陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「真似る」話 その1.

2007-06-24 22:19:42 | 
1.真似られると腹が立つ?

先日、たまたま電車で知り合いの女の子と一緒になって、少し話をした。
彼女はずっと、A子と仲が良く、いつ見ても一緒にいる印象があったので、わたしは深い考えもなく「今日はA子ちゃんとは一緒じゃないの?」と聞いてみた。

すると、彼女の表情が変わった。「もうA子なんて関係ないんです」
わたしが何とも返事をしないでいると、彼女は「あの子、ひどいんですよ」と堰を切ったように話し出した。

A子はいつもわたしのマネばっかり。わたし、最近メガネ替えたでしょ、そしたら、A子ったらそれまでコンタクトだったのに、わたしと同じセルフレームにしたし、このあいだなんて、わたしが着てたのとそっくりのチュニック、着てきたんですよ、もうわたし、絶対着れなくなった。おまけにね、××を最初に見つけたのはわたしなんです。なのに、いまじゃ自分が見つけてファンになったみたいに大騒ぎしてる。そういうの、信じられないと思いません?

確かにそういわれてみれば、彼女たちふたりはよく似た格好をしていたような気もする。それでもほかの女の子たちも、みんな揃ってよく似た格好をしているのだ。そういう流行などに興味もないわたしから見ると、ことさらにA子が彼女のマネをしているとは思えなかった。それでも彼女からすればそう見えるのか、あれもマネ、これもマネ、となおも言い募る彼女の話を、わたしの降りる駅に着くまで聞いていた。

ひとりになってその話を思い返しながら、ふとそれまで忘れていた記憶がよみがえってきた。
確か中学一年のときのことだ。女の子数人に取り囲まれて、なかの一人に「その靴下、やり過ぎじゃない?」と詰問されたのだ。わたしはまったくの寝耳に水で、どういうことかわからないけれど? と聞き返したような気がする。するとほかの女の子たちも口々に、わたしがバインダーにしても、ペンケースにしても、そのなかの一人の女の子のマネばかりしている、というのである。そうして、その日わたしが履いていた靴下も、彼女が気に入っていて、学校によく履いてきた靴下と同じだというのである。

その靴下は、紺色の地にグレーと赤のアーガイル模様がついたもので、母親がイトーヨーカ堂で買ってきたのを、その日おろしてはいてきたのだ。わたしはアーガイルはあまり好きではなくて、模様がもう少し小さければいいのに、なんだかカッコ悪いな、と思っていたのだった。
わたしは自分が何と答えたのかまったく記憶はないのだが、言いたいことを言った彼女たちは満足して帰っていったのではなかったか。ともかくわたしとしては言いがかりをつけられたとしか思えず、何とも言えない腹立たしさだけが残った。

人真似は反感を引き起こす。
昔話でも、隣の正直爺さんのマネをして、裏の畑を掘った意地悪爺さんも、同じようにこぶを取ってほしかっただけの踊りの下手なお爺さんもひどい目に合うし、舌切り雀のお婆さんはガマだのヘビだのが出てくるつづらをもらってしまう。アラビアンナイトでも、アリババの真似をして盗賊の洞窟に入ったまま、出るときの呪文を忘れた兄のカシムは、戻ってきた盗賊に殺される。
こうした話は暗に「人真似は良くない」という教訓を与えているようだ。

一方で、学ぶことは真似ぶこと、という言い方もある。
習字を習うときは、かならずお手本をなぞる。踊りを習うときも、手本とする先生の踊りを、できるだけそっくりに真似ようとする。

わたしたちは、身近な人間が自分を真似ている、と感じたとき、なぜ怒りを感じてしまうのだろうか。真似をする人間を蔑んでしまうのはなぜなんだろうか。逆に、真似が奨励される場面というのはどういう時なんだろう。

いろんな小説に描かれる「真似る」ことを見ながら、「模倣」ということを考えてみたい。
良かったら、しばらくおつきあいください。