陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

この話、したっけ~あのときわたしが聞いた歌 その6.

2007-06-19 22:39:29 | weblog
6.《カントリー・ロード》

アメリカの高校で、日本の歌を歌ってくれ、と言われた。
日本にいる頃から、日本の歌などほとんど聴いたりしなかったのだ。いったい何を歌ったらいいんだろう、と考えて、咄嗟に思いついたのが、音楽の授業で習った歌だった。

 やわらかに 柳あおめる 北上の
 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに

石川啄木の短歌に越谷達之助が曲をつけたこの曲は、西洋音階の曲だったが、音符に一音節ずつのせていくところが「日本の歌」らしいように思えたのだ。
伴奏もなく、声量のないわたしの歌は、決してうまいとは言えないものだったが、簡単に、遠くにふるさとを思う歌である、と歌詞の意味を説明して、二回繰りかえして歌った。
とても日本らしい歌だ、日本語は母音の多い、やわらかい言葉だ、という感想をもらった。


アメリカにいるときは、何かあると日本ではどうか、とか、日本人はこういうときどう考えるか、といったことを聞かれる。自分が彼らにとっての「日本人」なのである。
そういうとき、わたしはいつも、これは「日本人」ではなくて、あくまでわたしの意見だけれど、と答えていた。

それでも、たとえば日本人の画一性などについて意見を求められて、そういうのも一種のステレオタイプではないか、と内心思いつつも、そうした画一性に批判的な意見をいうと、たいそう歓迎される。そういう見方は ethnocentrism(自民族中心的)ではなく、大変すばらしい意見だ、と言われる。
自分の考えを英語で言おうとすると、まず、ずいぶん切り縮められる。しかもそれまで日本人である自分について、意識することもなかったわたしは、そもそもどう考えていいかさえ、よくらからなかった。何かちがう、どこかちがう、と思いながら、日本について、あまりに自分が何も知らないことにとまどっていた。

期間の半分ほどが過ぎたとき、日本人留学生の集まりがあった。
何も考えずにしゃべることのできるのはひさしぶり、とばかり、夢中になって話をしている子もいたが、黙ったままでいることができることがありがたかったのはわたしばかりではなかったようで、なんとなくみんなだまりがちだった。

ログハウスを模したレストランの隣の大テーブルには、若い中国人の男性の一団が声高に話していた。ともすればだまりがちなわたしたちのテーブルとは好対照で、笑い合ったり、まるでケンカ腰で言い合ったりしていたのだった。

やがて、奧のステージに、テンガロンハットにバンダナ、ウェスタン・ブーツを履いた数人の人があがってきた。ライブが始まったのだ。

アメリカで一番ありふれた音楽は、マドンナでもなければマイケル・ジャクソンでもない、誰が歌っていても同じように聞こえる、口の中で響かせて、平たくして外へ出す独特の発生のカントリー・ミュージックだった。
日本にいるころ耳にしたことがあったのは、ジョン・デンバーぐらいだったが、アメリカには名前も聞いたことのないカントリー・シンガーが、ものすごくたくさんいた。

聴いたこともないけれど、どれも同じような曲が何曲か続いて、やがて耳にしたことのあるイントロが始まった。
《カントリー・ロード》、これぐらいなら君らも知っているだろう、一緒に歌え、というのである。

すると、隣のテーブルの中国人(アメリカ人かもしれないが)たちは大声で歌い出した。中国訛りの英語というのは、英語というより中国語に聞こえるのだなあと思ったが、彼らは臆せず、顔をまっ赤にして力の限り歌っていたのだった。

カントリー・ロード、故郷への道。
その道はどこへ向かっているのだろう。
彼らの道は。
声を限りに歌っている彼らの道は、中国に、あるいは台湾に通じているのだろうか。
わたしたちの道は。
そうして、わたしの道は。

「田舎道よ、わたしを家まで連れていっておくれ
わたしの場所、わたしのための場所まで」

そうしてわたしはいま、ここにいる。
ここがわたしのたどりついた場所。
音楽が連れてきてくれた場所。

この話、したっけ~あのときわたしが聞いた歌 その5.

2007-06-18 22:39:50 | weblog
5.《プライド》

ソウル・オリンピックの年、わたしはアメリカにいた。

アメリカにいたのでは、イギリスのロックなんて聴けないかなあ、などと暢気なことを考えて持っていったカセットテープは、端から授業の録音に上書きされていた。
とにかく、授業の英語が少しも聴き取れないのだ。

週に一度、アイルランド人の先生のレッスンも受けていたし、ラジオ英会話は雑談の部分も十分に聞き取れていたのだ。まさかこれほど、何一つわからないという事態は予想もしていなかった。

口を開かない発音。抑揚がなく、だらだらと続き、-erとか-ahとか間投詞がやたら差し挟まれ、わかるのは"you know" というところだけ。
事前に用意された原稿を読んだり、外国人を意識して話すことと、日常そのままの言葉はここまでちがうのか、と、愕然とするばかりだった。

おそらく、わたしにも中に入ってくるように、と投げかけられた質問さえ、いったい何を聞かれているのかすらわからない。
自分がクラスで一番できないというのがどういうことか、ほんとうに骨身にしみるように理解した。屈辱と劣等感で、目の前が暗くなるような日々だった。

家に帰るとテープに録音した授業を何度も何度も聞き返してノートに取ろうとした。意味を調べようにも綴りがわからない。ひとつのトピックスを理解するために一時間以上かかっていた。

その状態がいったいどれほど続いたのか、ある日、自分が取ったノートをもとに、ふっと授業をしている先生の声に自分の声を重ねてみた。なるべく同じようにしゃべってみる。息を継ぐところ、切るところ、抑揚、語尾の延ばしかた。自分のそれまでのしゃべり方を捨て、その先生とぴったりと重なるように話してみた。
偶然のように見つけたこの方法が、わたしのブレイクスルーとなった。読むことで、わたしは聞けるようになっていた。

