陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

この話、したっけ~あのときわたしが聞いた歌 その3.

2007-06-16 22:50:55 | weblog
3.笛吹く子供とスカボロー・フェア

小学校は三分の二ほどが付属の幼稚園から上がり、三分の一ほどが外部から来ていた。すでに顔見知りのなかに入っていく、さまざまなところから来て、知り合いもいない女の子たちは、いくら小学生になったばかりの小さな子供たちとはいえ、それなりにプレッシャーがあったのだろう。

何がきっかけかよく覚えていないが、入学したばかりのころ、わたしは同じ幼稚園から上がり、家も近所だったエリちゃんと、外部組のマキちゃんという子の三人でいることが多かった。
あるときマキちゃんが、エリちゃんがわたしの母のことをゴリラに似てるって言っていた、と教えてくれた。おそらくわたしは家に帰って憤慨して母にそのことを告げたのだと思う。
すると母は、「マキちゃんはお母さんのこと、何に似てるって言ってた?」と聞いた。
家に何度も遊びに来ていたエリちゃんが、いきなりそんなことを言い出すはずもない、と大人の母にはすぐにわかったのだろうが、わたしには母の真意がわかるまで、それからしばらくかかったように思う。そうして、気がついたときにはひどく驚いてしまった。

それまでわたしだって嘘は何度もついてきたが、それもみな、どうして窓ガラスにクレヨンで落書きなんかするの、と怒られて「やってないもん」と言い張ったり、幼稚園でお弁当がどうしても全部食べられなくて、お腹が痛い、と言ったり、見えない友だちをいかにもいるように話したりするような嘘に限られていた。そうではなく、何かの目的があって、それを達成するための嘘というものがあることはわたしの想像だに知らないことがらだったのだった。

ひとたび気がついてみれば、三人で遊んでいるときはそんなそぶりさえ見せないのに、エリちゃんの姿がなくなれば、マキちゃんは、エリちゃんがああ言った、こう言っていた、とそういうことばかり言い出す。結局わたしはどうしたのか、それから私たち三人がどうなったのか、まったく記憶にはないのだが、そうした面での成熟度は、ずいぶん個人差があったのだろう。

ところが小学校も四年ともなると、多くの女の子たちが一年のときのマキちゃんのようなことを日常的にするようになっていた。

わたしが三年のとき、バザーで「スカイ・ハイ」のレコードを買った先生は、まだ大学を卒業してさほど経っていない二十代の男の先生だった。そうして、四年になってその先生がわたしたちの担任になった。

ことあるごとに、誰それが贔屓されている、と言いだす子たちが出てきたのは、おそらくその先生が担任でなくても起こったことなのかもしれない。そういう成長段階ということもあったのだろうが、やはり若い男の先生ということも無関係ではなかったのだろう。
何人か集まれば、誰があんなことを言った、誰がこんなことを言った、ということばかりになり、誰それとは話しちゃダメ、先生に贔屓されてるんだから、と袖を引かれ、いつのまにか毎日はデリケートな外交折衝を要求される国連大使のようになっていた。

実際に何かが起こったのかどうなのか、わたしはほとんど記憶にない。とにかくそういう話がいやで、休憩時間はいつも図書館にいたような気がする。
ともかく、担任の言うことをまったく聞かない子が出てきたり、途中で帰ったりする子が出てきて、やがて教室に教頭先生やシスターが常駐するようになった。いまでいうところの一種の学級崩壊だったのだろうと思う。

例年、二学期の終わりに音楽会があった。
各クラス、それぞれに出し物を準備して、全校生徒の前で演奏するのである。
いま考えると、なんとかそれをきっかけに、クラスをもう一度まとめようと先生は考えていたのだろう。その年は、いつもより早くから準備が始まった。
リコーダーの合奏で、《スカボロー・フェア》をやるのだ。

教室でサイモンとガーファンクルの曲を聴いたときの不思議な感じはいまでも覚えている。
黒板に先生が歌詞を書いてくれていた。それを見ながら、パセリ・セージ・ローズマリー、アンドタイム、というところだけ聴き取れて、静かな、不思議な旋律を聴いているうちに、あたりが萌葱色の靄がおりてきたように思った。
譜面をもらって、毎日家で吹いていた。頭の中でサイモンとガーファンクルのコーラスを
鳴らしながら、それに合わせるようにして、自分のリコーダーから萌葱色の靄が出てこないか、と思った。

合奏の練習が始まると、担任の先生はコントラバスを伴奏で弾くのだった。
初めて見る楽器はめずらしく、その低いボン・ボンという音もうれしくて、練習が楽しくてたまらなくなった。最初のうちはどうしても中に入らない子もいたのだが、次第に戻ってきて、最後の頃は二部合奏もずいぶん上達したように思う。

それだけ練習したのに、わたしは音楽会の当日、扁桃炎で四十度を超える熱を出し、出ることはできなくなったのだった。
その日、11月の午前中の白い日差しが入ってくる自分の部屋で寝ながら、わたしは耳の中でリコーダーとコントラバスの合奏する《スカボロー・フェア》を聴いていた。部屋に萌葱色のもやがおりてきたようだった。

(この項つづく)