陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「真似」る話 その3.

2007-06-26 22:45:21 | 
3.真似る側の気持ち

「太陽がいっぱい」「リプリー」と二度、映画にもなったパトリシア・ハイスミスの『リプリー』では、主人公のトム・リプリーがリチャード(ディッキー)・グリーンリーフを真似し、さらに彼になりかわろうとする物語である。この作品を手がかりに、「真似る」気持ちを見ていこう。

幼少の頃、両親を亡くし、吝嗇で情愛に乏しい叔母に育てられたトムは、俳優を目指して二十歳の時にニューヨークへやってくる。だが、チャンスはなく、生活に追われ、やがて経理に明るいところから、所得税を巡って、詐欺をはたらくようになる。

そこに現れたのが造船会社を経営するグリーンリーフ氏。かつて、ちょっとしたつきあいのあったトムを息子の親友と思いこみ、イタリアにいる息子をアメリカに連れ戻してくれるよう頼み込む。

こうしてトムは、イタリアで絵を描いているディッキーに会いに行くのだが、ディッキーのほうはイタリアでの生活が気に入っていて、アメリカに帰って父親の跡を継ぐことなど望んでいない。トムは、グリーンリーフ氏の頼みよりも、なんとかディッキーの気に入られようと、さまざまに心を砕く。

退屈していたディッキーの側も、トムを歓迎し、やがてディッキーの家にトムも住むようになる。ところがディッキーにはマージというガールフレンドがいた。マージはトムをゲイだと思い、自分たちのなかに入りこんできた邪魔者と見なす。
「マージのところに寄っていくよ」と、ディッキーが言った。「長くはかからないが、きみは待っていることはない」
「そうかい」と、トムは言って、不意に淋しさを感じた。…

 窓が見えるところで、足をとめた。ディッキーが彼女の腰に腕をまわしている。キスをしていた。…トムはひとくいやな気がした。…

 くるりとうしろを向き、階段を駆けおりた。大声で叫びたかった。ガチャンと門を閉めた。ずっと走りつづけ、息せき切って家にたどりつき、門を入ると、手すり壁に身をもたせかけた。…

 彼はディッキーの部屋へ行き、ポケットに手を突っこんで、しばらくの間ゆっくりと歩きまわった。…クローゼットの扉をぐいと引っぱりあけ、なかを覗いた。きちんとアイロンをかけられた、いま流行のグレーのフランネルのスーツがあった。着ているのは一度も見たことはなかった。それを取りだした。半ズボンをぬぎ、グレーのフランネルのズボンをはいた。デッキーの靴をはく。さらに、チェストのいちばん下の引き出しをあけ、真新しいブルーと白のストライプのワイシャツを出した。

 ダークブルーのシルクのネクタイを選び、ていねいに結んだ。スーツは彼にぴったりだった。髪を分けなおし、ディッキーのまねをして、分け目をすこし横に寄せた。

「マージ、いいか、ぼくはおまえをあいしていないんだ」トムは鏡に向かい、ディッキーの声音をつかって言った。高い声を出して言葉を強調し、フレーズの終わりでは、喉の奥で多少ゴロゴロいう音をさせた。…「マージ、やめるんだ!」トムはとつぜん降りかえり、マージの喉を絞めているかのように、空をつかんだ。
(パトリシア・ハイスミス『リプリー』佐宗鈴夫訳 河出文庫)

これがトムがディッキーの真似をした最初の経験である。ディッキーにたいして激しい愛着を抱いたが、それが受け入れられなかったことがきっかけとなっていったのである。

こののち、ディッキーはいよいよトムを疎んじるようになり、トムは間もなくそこを出ることになる。最後にふたりは旅行に出かけるのだが、そこでもディッキーは冷たい。トムは「憎しみや愛情や苛立ちや欲求不満といった狂おしい感情が心のなかでふくれあがり、息が苦しくなった。殺してやりたいと思った」という感情を抱くようになる。
トムはディッキーに、友情も、付き合いも、敬意も、必要なものはすべて捧げてきたのだ。それにたいして、彼は忘恩と敵意で報いたのだ。トムはのけ者にされていた。この旅の途中でディッキーを殺しても、事故死ですませることができると思った。そして――彼はそのとき、すばらしいことを思いついていた。つまり、自分がディッキー・グリーンリーフになりすますのだ。

こうして思い通りに、トムはディッキーになりすまし、首尾良くパリでの生活を始めることができるようになる。だが、偶然やってきたイタリアでの共通の知人に疑念を持たれ、その人間まで殺してしまう。警察はトムではなく、ディッキー・グリーンリーフを疑うようになる。
ディッキー・グリーンリーフになりすましているのは、これが最後であることはわかっていた。トーマス・リプリーにはもどりたくなかったし、取り柄のない人間でいるのもいやだった。また昔の習慣に逆もどりしたくもなかった。みんなから見下され、道化師のふりをしなければ、相手にされないのだ。誰にでもちょっとずつ愛嬌をふりまく以外、自分はなにもできない役に立たない人間だという気持ち、そんな気持ちはもう味わいたくなかった。買った当座でもたいしたことはなかったのに、油のしみがつき、しわの寄った、そんなみすぼらしいスーツを着たくはないように、ほんとうの自分にはもどりたくなかった。

ここでわかるのは、誰かの真似をする、というのは、真似をする対象に、強い愛着を持っている行為であることだ。それに対して、いまある自分はつまらない、何でもない存在であるという嫌悪感を募らせている。
言葉を換えれば、自分が真似をする対象こそ、自分のあるべき姿なのであり、現在の自分の姿はどこかまちがっている、というふうに思うようになっていくのである。やがて、自分が真の自分となるためには、自分があるべき姿に「戻る」こと、つまり、真似をする対象になりかわっていくことを望むようになっていく。

単にあこがれから始まった「真似」が、これほどまでに暴力的な意識に変わっていくものなのだろうか。それともこれは単にミステリだから?
真似、模倣ということを、今度はもう少し別の角度から見てみよう。

(この項つづく)