ノートも、取り方を変えた。それまでは必死で英語でノートを取ろうとしていたのだが、日本語で取るのだ。耳に入ってくるのは英語でも、それを要約するのが日本語であって悪いはずはない。わたしにとって、それがスムーズにいくならば、それが一番良い方法だ。
そうやって、わたしは日本語や図や記号や英単語の入り乱れる奇妙なノートを取るようになった。それでも、いつの間にかわたしは授業についていけるようになっていた。

それまでは物珍しさから近寄ってきたクラスメイトたちとも、珍しさを越えて話ができるようになっていた。マドンナの話。マイケル・ジャクソンの話。
徐々に生活は楽しくなっていたが、それでも、たとえ自分の部屋に戻ってひとりきりになっても、心の底からくつろぐことはできなかった。疲労が澱のように溜まっていた。

周りはカール・ルイスの活躍に熱狂していたけれど、わたしにはオリンピックなど、別の惑星のできごとだった。ところがそんなある日、ホールに置いてある大型TVで男子マラソンの中継をやっているところに行きあったのだ。
おそらくは録画だったのだろうが、TVの前には人だかりができていた。だが、なにしろマラソンは長い。アメリカ人が活躍するわけでもない競技は次第に人が減っていき、わたしは最前列で見ることができるようになっていた。

強烈なソウルの日差しのなかを、六人ほどの先頭集団がサバイバルレースをやっていく、という展開だった。ひとり抜け、ふたり抜け、最後に四人残った。そのなかに、日本人の中山がいた。
わたしは中山から眼を離すことができなくなっていた。それまで自分が名前をかろうじて耳にしたことがあるだけの選手を、息を詰めて応援するようなことをする人間と思ったことはなかった。
それでも、わたしはTVを見ながら、心のなかで、がんばれ、がんばれ、とひたすらに念じた。
最後の方で、その中山も脱落した。残念というより、姿がどうにかして見たくて、展開などよそに、一瞬映る四番目の選手の姿をわたしは必死で探した。そうしてそのまま四番目に中山がゴールしたとき、わたしはとまらなくなった涙を、こっそりと拭いた。

そのホールを抜けたとき、どこからかギターの音が聞こえてきた。誰かが大音量でラジカセを鳴らしていたらしかった。激しいギターの音につづいて、歌声が響いた。

One man come in the name of love
One man come and go

わたしはまだそのとき、それがU2で、その歌が《プライド》というタイトルの曲だとは知らなかった。さらに、それがマーティン・ルーサー・キングを歌った歌ということも、もちろん知らなかった。
それでも、「ひとりの男が愛の名のもとにやってきた ひとりの男は、来て、去っていった」というのは、そのときの気分がそのまま音楽になって、外から聞こえてきたように思ったのだ。

One man come on a barbed wire fence
One man he resist

一人の男は有刺鉄線を超えてやって来た。
一人の男は抵抗する。

たったひとり、外国で、過酷な日差しを浴びながら走っていくひとりの選手の歌。


(明日最終回)

(※U2 《Pride(In the Name of Love)
http://www.youtube.com/watch?v=k04KzgYRKrE&mode=related&search=


この話、したっけ~あのときわたしが聞いた歌 その4.

2007-06-17 22:49:28 | weblog
4.音符の中を泳いでいく魚のように

高校を卒業して数年後、当時のわたしを知っていたという人に会ったことがある。学年がちがったので、わたしのほうはその人のことをほとんど知らなかったのだが、在学中にわたしがやっていたことを下級生だったその人はよく知っていて、話を聞きながら、出来事こそ同じでも、まったくちがう登場人物による、まったくちがった物語を読んでいるような不思議な気持ちがしたのだった。

わたしの意識のなかにある十代の自分のイメージというのは、部屋の隅に置いた小さな冷蔵庫だった。胸の奥の衝動を抑え、厚い扉の内側に閉じこもって、ときどき振動音を立てる小さな冷蔵庫。

その内側で、わたしは本を読み、音楽を聴いた。
食べたものが身長を伸ばし、血や肉となっていったように、繰りかえし読んだ本は、わたしの文体とボキャブラリを築き、そうして、おそらく左腕の肘から肩あたりまではレッド・ツェッペリンとピンク・フロイドとイエスでできているはずだ。

中学に入ってまもなくのレコード鑑賞会で、わたしはツェップとフロイドとイエスを知った。。五日間に渡って放課後、毎日開かれたその鑑賞会では、もちろんそれ以外にもディープ・パープルも聴いたはずだし、ビートルズもローリング・ストーンズも聴いた。それでも、音楽の、それまで知っていたのとはちがう側面を見せてくれたのは、その三つのバンドだった。

レッド・ツェッペリンはラフなまま立つことを教えてくれた。ソフィスティケイトされなくても、自分が作りだすものを疑いさえしなければ、そのいさぎよさだけで十分にカッコいいのだ、と。
ピンク・フロイドは、わたしにとっては重力だった。上に伸びるためには、下方に向かう力も必要なように、わたしを下へ、下へと引っぱった。
そうして、イエスを聴いていると、自分が身を圧倒するような大量の音符の海を泳いでいく魚になったような気がしてくるのだった。スティーヴ・ハウのギターは、たくみなバランスのとりかたを教えてくれたし、リック・ウェイクマンのキーボードは、金色に輝く背びれ、ビル・ブラッフォードのドラムは泳ぐ力を与えてくれたし、そうしてジョン・アンダーソンのボーカルは、水のなかに差す日の光だった。

