陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

キャサリン・マンスフィールド「ディル・ピクルス」 その5.

2007-06-05 21:53:10 | 翻訳
5.

「ちがうわよ、わたしが言ってるのは、あなたが小さいときに庭にいた犬よ」

彼は笑ってシガレットケースのふたをぱちんと閉めた。
「そうだったっけ? すっかり忘れてしまってたよ。なんだか大昔のことみたいだもの。たった六年前のことだなんて信じられないよ。今日、君だってわかってから――ものすごい断層を飛び越えなきゃならなかった――あのころに戻ろうと思ったら、人生のすべてを巻き戻したぐらいの大ジャンプをしなきゃならなかったんだ。あのころ、ぼくはまだほんとに子供だったな」指でテーブルを叩いた。「ずいぶん思ったんだけど、ぼくはさぞ君をうんざりさせたにちがいない。いまならどうして君があんな手紙をよこしたのか、完璧に理解できるよ――あのときはこんな手紙を読んで、もう生きてはいられない、と思ったけど。このまえ見つけて、読み直したときに、笑わずにはいられなかったよ。よく見てるなと思った――これこそ、ぼくの姿だったんだろうな、って」彼は目をあげた。「まだ行かないよね?」

 彼女は襟元のボタンをかけると、ヴェールをおろした。

「ごめんなさい、もう行かなくちゃ」そう言うと、なんとか笑みを浮かべようとした。いまや彼にからかわれていることがはっきりわかった。

「そんなこと言わないでくれよ」彼は哀願の口調になった。「もう少し、いてくれよ」テーブルから片方の手袋を取ると、彼女を放すまいとするがごとくぎりしめた。「ちかごろほとんど人と会って放すこともないんだ。だから野蛮人になってしまったみたいだ。君を傷つけることを何か言ってしまったかな?」

「いいえ、そんなことはないわ」彼女はうそを言った。だが、彼が手袋を指と指で、そっと優しくなでているのを見ているうちに、怒りはおさまっていき、そのときの彼は、それまでにないほど六年前の彼そのままに見えた。

「ぼくがあのころほんとうに望んでいたのは」彼は穏やかな声で言った。「絨毯になることだった――ぼく自身が絨毯みたいなものになって、君にその上を歩かせるんだ。君があれほどきらってた尖った石だろうとぬかるみだろうと、君が傷つかないで歩いていけるように。これほどはっきりした望みはほかになかった――身勝手にもほどがあるよね。だけど、ただひたすら、願っていたのは魔法の絨毯になって、君を乗せて君が見たがってたすべての国に連れて行くことだけだったんだよ」

 話を聞きながら、彼女は何かを飲んででもいるかのように、頭を昂然と上げていた。胸の内の奇妙な獣が喉を鳴らし始める……。

「ぼくは君ほど寂しい人はこの世にはいないと思っていた」彼は続けた。「だけど、たぶん、だからこそ君がこの世でただひとりのひとのように思ったんだ、ほんとうにリアルな、ほんとうに生きているただひとりのひとだと。時代をまちがえて生まれてしまったのだと」彼は手袋をなでながらつぶやいた。「そういう運命だと」

ああ、神さま! わたしはいったい何をしてしまったんだろう。こんな幸せを自分から捨ててしまったなんて。わたしをほんとうに理解してくれたただひとりのひとだったのに。もう手遅れかしら? 遅すぎた、ということなのかしら? わたしはあのひとの手のなかの手袋……。

「君には友だちがいなかったし、人と仲良くなろうともしなかったよね。ぼくはそれがすごくよくわかった。ぼくも同じだったからさ。いまでも同じだろ?」

「ええ」囁くように言った。「同じよ。ずっとひとりぼっち」

「ぼくだって同じさ」彼は穏やかに笑った。「まったく同じだ」

 不意にそっけない態度で彼は手袋を手渡すと、音を立てて椅子を床にすべらせた。「だけどあのときのぼくにふしぎだったことが、いまじゃ完璧にわかる。君だってそうだろう、もちろん……。つまり、ぼくたちが単に、ひどいエゴイストだったってことさ。自分自身に夢中で、自分の殻にこもって、心の中に他人が入り込む場所なんてほんの少しもありはしない。わかってるだろう」彼の声は大きくなっていた。世間知らずで、なれなれしくて、昔の彼のもうひとつの面が、たまらないほどはっきりと浮かびあがる。

「自我の構造について勉強を始めたんだよ、ロシアにいるときにね。そこで、なにもぼくたちが特別だってわけじゃないことがわかった。こういうのは一般的なタイプで……」

 彼女の姿は消えていた。彼はそこに座ったまま、雷に打たれ、驚きに言葉もなかった……やがて彼はウェイトレスを呼んで勘定書を持ってくるように言った。

「だけどね、クリームには手をつけてないんだ。だからそれは勘定から引いておいてくれよ」


The End