陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

この話、したっけ~あのときわたしが聞いた歌 その4.

2007-06-17 22:49:28 | weblog
4.音符の中を泳いでいく魚のように

高校を卒業して数年後、当時のわたしを知っていたという人に会ったことがある。学年がちがったので、わたしのほうはその人のことをほとんど知らなかったのだが、在学中にわたしがやっていたことを下級生だったその人はよく知っていて、話を聞きながら、出来事こそ同じでも、まったくちがう登場人物による、まったくちがった物語を読んでいるような不思議な気持ちがしたのだった。

わたしの意識のなかにある十代の自分のイメージというのは、部屋の隅に置いた小さな冷蔵庫だった。胸の奥の衝動を抑え、厚い扉の内側に閉じこもって、ときどき振動音を立てる小さな冷蔵庫。

その内側で、わたしは本を読み、音楽を聴いた。
食べたものが身長を伸ばし、血や肉となっていったように、繰りかえし読んだ本は、わたしの文体とボキャブラリを築き、そうして、おそらく左腕の肘から肩あたりまではレッド・ツェッペリンとピンク・フロイドとイエスでできているはずだ。

中学に入ってまもなくのレコード鑑賞会で、わたしはツェップとフロイドとイエスを知った。。五日間に渡って放課後、毎日開かれたその鑑賞会では、もちろんそれ以外にもディープ・パープルも聴いたはずだし、ビートルズもローリング・ストーンズも聴いた。それでも、音楽の、それまで知っていたのとはちがう側面を見せてくれたのは、その三つのバンドだった。

レッド・ツェッペリンはラフなまま立つことを教えてくれた。ソフィスティケイトされなくても、自分が作りだすものを疑いさえしなければ、そのいさぎよさだけで十分にカッコいいのだ、と。
ピンク・フロイドは、わたしにとっては重力だった。上に伸びるためには、下方に向かう力も必要なように、わたしを下へ、下へと引っぱった。
そうして、イエスを聴いていると、自分が身を圧倒するような大量の音符の海を泳いでいく魚になったような気がしてくるのだった。スティーヴ・ハウのギターは、たくみなバランスのとりかたを教えてくれたし、リック・ウェイクマンのキーボードは、金色に輝く背びれ、ビル・ブラッフォードのドラムは泳ぐ力を与えてくれたし、そうしてジョン・アンダーソンのボーカルは、水のなかに差す日の光だった。

もちろん当時聴いていたのはそれだけではない。キング・クリムゾンも、エマーソン・レイク・アンド・パーマーも好きだったし、高校になったころからU2と結んだ絆はまた特別なものだった。それでもわたしの身体を作ったのはその三つのバンドだ。

のちに、アメリカのコラムニストであるアンナ・クインドレンのコラム集『言わせてもらえば』のなかで、1985年に自殺したふたりのティーン・エイジャーをとりあげている。そのふたりの家族は、彼らが好きだったバンド、ジューダス・プリーストを訴えた。「ジューダス・プリーストのアルバムによって死の暗示にかけられた」という理由で、百二十万ドルの損害賠償を請求したのである。

クインドレンはふたりの生前の様子をスケッチする。
ひとりは、生まれる前に両親が離婚し、そののちに母親が四回結婚を繰りかえし、四度目の父親は、息子の目の前で、母親を拳銃で脅すような人物だった。ハイスクールを中退し、マリファナやコカインを常用した。
もうひとりは、小さい頃から母親に虐待され、成長して虐待するようになった。暇なときは何をするかという問いに(この質問は、日本語で「趣味は」という質問に相当する)「ドラッグ」と答えた。

こうしたふたりが自殺を図ったのは、ジューダス・プリーストの音楽と関係があるとはいえないだろう。
 裁判所は、自殺はバンドのせいではない、という判決を下した。しかし家族は、息子たちの恐ろしい死の責任から逃れるために、さらに上告するだろう――ヘビメタがあの子をそそのかしたんです。父親が何度も変わったせいではありません。折檻も、アルコールも、ドラッグも関係がありません。意志が弱かったせいでも、子育てに失敗したせいでもありません。誰かが悪いんです。私たち以外の誰かが――。
 いつだって誰かのせいにしないと気がすまないらしい。
アンナ・クインドレン『言わせてもらえば』松井みどり訳 文藝春秋社

わたしは当時ヘビメタを「馬鹿っぽい」と決めつけ、避けていたので、ジューダス・プリーストを聴いたことはなかった。もちろん、わたしはその自殺したティーン・エイジャーと共通点もほとんどない。それでも、音楽は単にその曲を聴いているあいだだけ、一種の気分をもたらすものではないように思う。とくに、まだ経験も乏しく、学ぶ要素も限られた子供が浸りきる音楽は、その子の少なからぬ部分を作り上げていくはずだ。加えて、歌詞が母語で、ダイレクトに伝わる場合、否定的なニュアンスの歌詞、暴力を肯定するような歌詞、投げやりだったり、呪詛したりするような歌詞は、そのまま吸収されることがあっても不思議はない。

わたしはイエスを見つけた。
イエスを見つけるなかで、身震いするような冷たい水の中でも、岩だらけの浅瀬でも、泳いでいく力を養っていったのだ。
部屋の隅の冷蔵庫のなかで。

わたしだって彼らだったのかもしれないのに。

(この項つづく)