もちろん当時聴いていたのはそれだけではない。キング・クリムゾンも、エマーソン・レイク・アンド・パーマーも好きだったし、高校になったころからU2と結んだ絆はまた特別なものだった。それでもわたしの身体を作ったのはその三つのバンドだ。

のちに、アメリカのコラムニストであるアンナ・クインドレンのコラム集『言わせてもらえば』のなかで、1985年に自殺したふたりのティーン・エイジャーをとりあげている。そのふたりの家族は、彼らが好きだったバンド、ジューダス・プリーストを訴えた。「ジューダス・プリーストのアルバムによって死の暗示にかけられた」という理由で、百二十万ドルの損害賠償を請求したのである。

クインドレンはふたりの生前の様子をスケッチする。
ひとりは、生まれる前に両親が離婚し、そののちに母親が四回結婚を繰りかえし、四度目の父親は、息子の目の前で、母親を拳銃で脅すような人物だった。ハイスクールを中退し、マリファナやコカインを常用した。
もうひとりは、小さい頃から母親に虐待され、成長して虐待するようになった。暇なときは何をするかという問いに(この質問は、日本語で「趣味は」という質問に相当する)「ドラッグ」と答えた。

こうしたふたりが自殺を図ったのは、ジューダス・プリーストの音楽と関係があるとはいえないだろう。
 裁判所は、自殺はバンドのせいではない、という判決を下した。しかし家族は、息子たちの恐ろしい死の責任から逃れるために、さらに上告するだろう――ヘビメタがあの子をそそのかしたんです。父親が何度も変わったせいではありません。折檻も、アルコールも、ドラッグも関係がありません。意志が弱かったせいでも、子育てに失敗したせいでもありません。誰かが悪いんです。私たち以外の誰かが――。
 いつだって誰かのせいにしないと気がすまないらしい。
アンナ・クインドレン『言わせてもらえば』松井みどり訳 文藝春秋社

わたしは当時ヘビメタを「馬鹿っぽい」と決めつけ、避けていたので、ジューダス・プリーストを聴いたことはなかった。もちろん、わたしはその自殺したティーン・エイジャーと共通点もほとんどない。それでも、音楽は単にその曲を聴いているあいだだけ、一種の気分をもたらすものではないように思う。とくに、まだ経験も乏しく、学ぶ要素も限られた子供が浸りきる音楽は、その子の少なからぬ部分を作り上げていくはずだ。加えて、歌詞が母語で、ダイレクトに伝わる場合、否定的なニュアンスの歌詞、暴力を肯定するような歌詞、投げやりだったり、呪詛したりするような歌詞は、そのまま吸収されることがあっても不思議はない。

わたしはイエスを見つけた。
イエスを見つけるなかで、身震いするような冷たい水の中でも、岩だらけの浅瀬でも、泳いでいく力を養っていったのだ。
部屋の隅の冷蔵庫のなかで。

わたしだって彼らだったのかもしれないのに。

(この項つづく)

この話、したっけ~あのときわたしが聞いた歌 その3.

2007-06-16 22:50:55 | weblog
3.笛吹く子供とスカボロー・フェア

小学校は三分の二ほどが付属の幼稚園から上がり、三分の一ほどが外部から来ていた。すでに顔見知りのなかに入っていく、さまざまなところから来て、知り合いもいない女の子たちは、いくら小学生になったばかりの小さな子供たちとはいえ、それなりにプレッシャーがあったのだろう。

何がきっかけかよく覚えていないが、入学したばかりのころ、わたしは同じ幼稚園から上がり、家も近所だったエリちゃんと、外部組のマキちゃんという子の三人でいることが多かった。
あるときマキちゃんが、エリちゃんがわたしの母のことをゴリラに似てるって言っていた、と教えてくれた。おそらくわたしは家に帰って憤慨して母にそのことを告げたのだと思う。
すると母は、「マキちゃんはお母さんのこと、何に似てるって言ってた?」と聞いた。
家に何度も遊びに来ていたエリちゃんが、いきなりそんなことを言い出すはずもない、と大人の母にはすぐにわかったのだろうが、わたしには母の真意がわかるまで、それからしばらくかかったように思う。そうして、気がついたときにはひどく驚いてしまった。

それまでわたしだって嘘は何度もついてきたが、それもみな、どうして窓ガラスにクレヨンで落書きなんかするの、と怒られて「やってないもん」と言い張ったり、幼稚園でお弁当がどうしても全部食べられなくて、お腹が痛い、と言ったり、見えない友だちをいかにもいるように話したりするような嘘に限られていた。そうではなく、何かの目的があって、それを達成するための嘘というものがあることはわたしの想像だに知らないことがらだったのだった。

ひとたび気がついてみれば、三人で遊んでいるときはそんなそぶりさえ見せないのに、エリちゃんの姿がなくなれば、マキちゃんは、エリちゃんがああ言った、こう言っていた、とそういうことばかり言い出す。結局わたしはどうしたのか、それから私たち三人がどうなったのか、まったく記憶にはないのだが、そうした面での成熟度は、ずいぶん個人差があったのだろう。

ところが小学校も四年ともなると、多くの女の子たちが一年のときのマキちゃんのようなことを日常的にするようになっていた。

わたしが三年のとき、バザーで「スカイ・ハイ」のレコードを買った先生は、まだ大学を卒業してさほど経っていない二十代の男の先生だった。そうして、四年になってその先生がわたしたちの担任になった。

ことあるごとに、誰それが贔屓されている、と言いだす子たちが出てきたのは、おそらくその先生が担任でなくても起こったことなのかもしれない。そういう成長段階ということもあったのだろうが、やはり若い男の先生ということも無関係ではなかったのだろう。
何人か集まれば、誰があんなことを言った、誰がこんなことを言った、ということばかりになり、誰それとは話しちゃダメ、先生に贔屓されてるんだから、と袖を引かれ、いつのまにか毎日はデリケートな外交折衝を要求される国連大使のようになっていた。

