以前、翻訳小説を読んでいて「まるで白い象のように神秘的な存在であった」と訳してあって、思わず笑ってしまったことがある。
原文を読んでいなくても見当はつく。
"It was a white elephant." とあったにちがいないのだ。
"white elephant" というのは、もちろんそのまま訳せば「白い象」にはちがいないのだが、イディオムで、「無用の長物」ぐらいの意味なのである。神秘的とはなんら関係がない。翻訳者はこのイディオムを知らず、辞書も引かず、唐突に出てくる「白い象」をいったい何のメタファーだろうと考えて「神秘的な存在」なるものをひねりだしたのだろう。
ランダムハウス英和大辞典を見てみると、こんな愉快なエピソードが載っている。
「嫌いな家臣に贈って破産させた」というのもひどい話だが、鴎外の『阿部一族』の例にもあるように、やはり王様、殿様という地位の人間でも、相性の合う、合わないはあったのだろうし、合わないからといって、勝手に排斥するわけにはいかなかったらしい。実際それをしてしまうと政治というのは成り立たなくなってしまうことは、シュテファン・ツヴァイク描くところのメアリ・スチュワートなどを初めとして、古今を通じて歴史が証明している。
そこで、白い象を贈る、というのは、なかなか洗練された(?)嫌がらせである。
ただ、神聖視された存在を嫌がらせの手段としてほんとうに利用したのだろうか。そこはちょっと疑問だ。
アンソニー・マーカタンテの『空想動物園 神話・伝説・寓話の中の動物たち』(中村保男訳 法政大学出版局)には象がインド人の生活にとって、大きな比重を占めていたこと、戦闘の際には、一種の砦として、象に乗った指揮官が戦闘の情況を俯瞰していた、とある。そこから象を所有できるのは王族に限られていたらしい。
となると、象を贈られた家臣は、王族の末端に加えられたとみなされたことになる。確かにそれなら、何をおいても面倒を見てやらなければなるまい。だが、こんなエピソードもある。
一頭の象はお釈迦さんも追放してしまうのである。こんなに大切な象を家臣に、しかもどう考えても信頼を寄せているのとはほど遠い家臣にやるものだろうか。
やはりヨーロッパに伝わるうちに、少しずつ変わっていったのかもしれない。
『プルターク英雄伝』で名高いプルタークも、象のことにふれている。同じくマーカタンテから。
象というとわたしが思いだすのは、井の頭公園のなかにある動物園の象のはな子さんである。わたしが子供のころ、すでにおばあさんだと聞いたような記憶があるのだが、まだ元気でいるらしい。
少し奥まったところにある象舎の前で、はな子さんはいつ見ても片脚をあげておろして、あげておろして、という動作を繰りかえしていたのだった。まわりのだれとも視線を合わせないように目を伏せて、リズミカルな動作だったが、愉快、というより、ひどく機械的で、心ここにあらず、ゼンマイ仕掛けかなにかで動いているような感じだった。
何を考えているのだろう、と思ったものだ。はな子さんも楽しかったりするのだろうか、と。
さて、最後にわたしの好きな象のジョークをひとつ。
原文はhttp://www.serve.com/cmtan/buddhism/Lighter/shortstories.htmlにあります。
六頭の賢明な盲目の象たちが、人間とはいかなるものであるか、と議論を重ねていた。
だが、意見は一致することなく、象たちは直接経験によって人間を判断することに決めたのである。
最初の賢明な盲目の象が人間に触れた。そうして「人間とは平らな存在である」と結論に至った。ほかの知恵深い盲目の象たちも、つぎつぎと同様の感触を得た結果、象たちは合意に至ったのである。
「鶏的思考的日常 ver.13」アップしました。
かなり手を入れたので、ブログ掲載時とずいぶんちがっているログもたくさんあります。
またお暇なときにでものぞいてみてください。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html
原文を読んでいなくても見当はつく。
"It was a white elephant." とあったにちがいないのだ。
"white elephant" というのは、もちろんそのまま訳せば「白い象」にはちがいないのだが、イディオムで、「無用の長物」ぐらいの意味なのである。神秘的とはなんら関係がない。翻訳者はこのイディオムを知らず、辞書も引かず、唐突に出てくる「白い象」をいったい何のメタファーだろうと考えて「神秘的な存在」なるものをひねりだしたのだろう。
ランダムハウス英和大辞典を見てみると、こんな愉快なエピソードが載っている。
【 white elephant】
1.白象:…インド、タイなどで神聖視され、その飼育には非常に金がかかったので、昔シャムの国王が嫌いな家臣にこれを贈って破産させたという。
