陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

キャサリン・マンスフィールド「ディル・ピクルス」 その2.

2007-06-02 22:30:09 | 翻訳
その2.

「いよいよ寒くなってくるのよ」彼はオウム返しにそう言うと、笑い声まで真似をした。「おやおや、相変わらず君は同じことを言ってるんだね。だけどもうひとつ、変わってないところがある――君のすてきな声だよ――それとその話し方」いつしか彼は厳粛な表情を浮かべていた。上体を傾けてきたので、彼女はオレンジの皮の強い、刺すような匂いをかいだ。「君がひとこと、口にするだけで、どんなに大勢の話し声がしているところでも、ぼくには聞き分けることができる。どうしてなんだろうな――昔からずっと考えてきたんだけどね――君の声がそんなに特別なのは、一度聞いたら忘れられないのは……。覚えてる? キュー国立植物園で初めて一緒に過ごした午後のこと。ぼくが花の名前なんてちっとも知らないもんだから、君はすごくびっくりしてたよね。君が教えてくれたようなことは、未だに何にも知っちゃいないけど。だけど、天気が良くて暖かい日には、あと、何かきれいな色を目にしたときにはいつだって、君の声が聞こえてくるんだ。『ゼラニウム、マリーゴールド、ヴァービーナ』あとはみんな忘れてしまって、その三つしか聞こえてこないんだけどね。天上の言葉だ……。君はあの日のこと、覚えてる?」

「ええ、もちろん。よく覚えてるわ」長くものやわらかなため息がもれた。まるで紙で作った水仙の香りがあまりにもかぐわしく、やりきれなくなった、とでもいうように。だが彼女の脳裏に浮かぶあの特別な午後の情景は、お茶の席でのばかばかしいドタバタだった。大勢の人がお茶を飲んでいるチャイニーズ・パゴダ(※註)で、このひとったらスズメバチがいるって、どうかしちゃったみたいに騒いだんだわ――手で追い払おうとしたり、パナマ帽をバタバタさせたりして、場所柄もわきまえずに真剣に怒り狂っていた。それがどれだけ恥ずかしかったか。

 だがいま、話している彼を目の当たりにしていると、その記憶も薄れていく。この人が言っている方が正しい。そうね、やっぱりすばらしい午後だったのよ、ゼラニウムもマリーゴールドもヴァービーナもあふれるほどに咲いていた。そうして――暖かな日差しも。彼女の物思いは最後のふたつの言葉のところで、それを歌いでもしたかのようにたゆたっていた。

 言ってみればその暖かさのためにもうひとつの記憶がほどけていった。芝生に腰を下ろしている自分の姿が見える。傍らで寝そべっていた彼が、突然、長い沈黙を破って寝返りをうち、彼女の膝の上に頭をのせた。

「ああ」低い、苦しそうな声で彼は言った。「毒を飲んで死にかけてたらよかったんだ――いま、この瞬間!」

 ちょうどそのとき白いワンピースを着た小さな女の子が、茎の長い、水のしたたる百合を手に持ったまま、背後の繁みからひょいと出てくると、ふたりをじっと見ていた。やがてまたすっと繁みのなかに戻った。だが、彼はそれに気がつかなかった。彼女は彼の上にかがんだ。

「どうしてそんなことを言うの? わたしはそんなふうには思えないわ」

 彼はそっとうめくと彼女の手を取り、自分の頬に押しつけた。

「だってぼくは君のことをもっともっと――どうしようもないくらい愛してしまうことがわかるから。ひどく苦しむんだろう。ヴェラ、君は決してぼくのことを愛してくれないだろうから」

 確かにそのころよりいまの彼の方がずっと男ぶりもあがっていた。半ば夢の中にいるような、うわのそらのようなところや、優柔不断のところはなくなっていた。いまの彼は人生に自分の場所を見出した男特有の雰囲気があったし、自信に満ちたその物腰は、ひかえめに言っても、なかなかのものだった。経済的にもうまくいっているようだ。服も上等のだったし、ちょうどそのとき、ポケットからロシア製のタバコを取りだしたのだった。

「一本、どう?」

「ええ、いただくわ」彼女の手はタバコの上で留まっていた。「ずいぶんいいタバコなんでしょうね」

「いいものだと思う。セント・ジェームズ通りの職人に、ぼくのために作らせてるんだ。ぼくはそんなに吸わないんだけど。君ほどにはね――だけど吸うのなら、うまい、とびきり新鮮なタバコじゃなきゃ。タバコはぼくにとっては習慣じゃない。贅沢なことなんだよ――香水みたいにね。きみはいまも香水が好きなんだろうね。そういえば、ロシアにいたときに……」

彼女はさえぎった。「あなた、ほんとにロシアにいったのね?」

「そうだよ。向こうには一年以上いた。ロシアに行くことをいつも話してたの、覚えてる?」

「忘れるわけがないわ」

(この項つづく)

(註)ここに出てくる「チャイニーズ・パゴダ」とは、セント・ジェームズ公園にある塔のことです。クリックすると少し大きな画像にジャンプします。
chinese pagoda