4.ライヴァルか模倣か
さて、つぎに一見、模倣とは関係なさそうな三角関係のドラマを見てみよう。
サイトの翻訳の項にも載せているイーディス・ウォートンの「ローマ熱」である。
この「ローマ熱」という短編では、アライダとグレイスというふたりの中年女性が登場する。
このふたりには、過去にこんないきさつがあった。
ローマに滞在していたアライダは、デルフィン・スレイドと婚約していた。そこへ「ちょっと見たことがないほど美しい」グレイスが現れる。
このグレイスもまたデルフィンに夢中になるのである。それに危機感を抱いたアライダは、策略を用いてグレイスを出し抜く。そうして、首尾良くデルフィンと結婚する。
これだけ見れば、アライダとグレイスはライヴァル関係、恋愛の勝者と敗者である。
ところが不思議なことに、恋愛の勝者であるアライダは、同じ時期、結婚したグレイスの監視がやめられない。おとなしい男性と結婚したおとなしいグレイスの地味な生活を、飽き飽きしつつも、どうしても監視せずにいられない。
これはどういうことなのだろう。
ライヴァルとは、主人公の前にたちふさがる障害ではないのか。
この点に関して、作田啓一の『個人主義の運命』はこう指摘する。
実はわたしたちは「ライヴァルの存在が欲求を活性化させる」ことをよく知っている。ドラマや映画などでは、煮え切らない恋人をその気にさせるために、主人公はお見合いをしたり、ほかの異性の存在をほのめかしたりする。
わたしたちが「欲しい」と思うものは、ほかの人が欲しいものだ。人気のある人はステキに思えるし、逆に自分が好きなものをほかの人が認めてくれないと不安になってしまう。
つまり、わたしたちは何かを、あるいは誰かを自分のものにしたい、という欲求が模倣であることを知っているのである。
だが、おそらくアライダは自分がグレイスを模倣しているとは思いもつかないだろう。逆に、自分の婚約者に手を出そうとするグレイスこそ、自分を模倣している、と思うかもしれない。それはどうしてなのだろう。ここでも『個人主義の運命』は回答を与えてくれる。
わたしたちは、自分の欲求というのは自分自身のものだと思っている。ところが実際は、何かを欲望するということは、誰かの欲望を模倣するということなのだ。
アライダのグレイスに対する敵意(ローマ熱に罹らせようとして、深夜にコロセウムに行かせた。もしかしたらそれで死ぬかもしれなかったのに)の背景には、単にライヴァルに対する怒りというだけではなかったのである。
(この項つづく)
さて、つぎに一見、模倣とは関係なさそうな三角関係のドラマを見てみよう。
サイトの翻訳の項にも載せているイーディス・ウォートンの「ローマ熱」である。
この「ローマ熱」という短編では、アライダとグレイスというふたりの中年女性が登場する。
このふたりには、過去にこんないきさつがあった。
ローマに滞在していたアライダは、デルフィン・スレイドと婚約していた。そこへ「ちょっと見たことがないほど美しい」グレイスが現れる。
このグレイスもまたデルフィンに夢中になるのである。それに危機感を抱いたアライダは、策略を用いてグレイスを出し抜く。そうして、首尾良くデルフィンと結婚する。
これだけ見れば、アライダとグレイスはライヴァル関係、恋愛の勝者と敗者である。
ところが不思議なことに、恋愛の勝者であるアライダは、同じ時期、結婚したグレイスの監視がやめられない。おとなしい男性と結婚したおとなしいグレイスの地味な生活を、飽き飽きしつつも、どうしても監視せずにいられない。
これはどういうことなのだろう。
ライヴァルとは、主人公の前にたちふさがる障害ではないのか。
この点に関して、作田啓一の『個人主義の運命』はこう指摘する。
ライヴァルが主体よりも一歩先んじている限り、主体はライヴァルを尊敬し、ライヴァルのように「なりたい」と願います。この同一化の作用(…)によって、主体はライヴァルの客体に対する欲求を模倣します。そのために、初めから主体の中にあった客体への欲求はさらに強化されます。言いかえれば、もしライヴァルがいなかったなら、それほどでもなかったはずの主体の欲求が、ライヴァルの介在によって格段に高められるのです。極端な場合には、ライヴァルがいなければ、潜在的であるにとどまったかもしれない欲求(もちろん特定の客体への欲求)が、ライヴァルのおかげで活性化する、ということもありえます。(作田啓一『個人主義の運命 ―近代小説と社会学―』岩波新書)
実はわたしたちは「ライヴァルの存在が欲求を活性化させる」ことをよく知っている。ドラマや映画などでは、煮え切らない恋人をその気にさせるために、主人公はお見合いをしたり、ほかの異性の存在をほのめかしたりする。
わたしたちが「欲しい」と思うものは、ほかの人が欲しいものだ。人気のある人はステキに思えるし、逆に自分が好きなものをほかの人が認めてくれないと不安になってしまう。
つまり、わたしたちは何かを、あるいは誰かを自分のものにしたい、という欲求が模倣であることを知っているのである。
だが、おそらくアライダは自分がグレイスを模倣しているとは思いもつかないだろう。逆に、自分の婚約者に手を出そうとするグレイスこそ、自分を模倣している、と思うかもしれない。それはどうしてなのだろう。ここでも『個人主義の運命』は回答を与えてくれる。
自分の欲望の達成を妨げ、自分を軽侮している人間をあがめ、この人間の欲求を模倣しているという事実を認めることは、主体の自尊心を苦しめます。手本=媒介者に対する崇拝と恨みという相半する感情(フロイトの用語を借りればアンビヴァレンス)によって引き裂かれた主体は、自己の内部の矛盾から免れようとして、媒介者の中にもっぱらライヴァルの役割を見ようとします。そして本来の役割であった手本の役割を認めることをいやがります。主体は媒介者を手本としてあがめ、彼を模倣している事実を、客体や他の人々に隠すだけではなく、自己自身にも隠そうとします。こうしてライヴァルとしての媒介者への敵意だけが表面にあらわれてきます。
わたしたちは、自分の欲求というのは自分自身のものだと思っている。ところが実際は、何かを欲望するということは、誰かの欲望を模倣するということなのだ。
アライダのグレイスに対する敵意(ローマ熱に罹らせようとして、深夜にコロセウムに行かせた。もしかしたらそれで死ぬかもしれなかったのに)の背景には、単にライヴァルに対する怒りというだけではなかったのである。
(この項つづく)