6.《カントリー・ロード》
アメリカの高校で、日本の歌を歌ってくれ、と言われた。
日本にいる頃から、日本の歌などほとんど聴いたりしなかったのだ。いったい何を歌ったらいいんだろう、と考えて、咄嗟に思いついたのが、音楽の授業で習った歌だった。
やわらかに 柳あおめる 北上の
岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに
石川啄木の短歌に越谷達之助が曲をつけたこの曲は、西洋音階の曲だったが、音符に一音節ずつのせていくところが「日本の歌」らしいように思えたのだ。
伴奏もなく、声量のないわたしの歌は、決してうまいとは言えないものだったが、簡単に、遠くにふるさとを思う歌である、と歌詞の意味を説明して、二回繰りかえして歌った。
とても日本らしい歌だ、日本語は母音の多い、やわらかい言葉だ、という感想をもらった。
アメリカにいるときは、何かあると日本ではどうか、とか、日本人はこういうときどう考えるか、といったことを聞かれる。自分が彼らにとっての「日本人」なのである。
そういうとき、わたしはいつも、これは「日本人」ではなくて、あくまでわたしの意見だけれど、と答えていた。
それでも、たとえば日本人の画一性などについて意見を求められて、そういうのも一種のステレオタイプではないか、と内心思いつつも、そうした画一性に批判的な意見をいうと、たいそう歓迎される。そういう見方は ethnocentrism(自民族中心的)ではなく、大変すばらしい意見だ、と言われる。
自分の考えを英語で言おうとすると、まず、ずいぶん切り縮められる。しかもそれまで日本人である自分について、意識することもなかったわたしは、そもそもどう考えていいかさえ、よくらからなかった。何かちがう、どこかちがう、と思いながら、日本について、あまりに自分が何も知らないことにとまどっていた。
期間の半分ほどが過ぎたとき、日本人留学生の集まりがあった。
何も考えずにしゃべることのできるのはひさしぶり、とばかり、夢中になって話をしている子もいたが、黙ったままでいることができることがありがたかったのはわたしばかりではなかったようで、なんとなくみんなだまりがちだった。
ログハウスを模したレストランの隣の大テーブルには、若い中国人の男性の一団が声高に話していた。ともすればだまりがちなわたしたちのテーブルとは好対照で、笑い合ったり、まるでケンカ腰で言い合ったりしていたのだった。
やがて、奧のステージに、テンガロンハットにバンダナ、ウェスタン・ブーツを履いた数人の人があがってきた。ライブが始まったのだ。
アメリカで一番ありふれた音楽は、マドンナでもなければマイケル・ジャクソンでもない、誰が歌っていても同じように聞こえる、口の中で響かせて、平たくして外へ出す独特の発生のカントリー・ミュージックだった。
日本にいるころ耳にしたことがあったのは、ジョン・デンバーぐらいだったが、アメリカには名前も聞いたことのないカントリー・シンガーが、ものすごくたくさんいた。
聴いたこともないけれど、どれも同じような曲が何曲か続いて、やがて耳にしたことのあるイントロが始まった。
《カントリー・ロード》、これぐらいなら君らも知っているだろう、一緒に歌え、というのである。
すると、隣のテーブルの中国人(アメリカ人かもしれないが)たちは大声で歌い出した。中国訛りの英語というのは、英語というより中国語に聞こえるのだなあと思ったが、彼らは臆せず、顔をまっ赤にして力の限り歌っていたのだった。
カントリー・ロード、故郷への道。
その道はどこへ向かっているのだろう。
彼らの道は。
声を限りに歌っている彼らの道は、中国に、あるいは台湾に通じているのだろうか。
わたしたちの道は。
そうして、わたしの道は。
「田舎道よ、わたしを家まで連れていっておくれ
わたしの場所、わたしのための場所まで」
そうしてわたしはいま、ここにいる。
ここがわたしのたどりついた場所。