実際に何かが起こったのかどうなのか、わたしはほとんど記憶にない。とにかくそういう話がいやで、休憩時間はいつも図書館にいたような気がする。
ともかく、担任の言うことをまったく聞かない子が出てきたり、途中で帰ったりする子が出てきて、やがて教室に教頭先生やシスターが常駐するようになった。いまでいうところの一種の学級崩壊だったのだろうと思う。

例年、二学期の終わりに音楽会があった。
各クラス、それぞれに出し物を準備して、全校生徒の前で演奏するのである。
いま考えると、なんとかそれをきっかけに、クラスをもう一度まとめようと先生は考えていたのだろう。その年は、いつもより早くから準備が始まった。
リコーダーの合奏で、《スカボロー・フェア》をやるのだ。

教室でサイモンとガーファンクルの曲を聴いたときの不思議な感じはいまでも覚えている。
黒板に先生が歌詞を書いてくれていた。それを見ながら、パセリ・セージ・ローズマリー、アンドタイム、というところだけ聴き取れて、静かな、不思議な旋律を聴いているうちに、あたりが萌葱色の靄がおりてきたように思った。
譜面をもらって、毎日家で吹いていた。頭の中でサイモンとガーファンクルのコーラスを
鳴らしながら、それに合わせるようにして、自分のリコーダーから萌葱色の靄が出てこないか、と思った。

合奏の練習が始まると、担任の先生はコントラバスを伴奏で弾くのだった。
初めて見る楽器はめずらしく、その低いボン・ボンという音もうれしくて、練習が楽しくてたまらなくなった。最初のうちはどうしても中に入らない子もいたのだが、次第に戻ってきて、最後の頃は二部合奏もずいぶん上達したように思う。

それだけ練習したのに、わたしは音楽会の当日、扁桃炎で四十度を超える熱を出し、出ることはできなくなったのだった。
その日、11月の午前中の白い日差しが入ってくる自分の部屋で寝ながら、わたしは耳の中でリコーダーとコントラバスの合奏する《スカボロー・フェア》を聴いていた。部屋に萌葱色のもやがおりてきたようだった。

(この項つづく)

この話、したっけ~あのときわたしが聞いた歌 その2.

2007-06-15 22:30:46 | weblog
2.初めて買ったレコード

小学校の低学年のころになると、自分が「これはいい」と見つけて好きになった歌はいくつもあった。そのほとんどはタイトルも知らず、ずいぶん大きくなって、これはあのときに好きだった曲だ、と知るようになったものだ。
ロネッツの《ビー・マイ・ベイビー》、シュープリームスの《恋はあせらず》、ギルバート・オサリバンの《アローン・アゲイン》、つい先日も、arareさんの書きこみで、ずっと「テストファニー」と思いこんでいた曲が、《テイスト・オブ・ハニー(密の味)》ということを知った。これもカッコイイ、と思っていた曲だ。そうして、青江美奈の《伊勢佐木町ブルース》。

不思議なのは、いま振り返っても当時の自分がそうした曲のどこが好きだったのかはっきりとわかることなのだ。《ビー・マイ・ベイビー》は転調してからのBメロの半音でうねうね動くところが好きだったのだし、《恋はあせらず》は裏打ちのリズムがカッコイイ、と思ったのだし、《アローン・アゲイン》はコードが半音ずつ下がっていくところが好きだったのだし、そうして《伊勢佐木町ブルース》、これは曲に入ってしまうとそれほど好きではなかったのだが(いま考えてみたが歌詞はまったく思い出せない)、あのイントロのッハー、ッハーというため息のシンコペーションがたまらなくカッコイイと思ったのだ。
実はわたしは音楽の好みというのは、そのころに形成されたままほとんど変わっていないのかもしれない。相変わらず転調とシンコペーションはやたら好きだ。

だが、いったいどこでそういう曲を聴いていたのかがわからないのだ。
家には古典音楽のレコードしかなかったし、さらにひどいことに、母親はブルグミュラーだのツェルニーだの、ピアノの練習曲のレコードを「曲の感じをつかむために」と聴かせたのだった。毎日同じ曲を繰りかえし練習しているところに加えて聞かされたそういうピアノ曲は、吐き気がするような思いだった。いまだに古典音楽のピアノ曲だけは、ピアノ協奏曲も含めて、どうにも聞く気になれないのは、あの吐きそうな記憶があとを引いているにちがいない。

ともかく、家でないことは確かなのだ。
思うに、気に入った曲が街中で流れでもしたら、わたしは立ち止まって、一心不乱に耳に焼き付けてたのだと思う。そうやって、記憶に刻みつけ、繰りかえし思い返す。また聴く機会があれば、さらに補強する。

わたしはよく知っている曲ならかなり忠実に再現することができる(自分では「頭の中で鳴らす」と呼んでいる)のだが、これはおそらくそのころ身につけた能力ではなかろうか。残念ながらこの「頭の中で鳴らしている」とき、どれほど正確な音を「出し」ているのか、実際の音と聞き較べて確かめることはできないのだが。

ともかく人間というのは制限された環境の中でも、なんとか適応するものなのである。
そうやって覚えた曲はこっそりピアノで弾いてみたし、「タラッタラッタタラララッ、ッハー、ッハー」と歌っていて、「何を変な声、出してるの!」と叱られた記憶もある。

