2.真似される恐怖
誰かが自分の真似を始めたとする。
英語のことわざに
"Imitation is the most serious form of flattery."
(模倣はこれ以上はないほどのおべっかである)
というのがあるが、最初、そうではないか、と思ったときに、まず感じるのは一種の優越感だろう。
「自分が模倣される」というのは、悪い気分ではない。
だが、その優越感は長くは続かない。すぐに不快感に取ってかわられ、やがて怒りを引き起こす。その怒りの正体は何なのだろう。
ここではその極端なケースを見てみよう。
「ルームメイト」というタイトルで映画にもなった原作『同居人求む』から。
主人公のアリはニューヨークで生活する若い女性。それまで同棲していた恋人サムと仲違いしたために、アパートに一人暮らしすることになった。ところが家賃は高い。そこで新聞に広告を出す。「SWF(独身・白人・女性)のルームメイト募集」。
そこへ応じてきたのがヒルダ。おとなしそうな女性だったので、アリはヒルダに決める。
内気で物静かなヒルダは、理想的なルームメイトのはずだった。
ある日急な用事でアパートに戻ったアリは、彼女が自分の服を着て、自分の靴をはいた姿で鏡にみとれているところに行きあわせる。
最初は腹を立てたアリも、泣きながら謝るヒルダの姿に憐憫をかきたてられ、その場は許してしまう。
ところが後日、ヒルダが外出しているときに、見あたらないスリッパをさがしていたアリは、ヒルダのクロゼットに、自分のとそっくりな服やアクセサリばかりがしまわれているのに気がつく。しかも自分と同じヘアスタイルのかつらまで。
アリはサムの詫びを受け入れ、ふたたび同棲生活を始めようとする。ヒルダには出ていってもらうことにしたのである。
ところが仕事から帰ってみると、自分そっくりのかつらをつけたヒルダが、サムと一緒にベッドにいた。
わたしたちはふだん、自分は確かな存在であると考えている。世界で唯一の、取り替えのきかない存在であると。
ただ、それを証明してくれるのはなんだろう?
それは、他人が自分を自分であると認めてくれるからではないか。
それまでアリの周囲の人々は「アリ」を「アリ」であると認めてくれていた。アリ自身もそのことを当たり前として何の疑問ももっていなかった。ところがヒルダがアリそっくりの格好をし始めた。周囲はアリの格好をしたヒルダは「アリ」として生き始めた。そこで「アリはうつろな人生の住人、自分の人生に住む影のような間借人となった。」、つまり、アイデンティティを失ったのである。
これはもちろん極端な例である。
それでも、わたしたちは誰かが自分の真似をしている、と思うとき、多少、優越感を覚えることがあっても、不快感はそれを上回る。それは、真似されることでアイデンティティを脅かされたように感じるからなのだ。
(この項つづく)
誰かが自分の真似を始めたとする。
英語のことわざに
"Imitation is the most serious form of flattery."
(模倣はこれ以上はないほどのおべっかである)
というのがあるが、最初、そうではないか、と思ったときに、まず感じるのは一種の優越感だろう。
「自分が模倣される」というのは、悪い気分ではない。
だが、その優越感は長くは続かない。すぐに不快感に取ってかわられ、やがて怒りを引き起こす。その怒りの正体は何なのだろう。
ここではその極端なケースを見てみよう。
「ルームメイト」というタイトルで映画にもなった原作『同居人求む』から。
主人公のアリはニューヨークで生活する若い女性。それまで同棲していた恋人サムと仲違いしたために、アパートに一人暮らしすることになった。ところが家賃は高い。そこで新聞に広告を出す。「SWF(独身・白人・女性)のルームメイト募集」。
そこへ応じてきたのがヒルダ。おとなしそうな女性だったので、アリはヒルダに決める。
内気で物静かなヒルダは、理想的なルームメイトのはずだった。
ある日急な用事でアパートに戻ったアリは、彼女が自分の服を着て、自分の靴をはいた姿で鏡にみとれているところに行きあわせる。
最初は腹を立てたアリも、泣きながら謝るヒルダの姿に憐憫をかきたてられ、その場は許してしまう。
ところが後日、ヒルダが外出しているときに、見あたらないスリッパをさがしていたアリは、ヒルダのクロゼットに、自分のとそっくりな服やアクセサリばかりがしまわれているのに気がつく。しかも自分と同じヘアスタイルのかつらまで。
アリはサムの詫びを受け入れ、ふたたび同棲生活を始めようとする。ヒルダには出ていってもらうことにしたのである。
ところが仕事から帰ってみると、自分そっくりのかつらをつけたヒルダが、サムと一緒にベッドにいた。
ヒドラの狙いは何だろう? なぜ文字どおりアリの人生を乗っ取って、アリの人格を奪い、もう一人のアリになってしまったのか? ヒドラはアリのアパートメントに住んでいた。そっくりの洋服を着て、そっくりのアクセサリーと香水をつけた。ときにはアリの服と装身具を身に着けた。アリの名前を使った。仕草やしゃべり方すらも真似た。サムと寝た。
アリを羨んだ。
自分というものがなかった。……
ヒドラの内心の炎と嫉妬の激しさを見誤っていた。今となっては、ヒドラがなぜサムを何が何でも奪いたかったか、なぜアリに情事をみせびらかしたかったか、明白である。ついにヒドラがアリに取って代わったこと、アリはもはや確固とした現実の存在ではないことを思い知らせようとしていると言っていい。アリはうつろな人生の住人、自分の人生に住む影のような間借人となった。
たまらないのはアリ自身がそう感じていることだ。(ジョン・ラッツ『同居人求む』延原泰子訳 ハヤカワ書房)
わたしたちはふだん、自分は確かな存在であると考えている。世界で唯一の、取り替えのきかない存在であると。
ただ、それを証明してくれるのはなんだろう?
それは、他人が自分を自分であると認めてくれるからではないか。
それまでアリの周囲の人々は「アリ」を「アリ」であると認めてくれていた。アリ自身もそのことを当たり前として何の疑問ももっていなかった。ところがヒルダがアリそっくりの格好をし始めた。周囲はアリの格好をしたヒルダは「アリ」として生き始めた。そこで「アリはうつろな人生の住人、自分の人生に住む影のような間借人となった。」、つまり、アイデンティティを失ったのである。
これはもちろん極端な例である。
それでも、わたしたちは誰かが自分の真似をしている、と思うとき、多少、優越感を覚えることがあっても、不快感はそれを上回る。それは、真似されることでアイデンティティを脅かされたように感じるからなのだ。
(この項つづく)
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