Dreaming of glory
Twitching like a finger
On the trigger of a gun

 あのちっぽけな町だと
 ぼくは何者でもなかった
 ただオヤジの息子ってだけ
 小遣いを貯めて
 栄光を夢見て
 銃の弾き金かけた指みたいに
 がたがたふるえていた

Leaving nothing but the dead and dying
Back in my little town

 死んだやつと死にそうなやつを残して出ていくんだ
 ぼくのちっぽけな町を

Nothing but the dead and dying
Back in my little town
Nothing but the dead and dying
Back in my little town

 死んだやつと死にそうなやつしかいなかった
 あのちっぽけな町では
 死んだやつと死にそうなやつしかいなかった
 ぼくのちっぽけな町には


* * *

たとえ工場が煙突を連ねるような町に育たなくても、この歌にはだれもが自分の一時期を多少とも見る思いをしないではいられないようなところがある。

虹が真っ黒、というのは、ゾッとするようなイメージだが、自分のあの時期を振り返っても、何か目にするものすべてがモノトーンだったような、自分がひどくくすんだ、薄暗い、殺伐とした世界のなかにいたような気がして、「なにもかもが同じだったから」虹も同じ色に見えたという歌詞はよくわかる。

だがこの歌は、単に暗かったり殺伐としているだけではない。死のイメージに貫かれている。虹の黒は、工場町のすすけた空気を指すだけではなくて、町には「死んだやつと死にそうなやつしかいな」いのだ。いらだち、ここにはもういられない、なんとかここを出なければ、と焦るティーンエイジャーにとって、自分の目に映る人びとは、「死んだやつと死にそうなやつ」。そうして何者でもない、「オヤジの息子ってだけ」の自分も、「死にそうなやつ」のひとりなのである。

「銃の弾き金かけた指」の「銃」はどこに向かっていたのだろう? おそらくそれは自分だ。だから引き金にかけた指は、がたがたふるえていたのだ。実際にそれを試みたかどうかはともかくとして、この歌の主人公はそんな気分でいた。

* * *

イントロは、ピアノが左右のユニゾンで入ってくる。
ピアノの左手というのは、言ってみればベースラインみたいなものなのだが、両手でそれを強調することで、ずっと力強く、オクターヴの響きをもって耳に飛び込んでくる。
そこからふたりのユニゾンで歌が始まる。

軽く、上からふわっと降りてくるみたいな声がガーファンクルのもの。知的な、ちょっと憂鬱そうな声がサイモン。ユニゾンになってもこのふたりの声は溶けあってひとつになるのではなく、別々に聞こえてくる。転調したり元に戻ったり、例によって複雑なコード進行と変拍子なのだが、コーラスになるとハーモニーの美しさに耳を奪われて、そんなものはどうでもよくなってしまうのだ。

途中からコンガのリズムが加わり、リズムが強調される。そこに、暗い、いらだちに満ちた歌詞を、重力を感じさせない声で歌うガーファンクルと、淡々と、少し憂鬱そうだけれど、やはり軽く歌うサイモンの声がかぶせられる。

それを聴いていると、歌詞で歌われている主人公は、おとなになった、ということがわかるのだ。いらだちながら、突き詰めて、未来にすがるように、ものごとを考えたり感じたりするのが十代の頃だとしたら、それを土台に、歳を取ることもできる。その頃の経験をありありと感じながらも、同時にそう感じていた自分を外から眺めることもできるようになる。そのとき、ひとは少し、自由になるのだ。自由になれるのは、故郷を出たからではなく、故郷を出ることで、故郷にいた頃の自分を外から眺められるから。そうして、いまの自分も、未来の位置に自分を置いて、そこから振り返って眺めてみることができるようになる。かつてはそのなかに閉じこめられているだけだった「いま」も、外から眺めることで、その輪郭がおぼろげに見えてくる。