初めて自分で買ったレコードは、ジグソーの《スカイ・ハイ》だった。
いま聴いてみると、なんともいえない派手で中身のない曲なのだが、それでも自分がそのどこに引かれたのかもやっぱりわかってしまう。もはや好きというにはあまりに恥ずかしい曲なのだけれど。

そのシングル・レコードには、プロレスラーがドロップキック(という技の名前は当時知らなかったが)をしている写真がジャケット、というか、レコードが入っている袋に入っていた一枚の紙に印刷してあり、裏にはそのマスクをかぶったレスラーが「ミル・マスカラス」というメキシコの選手であることが書いてあった。彼がこの曲を入場曲として使っていたから、というのがその理由で、ミル・マスカラスが当時人気があったせいなのか、この曲はあちこちでよく耳にしていたように思う。単純な曲で、一度聴いたらすっかり覚えられそうなものなのだが、それでもわたしがこのレコードを買ったのには理由があった。

わたしが当時通っていた学校では、年に一度、バザーがあった。
不要品を出す、という建前だったが、実際には未使用の新品でなければならない、という規定があって、結局はそのバザーに出品するために買わなければならなかったようだ。毎年その時期になると、母はこぼしていたものだったが、バザーの日は子供たちにとってはお祭りのようなもので、楽しみにしていた。

うどんやカレーを出す店、お母さんたちが焼いたクッキーを売る店、そのほかにも、服や文房具や本などさまざまなものが売られている。もちろんそれだけではなく、児童が書いた絵や習字、研究発表や壁新聞なども掲示されていた。
そういうなかで、先生の出店があったのだ。

そこには先生たちが出したさまざまな品が売られていた。本は大人向けで、とても読めないような本ばかりだったのだが(そのなかに石川達三の『青春の蹉跌』という本があって、「これは何と読むのですか」と読み方を教えてもらったのをなぜか覚えている)、そのなかにレコードをいくつも出している先生がいたのだ。
ほかにはいったいどんなものがあったのか、まったく記憶にないのだが、一枚だけ、筋肉がもりあがったごつい体つきの、上半身裸の男が跳んでいる写真のレコードが異質で、おそらくこれは何のレコードかと聴いたのだと思う。すると、その先生はそこにあった小さなプレーヤーにそれをのせて聴かせてくれたのだ。
「あ、この曲、好きなんです」と言ったら、特別にまけてあげよう、と言われて、確か、70円で買ったのだと思う。
カレーがたぶん二百円で、クッキーが百五十円ではなかったか。そのなかで、70円で、シングル盤のレコードを買ったのだった。

それから家で毎日そのレコードを聴いていたように思う。文句を言われようものなら、学校のバザーで先生から買ったの、文句ないでしょ、とばかりに、聴いたのだ。
そのころ、自転車に乗って走るときはいつもあのイントロの「タラララタラララタラララタラララダカダカダン」というのが頭の中でなっていた。

(この項つづく)

※《ビー・マイ・ベイビー》http://youtube.com/watch?v=8-0upHlWfQ4
《恋はあせらず》http://youtube.com/watch?v=6EZ9h9gZ0wA
《アローン・アゲイン》http://youtube.com/watch?v=D_P-v1BVQn8&mode=related&search=
《スカイ・ハイ》http://youtube.com/watch?v=SeAm0dVohDg
ここで聞くことができます。

この話、したっけ~あのときわたしが聞いた歌 その1.

2007-06-14 22:13:59 | weblog
振り返れば、いつも歌があった……わけではない。多くの記憶には、かならずしもBGMはついてないし、そもそもわたしは昔から音楽をあまりBGMのようには聞かない。映画でも好きな曲が流れてくると、場面そっちのけで聞き入ってしまうほうだ。

BGMとしてではなく、その歌の記憶について、少し書いてみたい。
お時間があれば、おつきあいください。

1.怖いものが好き ――シューベルト《魔王》

三~四歳の記憶となると、そんなにいくつもあるわけではないのだが、その半分くらいが音楽教室にまつわるものだ。いまでも教室の窓の外のツタの葉っぱが陽を受けて光っていたことや、二列に並んだオルガン、前の五線譜が書いてある黒板など、そのときの光景も漠然と目に浮かぶ。そのときを最後に歌ったはずもないのに、どういうわけか、♪ヤ・マ・ハー ヤ・マ・ハーの音楽教室ー という歌まで覚えている。

音楽教室でもらった教則本に、挿絵入りの物語のページがあった。
白黒のページで、黒インクのドローイングがひどくおどろおどろしかった。おそらく、馬に乗ったお父さんと子供の絵が描いてあったのだろう。

夜、父親が子供を前に乗せて、馬を駆っている。すると子供が、急に魔王がいる、と恐がるのだ。父親には見えない。子供は魔王の声を聞く。父親には聞こえない。だが魔王は子供を連れて行く。父親の腕のなかには、もはや息をしていない子供の亡骸。

ストーリーを読むだけで、もう怖くて怖くて、そのくせ当時から怖い話が好きだったのだろう、もう夢中になってそこばかりくりかえし読んでいた。
おそらく音楽教室に行くたびに、そこを広げて夢想に耽っていたにちがいない。

夢想のなかでは、わたしはその子供だった。父親のふところに抱かれて、暗い夜道は怖いけれど、抱かれて暖かで、安心していた。
そこで魔王が現れる。
いったいどこに現れたのだろう。馬で走っていくその前方のほうの、中空に浮かびあがったのだろうか。
魔王はどんな顔をしていたのだろう。一目で魔王とわかるのだろうか。
なぜお父さんには見えなかったのだろう。声も聞こえなかったのだろう。
お父さんには見えないことを知り、守ってもらえないとわかったその子供はどれほどがっかりしただろう。いきなりさらわれるより、守ってもらえないと知ってさらわれる方が、ずっと怖いように思った。
なぜ魔王はその子を連れていったんだろうか。自分もいつか魔王に狙われたりするのだろうか。

