最近、近所づきあいの一環で、生協に入ってしまった。
なにしろ近所に「生協命」のおばちゃんがいらっしゃるのである。
戸別訪問の襲来を受けて、撃退すること三度、四度目に弱みを握られ(その中身はヒミツ)、ついに陥落してしまったのだ。
以前にも銭湯は環境破壊かで書いたことがあるけれど、わたしはこれまで「有機野菜」というものをわざわざ選んで買うということもなかった。
どこまで「有機野菜」「減農薬野菜」というのが根拠があるものなのか、という疑いをずっと持っていたし、なんというか、「ちょっと値段が高いものを選ぶ」というセンスが何となくイヤ、というのもあったのだ。
ところがおばちゃんのオルグに陥落して、いまではれっきとした生協の組合員である。
いざ入ってみると、これがなかなかすごい。
チラシ、というか、タブロイド判の新聞みたいなチラシを見て、注文票に記入する。この注文票というのが、昔懐かしいマークシートなのである。
昔もこうやって枠内をぐるぐると塗りつぶしたなあと思いながらだいたい市価より高いので、気を許してあれも買おう、これも良さそうだなどとチェックしていくと、おおっとぉ、という値段になってしまって、あわてて消しゴムで消したりする。
そうしてキャベツや白菜を頼んだりすると、葉っぱの間に蛾がぺたんこになって潰されているわ、アオムシはバラバラ落ちてくるわ、このあいだはナメクジを三十年ぶりぐらいに見た。
もはや干からびている蛾や羽虫ならいいのだが、生きてもぞもぞと動いているアオムシや葉についたタマゴをどうするか。これは悩むところなのである。たいていは集めて外葉にくるんで、ポリ袋に入れて捨てる。また殺生をしてしまったなあ、と一瞬思うのだが、しかたない。一匹や二匹のアオムシではないのである。こんなにたくさん飼ってやるわけにもいかないし、公園に放してやる、というわけにもいくまい。
生協のチラシで卵のところを見ると「有精卵」と書いてある。有精卵、ということは、温めてやれば孵るということだ。一パック十個、十羽のニワトリになるかもしれない卵を、冷蔵庫に保存して、つぎからつぎへと食べていく。
こうした野菜にしても、卵にしても、届くたびに実感するのは、食べるということは、命を食べているのだな、ということだ。あるいは、食べるものを守るために、ほかの命を殺している、ということだ。
スーパーに並んでいるぴっちりとラップされたキャベツや、ニワトリには決してならない卵、あるいは、原型をうかがわせないパック詰めされた魚の切り身やスライスされた肉は、他の生き物を殺してそれをわたしたちが食べていることを見えなくするためのあれやこれやの工夫でもある。
減農薬やらなんやらという付加価値のついた、いささか高い生協の商品は、スーパーが隠そうとしていた「命を食べている」ということを剥きだしにしてみせる。付加価値は「安全」ということだが、虫にとっては農薬を使用されることとまったく同じ結果をもたらす。ちがうのはたったひとつ。消費者であるわたしが手を下しているということだ。
「アオムシが喜んで食べるくらい、おいしいっていうことよ」とそのおばちゃんは力説するのだが、近所の別の人は、野菜だけは怖くって買えない、と言っていた。わたしは虫は平気なのだが、それでもやはりこまったなあ、と思う。この「こまったなあ」も含めての付加価値なんだろうか、と思ったりもするのだ。
ともかく、今度そのおばちゃんに会ったら聞いてみよう。「アオムシも喜ぶ生協のキャベツについてるアオムシ、どうしてらっしゃるんですか?」
なにしろ近所に「生協命」のおばちゃんがいらっしゃるのである。
戸別訪問の襲来を受けて、撃退すること三度、四度目に弱みを握られ(その中身はヒミツ)、ついに陥落してしまったのだ。
以前にも銭湯は環境破壊かで書いたことがあるけれど、わたしはこれまで「有機野菜」というものをわざわざ選んで買うということもなかった。
どこまで「有機野菜」「減農薬野菜」というのが根拠があるものなのか、という疑いをずっと持っていたし、なんというか、「ちょっと値段が高いものを選ぶ」というセンスが何となくイヤ、というのもあったのだ。
ところがおばちゃんのオルグに陥落して、いまではれっきとした生協の組合員である。
いざ入ってみると、これがなかなかすごい。
チラシ、というか、タブロイド判の新聞みたいなチラシを見て、注文票に記入する。この注文票というのが、昔懐かしいマークシートなのである。
昔もこうやって枠内をぐるぐると塗りつぶしたなあと思いながらだいたい市価より高いので、気を許してあれも買おう、これも良さそうだなどとチェックしていくと、おおっとぉ、という値段になってしまって、あわてて消しゴムで消したりする。
そうしてキャベツや白菜を頼んだりすると、葉っぱの間に蛾がぺたんこになって潰されているわ、アオムシはバラバラ落ちてくるわ、このあいだはナメクジを三十年ぶりぐらいに見た。
もはや干からびている蛾や羽虫ならいいのだが、生きてもぞもぞと動いているアオムシや葉についたタマゴをどうするか。これは悩むところなのである。たいていは集めて外葉にくるんで、ポリ袋に入れて捨てる。また殺生をしてしまったなあ、と一瞬思うのだが、しかたない。一匹や二匹のアオムシではないのである。こんなにたくさん飼ってやるわけにもいかないし、公園に放してやる、というわけにもいくまい。
生協のチラシで卵のところを見ると「有精卵」と書いてある。有精卵、ということは、温めてやれば孵るということだ。一パック十個、十羽のニワトリになるかもしれない卵を、冷蔵庫に保存して、つぎからつぎへと食べていく。
こうした野菜にしても、卵にしても、届くたびに実感するのは、食べるということは、命を食べているのだな、ということだ。あるいは、食べるものを守るために、ほかの命を殺している、ということだ。
スーパーに並んでいるぴっちりとラップされたキャベツや、ニワトリには決してならない卵、あるいは、原型をうかがわせないパック詰めされた魚の切り身やスライスされた肉は、他の生き物を殺してそれをわたしたちが食べていることを見えなくするためのあれやこれやの工夫でもある。
減農薬やらなんやらという付加価値のついた、いささか高い生協の商品は、スーパーが隠そうとしていた「命を食べている」ということを剥きだしにしてみせる。付加価値は「安全」ということだが、虫にとっては農薬を使用されることとまったく同じ結果をもたらす。ちがうのはたったひとつ。消費者であるわたしが手を下しているということだ。
「アオムシが喜んで食べるくらい、おいしいっていうことよ」とそのおばちゃんは力説するのだが、近所の別の人は、野菜だけは怖くって買えない、と言っていた。わたしは虫は平気なのだが、それでもやはりこまったなあ、と思う。この「こまったなあ」も含めての付加価値なんだろうか、と思ったりもするのだ。
ともかく、今度そのおばちゃんに会ったら聞いてみよう。「アオムシも喜ぶ生協のキャベツについてるアオムシ、どうしてらっしゃるんですか?」