もしかすると、その「いま」は、《American Tune》のような世界なのかもしれないのだけれど。

Simon & Garfunkel - American Tune

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2 コメント

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。。 (mrcms)
2008-12-26 08:14:45
なんか、ものすごく感動し嬉しい気持ちがあり。
それゆえ、即座に反応ができず、心の中で気持ちを暖めていました。
取りあげていただいて本当にありがとう。


スタンダード、というジャンルがありますね。僕らが子供の頃は、それはジャズの歌ものだったり映画音楽のインストだったりしました。どれもこれも美しく華麗で、本当に完成度の高いものばかりだった。僕の音楽性も、それらに多分に影響受けてます。というのは、ウチの父がそういうものを好きで家でよくかけてたからです。

故郷が嫌いで家も嫌いだった僕は、そういうものを否定するところから始めました。それがロックだった。

(ひとつだけ陰陽師さんと違うのは、僕は男だったので、「オンナコドモ」の聴くような音楽を聴くことも、「逆らう」ということになったことです。女性に人気の女々しいニューミュージックを聴いたりしたのも、そんな理由があったのかもしれません。親が押し付けた「男性観」をも否定したかったのですね)話がそれました。


そういうわけで、僕はその後ロックばかり聴いていたのですが、10年ほど前、そういったスタンダードものを改めて聴く機会があり、ものすごい衝撃を受けました。どれもこれも、僕が当時思っていた「こう行って欲しい!」という理想の進行とメロディが満載だったからです。


僕はその頃既に音楽の仕事を始めていました。自分の中では「これはこうあるべき!」という明確な理想の形があって、作品が本来あるべき、その姿に落ち着くまで、それを探し続ける、という創り方をしていたのです。答えは必ずある!という考え方なんです。

ところがそれが全部、実は、大嫌いだった父から幼少の頃に散々聴かされたスタンダードが元だった、というのはとてつもないショックでした。

僕は、そういう音楽を聴くとき、必ず「死にたくなるような感覚」に襲われます。実際僕らは、仲間内でそういうジャンルの事を「死にたくなる音楽」と呼んでいました。

何故そう思うのか判らないのです。でも最近考えて、たぶん、なのですが、完全無欠で何も要らないからだろう、と。
つまり、ああいう音楽を聴くと、自分がもっと新しいものを創る必然性が見えなくなってしまうんです。もうこんなに素晴らしいものが既にあるなら、これでいいじゃないか、と思ってしまうのです。
そして、この音楽を聴きながら静かに臨終を迎えたい、とまで思ってしまうわけです。

既に存在してる美しいもの。欠点がないがゆえ、僕らはそれにがんじがらめにされて何も言えなく出来なくなってしまう。そんな恐怖感があったのかもしれません。


マイリトルタウンは、ヒットした当時は、まったく良さが理解できませんでした。なんでもっと判りやすい、往年の彼らの感じで作らなかったのだろう、と。でも大ヒットしたんですよね。
真の凄さを理解したのは、ちょうどさっき書いた、スタンダード曲を改めて聞き返した頃でした。多分耳が肥えてきていたんだと思うのですが、20年ぶりくらいで聞き返したとき、歌詞の世界と進行とメロがとてつもなく素晴らしいと、即座に思ったのです。
そして、こんな復活が(たった1曲ではあるけど)出来た彼らを羨ましく感じた。過去のグループが復活して、現役当時と遜色ないもの、いやそれ以上のものを産んだ、ということが凄いと思った。
当時の僕の感覚が、嫌いだった親や故郷のことにちょうど向いていて、内容がリアルに感じたんだと思うのです。そしてそれは、「大人になって振り返っている」から思うことが出来たことですよね。ちゃんとリンクしてるのだなあ、と。

アメリカの歌は知っていましたが、二人のバージョンがあるのは知らなかった。これは染みますね。ポールサイモンは才能があり好きですが、もう一人の声が加わることで、説得力というか浸透する力が数倍になるのが、何か悔しいです。
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コメントありがとうございました (陰陽師)
2009-01-05 22:41:44
mrcmsさん、あけましておめでとうございます。