その《魔王》は音楽教室で聴いたはずなのだ。
ところが音楽教室で聴いたときの記憶はない。記憶にある《魔王》は、フィッシャー・ディスカウが歌うドイツ語版で、いくつも曲が収録されていたのだが、わたしは《魔王》のところだけ、針を落として聴いていたのだ(のちにレコードに傷をつけた、と母親に怒られた。「聴くのだったら最初から聴きなさい」)

風のゆらす木々のざわめきとも、馬の駆ける音ともつかないピアノの三連符に、フィッシャー・ディスカウの歌が始まる。
最初は語り手の淡々とした歌。
それから、父親の低い声。
魔王の猫なで声。
一人で歌っているとは信じられないような、子供の怯えた声。その「マイ ファーター マイ ファーター」という部分ははっきりと聴き取れて、よく歌った。
いま考えるに、ドイツ語の歌詞で少なくとも「マイ ファーター」ではないはずなのだが。

高い声で怯えたように「マイ ファーター マイ ファーター」と歌っていると、その子の絶望感(当時はまだそういうボキャブラリは持たなかったが)が胸を満たした。
わたしがよく死んだふりをしていたのは、いまでもわたしの実家では語りぐさになっているのだが、もしかしたらこの歌の流れでやっていたのかもしれない。
寝る前にも、ふとんに入っていつも連れ去られた子供のことを考えた。

のちに怖い小説が好きになり、怖いのだけれど、そこから目をそらすことができない、魅入られるような怖さを求めてしきりにそういう本をさがすようになるのだが、そのルーツはおそらくこの曲にあったのだろう。

歌詞がゲーテの詩によるものだとも、シューベルトについてもなにひとつ知らないころだったが、いまでもピアノの三連符を聴くと、ねっとりとしたフィッシャー・ディスカウの魔王の声が耳元に甦ってくる。

(この項つづく)

お泊まりの話

2007-06-13 22:23:44 | weblog
いまの子供はそんなことはしないのだろうか。わたしが幼稚園から小学校の低学年にかけて、友だちの家に何度か泊まりにいったことがある。
大きな家の応接室にはバーカウンターのついていて、不思議な形をした洋酒のびんがずらりと並んで、そこの家の子に順番になめさせてもらったこともあるし、大きなステレオでディズニーのレコードを聴いたこともある。夜の早い家に行ったときは、七時を過ぎるともう部屋の電気を消して寝かされて、もちろんそんな時間に眠れるはずもなく、人の家ということもあって、ほとんど一晩中、暗い天井を眺めていたような気がする。
夏休みに泊まりにいって、翌日、そこの家の子とふたり、お母さんが先生をしている小学校のなにかのイヴェントに連れていってもらったこともあった。

いまでも忘れられないのは、あかねちゃんという子の家に泊まりにいったときのことだ。
そんなに大きな家ではない、平屋の古い家だったのだが、犬が三匹もいて、子犬が家の中を駆け回っていた。あかねちゃんには中学と高校のお姉さんがふたりいて、一家全員がものすごく楽しそうなのだった。
ご飯の時間になると、子供たちがちゃぶ台を拭いたり、皿を並べたり、それぞれに仕事が割り振られている。わたしも一緒に手伝ったのだが、そのあいだも、たえまなく誰かが冗談を言い、誰かが歌手のまねをしてふりつきで歌い、みんなが笑っているのだった。
晩ご飯のあいだもTVを見ながら、お父さん、お母さんを含めた一家全員が笑い転げているのだ(たぶん萩本欽一の番組をやっていたのだと思う)。『若草物語』を現代に置き換えたよう、というかなんというか、ともかく絵に描いたような家族の仲睦まじいさまを見て、わたしは船酔いでもしたような気分だった。
そのころわたしがあかねちゃんと仲が良かったのは、そこの家の雰囲気が大きな理由だったのかもしれない。

こうした経験を通じて、わたしは家庭生活というものは、家によってひどくちがうのだ、ということを実感していった。家に入った瞬間に、その家独特のにおいを感じるように、その家での決まりごとは、それぞれにあった。

大皿に盛った沢庵を、箸をひっくり返して取る、というのも、この「お泊まり」に行った先の家で、そこの家の人がやっているのを見て知ったことだ。わたしの家では大皿にみんなが箸を延ばす、ということはなかったために、回ってきた沢庵をそうやって取るそこの家の人の見よう見まねで、わたしも箸をひっくり返した。

畳の部屋には、かならず新しい靴下に履き替えて入らなければならない家もあった。その理由もよくわからないまま、言われたとおり、翌日の分として持ってきていた靴下にはきかえて、その畳敷きの部屋へ入った。わたしにとって理解できない不思議な「決まり」も、そこの家の子にしてみれば、生まれたときからそう決まっている、当たり前のことなのだ。

そうしてまた、自分の家にいるときには気がつかなかった自分の家のにおいにも気がついた。天井の高い、広い家に泊まりに行って、帰ってきた日曜の朝は、家がことのほか狭く薄暗く感じられ、父親がまだ寝ていたり、弟が作った粘土細工がそこらじゅうにあるのをうっかり踏んでしまって、わあわあ泣きだし、飛んできた母にひどく叱られたりしたときには、ここへ帰らなければならなかった自分の運命を呪いたくもなったものだ。

もちろんわたしの家にお泊まりに来ることもあった。
だが、そういうときは食事はふだんより二割ほど良くなったし、友だちから「優しそうなお母さんね」と言われ、内心どこが? と思いながらも、やはりうれしかったのだ。