2.不必要だがさりとて処分しにくい所有物、始末に困るもの、持て余しもの。
3.その効用(価値)に比して途方もない出費を必要とする所有物、厄介物。
「嫌いな家臣に贈って破産させた」というのもひどい話だが、鴎外の『阿部一族』の例にもあるように、やはり王様、殿様という地位の人間でも、相性の合う、合わないはあったのだろうし、合わないからといって、勝手に排斥するわけにはいかなかったらしい。実際それをしてしまうと政治というのは成り立たなくなってしまうことは、シュテファン・ツヴァイク描くところのメアリ・スチュワートなどを初めとして、古今を通じて歴史が証明している。
そこで、白い象を贈る、というのは、なかなか洗練された(?)嫌がらせである。
ただ、神聖視された存在を嫌がらせの手段としてほんとうに利用したのだろうか。そこはちょっと疑問だ。
アンソニー・マーカタンテの『空想動物園 神話・伝説・寓話の中の動物たち』(中村保男訳 法政大学出版局)には象がインド人の生活にとって、大きな比重を占めていたこと、戦闘の際には、一種の砦として、象に乗った指揮官が戦闘の情況を俯瞰していた、とある。そこから象を所有できるのは王族に限られていたらしい。
となると、象を贈られた家臣は、王族の末端に加えられたとみなされたことになる。確かにそれなら、何をおいても面倒を見てやらなければなるまい。だが、こんなエピソードもある。
インド人にとってこれ(※戦闘に象を利用すること)よりもなお大切なのは、雨を呼ぶものとしての象の役割だった。特に白象が大事にされたのは、白象の天界の親類である雲を呼びよせることができたからである。雲は雨を運んでくる天の象なのだ。統治者が白象を処分でもしようものなら、その人民は裏切られたような気持ちになったものだ。『仏陀の前生物語』の一話の中に、仏陀が父王の持っていた白象を旱魃と飢饉に苦しむ近くの国にやってしまったという話が出てくる。この国王の臣民たちは仏陀に裏切られたと感じて、仏陀を国外に追放してしまったのである。
一頭の象はお釈迦さんも追放してしまうのである。こんなに大切な象を家臣に、しかもどう考えても信頼を寄せているのとはほど遠い家臣にやるものだろうか。
やはりヨーロッパに伝わるうちに、少しずつ変わっていったのかもしれない。
『プルターク英雄伝』で名高いプルタークも、象のことにふれている。同じくマーカタンテから。
プルタークは、自著の短い動物論の中で、象は優しく親切で、愛情深く、忠実で、利口であると褒めている。そして、球か何かの上にのって身体のバランスをとるという難しい芸を仕込まれていたある象の話をしている。その象は、兄弟たちの芸がどんどん上達してゆくのに、どうしてもそれについてゆくのが難しかったのだけれど、ある夜、月の光を頼りに全く“一人で”稽古している姿が見られたという。まるでこれは『ダンボ』ではないか! ダンボはひとりきりではなく、ネズミのティモシーが練習につきあってくれるのだが。というか、おそらくは『ダンボ』のほうが逆に、このエピソードを踏まえているのだろう。
象というとわたしが思いだすのは、井の頭公園のなかにある動物園の象のはな子さんである。わたしが子供のころ、すでにおばあさんだと聞いたような記憶があるのだが、まだ元気でいるらしい。
少し奥まったところにある象舎の前で、はな子さんはいつ見ても片脚をあげておろして、あげておろして、という動作を繰りかえしていたのだった。まわりのだれとも視線を合わせないように目を伏せて、リズミカルな動作だったが、愉快、というより、ひどく機械的で、心ここにあらず、ゼンマイ仕掛けかなにかで動いているような感じだった。
何を考えているのだろう、と思ったものだ。はな子さんも楽しかったりするのだろうか、と。
さて、最後にわたしの好きな象のジョークをひとつ。
原文はhttp://www.serve.com/cmtan/buddhism/Lighter/shortstories.htmlにあります。
六頭の賢明な盲目の象たちが、人間とはいかなるものであるか、と議論を重ねていた。
だが、意見は一致することなく、象たちは直接経験によって人間を判断することに決めたのである。
最初の賢明な盲目の象が人間に触れた。そうして「人間とは平らな存在である」と結論に至った。ほかの知恵深い盲目の象たちも、つぎつぎと同様の感触を得た結果、象たちは合意に至ったのである。
「鶏的思考的日常 ver.13」アップしました。
かなり手を入れたので、ブログ掲載時とずいぶんちがっているログもたくさんあります。
またお暇なときにでものぞいてみてください。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html