返事が遅くなってごめんなさい。
ずっとばたばたしてたんです。

> 10年ほど前、そういったスタンダードものを改めて聴く機会があり、ものすごい衝撃を受けました。どれもこれも、僕が当時思っていた「こう行って欲しい!」という理想の進行とメロディが満載だったからです。

この感じはすごくよくわかります。
言ってしまったら、たとえばパッヘルベルのカノンやバッハのG線上のアリアのコード進行に代表されるように、コード進行っていうのは、もう基本的なパターンは古典音楽で出尽くしてしまっている。西洋音楽はそういうコードの上に発展してきたわけで、やはり小さい頃から西洋音階を音楽として聴いてきたわたしたちは、ちょうど母国語の文法をいつのまにか身につけているように、そのコード進行を一種の文法として身につけているのだと思うのです。
だから「こう行って欲しい!」と思うのは、ある種、あたりまえのことなんですね。わたしたちの耳が、そういう音楽をもとに音階やコードを聞き分けるようになったのだから。

> ところがそれが全部、実は、大嫌いだった父から幼少の頃に散々聴かされたスタンダードが元だった、というのはとてつもないショックでした。

これってたぶん「青い鳥」だと思うんです。
探して、探して、青い鳥は家にいた。だけど、青い鳥を見つけることができたのは、チルチルとミチルが家から離れて旅をしたからです。旅をすることで、自分自身が変わって、初めて「青い鳥」を見つけることができた。
それと同じように、わたしたちがまるで歩くときに手足を動かすように身につけていたコード進行が、いったい何なのか、改めて理解するために、いったんそこから離れなきゃならなかったんだと思います。

> 僕は、そういう音楽を聴くとき、必ず「死にたくなるような感覚」に襲われます。実際僕らは、仲間内でそういうジャンルの事を「死にたくなる音楽」と呼んでいました。

これもすごくよくわかる。
わたしにとってモーツァルトのフィガロのカヴァティーナとクラリネット協奏曲の第二楽章は「死にたくなる音楽」です。
なんていうか、もうここまで来ると、人間の音楽じゃないっていうか。至高っていう言葉はこういう音のためにあるんだと思う。

> 既に存在してる美しいもの。欠点がないがゆえ、僕らはそれにがんじがらめにされて何も言えなく出来なくなってしまう。そんな恐怖感があったのかもしれません。

真っ白な光を前にするようなもの。
正面から見ることはできないような。

なんていうかね、音楽って夾雑物がないから、そこまで行っちゃうんだと思うんです。
ほかの、たとえば絵とか彫刻とか、言葉を使う文学とか、どこまで行ってもある種の足かせみたいなものがあるような気がする。だけど、音ってなんというか、人間の限界を突き抜けちゃうところがあるんじゃないか。なんかねえ、モーツァルトのクラリネット協奏曲を聴いてると、つくづくそう思ってしまいます。こんな曲、書いちゃダメだよ、って。

こんな曲は数年に一度聴いたら十分だから、そのぐらいの頻度でしか聴いてません。
だけど、ふだん聴いてるような曲と、頭の別のところで聴いてるなあ、と思います。
あんまりそこの蓋を開けたくないような場所で(笑)。

《マイ・リトル・タウン》は、サビのところが単純だし、短い曲だから、うかうかーと聴いてたらあのコードと変拍子、聞き逃しそうですよね。
わたしはあんまりサイモンとガーファンクルのちゃんとした聴き手ではなかったので、mrcmsさんからリクエストいただくまで、この曲は聴いたことがなかったんです。
で、You Tubeでいくつか聴き較べてみて、ああ、断然これだ、ふたりのスタジオ録音だって。で、CD借りて、もう一度聴き直してみました。
わたしの聴いた「音」が、mrcmsさんの聴いた「音」と重なり合うところがあったとしたら、ほんとにうれしいです。

教えてくださって、ほんとうにありがとうございました。
返事、遅くなってごめんなさいね。
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