そこにいつもあるものを気がつくためには、いったん外に出て、外の目が必要だということを、わたしはこうやって知ったのだった。

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昨日サイトにアップしたんですがうまく反映できなくて、今日になってしまいました。
ヘミングウェイ「白い象のような山並み」サイト更新しました。

http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

アーネスト・ヘミングウェイ「白い象のような山並み」後編

2007-06-10 21:49:40 | 翻訳
(後編)


「そうするのがいちばんいいんじゃないか。でも、きみがほんとうはそうしたくないんなら、やってほしくない」

「もしわたしがそれをやったらあなたは幸せになるし、なにもかも前みたいになるし、そうしてわたしのことは、好きでいてくれる?」

「いまだって好きさ。君だってぼくが君のことを好きなのはわかってるだろ?」

「わかってるわ。だけど、それをしたら、また前みたいにいい感じでいられて、もしわたしが何かを白い象みたいだ、って言っても、気に入ってくれる?」

「気に入るさ。いまだって大好きだけど、そういうことを考える気分じゃないんだよ。心配になってくるとおれがどういうふうになるか、知ってるだろう」

「わたしがそれをしたら、あなたはもう心配じゃなくなる?」

「そのことなら心配してない。おっそろしく簡単なことなんだから」

「じゃ、することにした。わたしがどうなったっていいんだもの」

「どういうことだい?」

「自分のことなんて気にしてないの」

「ぼくは気にしてる」

「あら、そうよね。だけど、わたしは自分がどうなったって気にしやしない。だからすることにしたし、そしたら何もかもうまくいくんですものね」

「そんなふうに思ってるんだったら、やる必要はない」

 娘は立ち上がると、駅の端まで歩いていった。駅の向こうは麦畑が広がり、エブロ川の土手には木立が続く。川を越え、はるか彼方には山並みがあった。雲の影が麦畑を横切り、娘は木の間から川を眺めた。

「わたしたち、これを全部自分のものにできるのに。全部わたしたちのものにすることだってできるのに、わたしたちときたら、毎日毎日手の届かないものにしてしまってるのね」

「なんだって?」

「なにもかも、わたしたちのものにできるのに、って言ったの」

「なんでもおれたちのものにできるよ」

「そんなことむりよ」

「世界全部をおれたちのものにすることだってできるさ」

「いいえ、できない」

「どこにだって行ける」

「行けないわ。もうわたしたちのものじゃないもの」

「おれたちのものさ」

「そんなことない。一度、手放してしまったら、もう二度と取りもどすことはできないのよ」

「まだ手放してしまったわけじゃない」

「成り行きを見守るしかないのね」

「日陰に戻って来いよ」男が言った。「そんなふうに思っちゃいけない」

「どんなふうにも思ってなんかないわ」娘が言った。「ただ、いろんなことがわかってるだけ」

「君がいやならやってほしくないんだ……」

「わたしのためにならないこともね?」娘は言った。「わかってるわ。ビール、もう一杯飲まない?」

「よし。だけど君はわきまえておかなきゃ……」

「わきまえてるわよ」娘は言った。「もう話はやめましょう」

 ふたりはすわってテーブルにつき、娘は谷の乾いた側の向こうに広がる山並みに目を遣り、男は娘を見、それからテーブルに目を落とした。

「わかってくれなくちゃ」彼は言った。「君がいやなら、おれはやらないでほしいんだ。それが君にとって大切なことなら、どんなに大変だろうがよろこんでやり抜くつもりだ」

「あなたにとっても大切なことじゃない? わたしたち、何とかやっていけるかもしれない」

「もちろん、おれにとっても大切だ。だが、君さえいてくれたらいいんだ。ほかにはいらないんだ。それに、まったく簡単なことだっていうこともわかってる」

「そうね。あなたはまったく簡単なことだってわかってるのね」

「なんと言われようと、わかっていることには変わりない」

「あのね、お願いがあるの」

「君のためなら、何だってするさ」

「お願いよ、お願い、お願い、お願いお願いお願いお願い。しゃべるのをやめて」

 彼は口を閉じ、駅の壁ぎわに並べたカバンを見た。カバンにはいくつもステッカーが貼ってあったが、それはどれもふたりがいくつもの夜を過ごしたホテルのものだった。

「やっぱり君にはそんなことはさせられない」彼は言った。「そんなこと、もういいんだ」

「わめくわよ」娘が言った。

 女がすだれをくぐって出てくると、ビールの入ったグラスを水を吸ったフェルトのコースターの上に、それぞれのせた。「あと五分で汽車が来ますよ」と女が言った。

「このひと、なんて言ってるの」娘が尋ねた。

「あと五分で汽車が来るってさ」

 娘は晴れ晴れとした笑顔で、女に向かって、ありがとう、と言った。

「反対側のホームにカバンを運んだほうがいいな」男が言い、娘はにっこりと笑いかけた。

「わかったわ。そのあとでこっちに戻って、ビールを飲んじゃいましょう」

 男は重たいカバンを両手にさげ、駅をまわって線路の反対側へ運んだ。線路を見渡しても、電車の姿はない。戻るとき、酒場のなかを抜けていったが、汽車を待つ人々が酒を飲んでいた。男はそこでアニスを一杯飲み、人々を眺めた。みんな静かに汽車を待っている。彼はすだれをくぐって外へ出た。娘はテーブルの席に腰かけたまま、彼に笑いかけた。

「気分は良くなった?」

「大丈夫よ」娘は答えた。「気分なんてちっとも悪くない。わたしは大丈夫よ」


The End

アーネスト・ヘミングウェイ「白い象のような山並み」前編

2007-06-09 21:21:09 | 翻訳
今日から二回に分けてアーネスト・ヘミングウェイの「白い象のような山並み」( Hills Like White Elephants )を訳していきます。
原文は
http://web.ics.purdue.edu/~conreys/101files/Otherfolders/Hillslikewhitepg.html
で読むことができます。