音楽が連れてきてくれた場所。
アメリカの高校で、日本の歌を歌ってくれ、と言われた。
日本にいる頃から、日本の歌などほとんど聴いたりしなかったのだ。いったい何を歌ったらいいんだろう、と考えて、咄嗟に思いついたのが、音楽の授業で習った歌だった。
やわらかに 柳あおめる 北上の
岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに
石川啄木の短歌に越谷達之助が曲をつけたこの曲は、西洋音階の曲だったが、音符に一音節ずつのせていくところが「日本の歌」らしいように思えたのだ。
伴奏もなく、声量のないわたしの歌は、決してうまいとは言えないものだったが、簡単に、遠くにふるさとを思う歌である、と歌詞の意味を説明して、二回繰りかえして歌った。
とても日本らしい歌だ、日本語は母音の多い、やわらかい言葉だ、という感想をもらった。
アメリカにいるときは、何かあると日本ではどうか、とか、日本人はこういうときどう考えるか、といったことを聞かれる。自分が彼らにとっての「日本人」なのである。
そういうとき、わたしはいつも、これは「日本人」ではなくて、あくまでわたしの意見だけれど、と答えていた。
それでも、たとえば日本人の画一性などについて意見を求められて、そういうのも一種のステレオタイプではないか、と内心思いつつも、そうした画一性に批判的な意見をいうと、たいそう歓迎される。そういう見方は ethnocentrism(自民族中心的)ではなく、大変すばらしい意見だ、と言われる。
自分の考えを英語で言おうとすると、まず、ずいぶん切り縮められる。しかもそれまで日本人である自分について、意識することもなかったわたしは、そもそもどう考えていいかさえ、よくらからなかった。何かちがう、どこかちがう、と思いながら、日本について、あまりに自分が何も知らないことにとまどっていた。
期間の半分ほどが過ぎたとき、日本人留学生の集まりがあった。
何も考えずにしゃべることのできるのはひさしぶり、とばかり、夢中になって話をしている子もいたが、黙ったままでいることができることがありがたかったのはわたしばかりではなかったようで、なんとなくみんなだまりがちだった。
ログハウスを模したレストランの隣の大テーブルには、若い中国人の男性の一団が声高に話していた。ともすればだまりがちなわたしたちのテーブルとは好対照で、笑い合ったり、まるでケンカ腰で言い合ったりしていたのだった。
やがて、奧のステージに、テンガロンハットにバンダナ、ウェスタン・ブーツを履いた数人の人があがってきた。ライブが始まったのだ。
アメリカで一番ありふれた音楽は、マドンナでもなければマイケル・ジャクソンでもない、誰が歌っていても同じように聞こえる、口の中で響かせて、平たくして外へ出す独特の発生のカントリー・ミュージックだった。
日本にいるころ耳にしたことがあったのは、ジョン・デンバーぐらいだったが、アメリカには名前も聞いたことのないカントリー・シンガーが、ものすごくたくさんいた。
聴いたこともないけれど、どれも同じような曲が何曲か続いて、やがて耳にしたことのあるイントロが始まった。
《カントリー・ロード》、これぐらいなら君らも知っているだろう、一緒に歌え、というのである。
すると、隣のテーブルの中国人(アメリカ人かもしれないが)たちは大声で歌い出した。中国訛りの英語というのは、英語というより中国語に聞こえるのだなあと思ったが、彼らは臆せず、顔をまっ赤にして力の限り歌っていたのだった。
カントリー・ロード、故郷への道。
その道はどこへ向かっているのだろう。
彼らの道は。
声を限りに歌っている彼らの道は、中国に、あるいは台湾に通じているのだろうか。
わたしたちの道は。
そうして、わたしの道は。
「田舎道よ、わたしを家まで連れていっておくれ
わたしの場所、わたしのための場所まで」
そうしてわたしはいま、ここにいる。
ここがわたしのたどりついた場所。
音楽が連れてきてくれた場所。