今日はその前編。
すごく短いので、明日まとめて読みに来てください(笑)。


* * *

「白い象のような山並み」( Hills Like White Elephants )

 By Ernest Hemingway


 エブロ峡谷の向こうに続く山並みは白かった。こちら側は陰もなく、木々もなく、二本の線路に挟まれた駅が日にさらされていた。駅の横手に、建物とすだれの濃い影が伸びている。このすだれは竹でできた玉を連ねたもので、酒場の開け放した戸口に、蠅よけのためにぶらさがっていた。アメリカ人と連れの娘が、建物の外、日陰になったテーブルにいた。ひどく暑い日で、バルセロナ発の急行が到着するまで四十分ほどあった。急行はこの乗換駅で二分停車し、マドリードに向けて発つ。

「わたしたち、何を飲むの?」娘が聞いた。帽子を脱いでテーブルに置いた。

「ひどい暑さだな」男は言った。

「ビールにしない?」

" Dos cervezas.(ドス セルヴェッサス=ビール二本)"男はすだれの奧に向かって言った。

「大きい方で?」戸口の奧から女の声がした。

「そうだ、大きい方だ」

 女がビールを入れたグラスふたつとフェルトのコースターを二枚持ってきた。テーブルの上にコースターを敷き、グラスをのせると、男と娘を見た。娘は目をそらして山並みの方を見やった。山並みは日差しを浴びて白く、地上は褐色で乾いていた。

「山が白い象みたい」娘が言った。

「白い象なんて見たことがないな」男はビールを飲んだ。

「そうね、なかったと思うわ」

「いや、見たことがあるかもしれないぞ。君がいくらそう言っても何の証明にもならない」

 娘はすだれを見た。「何か書いてある。なんて書いてあるの?」

「アニス・デル・トロ。酒だ」

「飲んでみない?」

男は「すまない」とすだれの奧に向かって声をかけた。女がバーから出てきた。

「四レアルになります」

「いや。アニス・デル・トロを二杯頼むよ」

「水割りで?」

「水割りにする?」

「わからないわ」娘が言った。「水割りのほうがおいしいの?」

「なかなかいけるよ」

「じゃ、水割りにしていいんですね?」女が聞いた。

「よし、割ってくれ」

「リコリスみたいな味がするわ」娘はそう言うとグラスを置いた。

「まあなんだってそうしたもんさ」

「そうね。何もかもリコリスの味がするわね。とくにあなたがずっとほしがってたものはどれも。アブサンみたいに」

「よせよ」

「あなたが言い出したのよ。せっかくいい気分だったのに。楽しかったのに」

「わかった。じゃ、もう一回、楽しくやろう」

「ええ、いいわ。わたしだってそうしようとしてたんだもの。さっき山並みが白い象みたい、って言ったでしょ。悪くない言い方だと思わない?」

「ああ、悪くない」

「この初めてのお酒も試してみた。わたしたちがしてることってそれだけなんですもの――いろんなものを見て、飲んだことのないお酒を飲んで」

「そうかもしれない」

 娘は遠い山並みを見た。

「きれいねえ」娘が言った。「ほんとは白い象みたいには見えないわよね。木立ち越しに見た白い象の肌みたい、って言いたかったの」

「もう一杯、どう?」

「ええ、そうしましょう」

 生暖かな風が吹きつけ、すだれがテーブルをかすめた。

「このビールはうまいしよく冷えてる」男は言った。

「そうね、おいしい」娘は言った。

「ほんとに、ひどくあっけない手術なんだよ、ジグ」男が言った。「手術とさえ言えないぐらいのものだ」

 娘は地面に目を落として、テーブルの脚を見ていた。

「君だって、気にしてるわけじゃないだろ、ジグ。なんでもないことなんだよ。ちょっと空気を入れるだけさ」

 娘は何も言わなかった。

「一緒に行って、ずっとそばについててやるよ。ちょっと空気を入れて、それでなにもかも完全にもとどおりさ」

「それでどうなるの、わたしたち」

「これからずっとうまくいくさ。前みたいに」

「なんでそんなふうに思えるの?」

「だってほかには何も問題はないだろう? おれたちが困ったことになってるのは、たったひとつ、そのせいなんだから」

 娘はすだれに目を遣ると、手を伸ばして、そのうちの二本を手に取った。

「で、あなたはわたしたちがこれからも大丈夫で、幸せになれるって思ってるのね」

「わかってるんだよ、幸せになれるって。心配することは何もない。それをやった人はたくさん知ってるんだ」

「わたしだって知ってるわ」娘が言った。「それに、そのあとはみんなとっても幸せになった」

「まあ」男が言った。「いやだったら無理をすることはないんだ。君が望んでもないのにそうしろって言ってるわけじゃない。だけど、ごく簡単なことなんだ」

「で、あなたはそうしてほしいのよね?」

(以下後半へ)


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「ディル・ピクルス」更新記録と一緒にサイトにアップしています。
いまライブドアのほうが重いので、サーバーのほうに確認をお願いしているのですが、ミラーのほうが見やすいかもしれません。
またお暇なときにでものぞいてみてください。
http://www.freewebs.com/walkinon/

半分、更新できました

2007-06-08 22:27:54 | weblog
このあいだまでここで連載していたキャサリン・マンスフィールドの短編「ディル・ピクルス」サイトにアップしました。

だけど、更新記録が書けません。
書いても書いても着地できないので、今日は寝ます。明日の朝にはきっと更新できてると思います。

すぐ読みたい方は、「latest issue」のところか、翻訳のところから入ってください。
もう頭がはたらかない。

ということで、それじゃまた。