陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

サイト更新しました

2006-09-20 21:56:49 | weblog
更新したのは「「賭け」する人々」ではなく、このあいだ書いたつなぎの記事、ドラえもんの話、じゃなかった「伴走者として」です。

書いているうちに、これはもう少し書き足した方がいいな、と思って、「この話したっけ」のほうに組み込みました。
あと、「この話したっけ」のトビラも少し変えて、内容も一部移動したりしました。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

サイトのほうもこんな感じでぼちぼち整理していきますので、まぁなにとぞよしなにお願いします。

このところ、なんだかんだと用事が入って、「賭け」の手入れも遅れているし、くださったコメントくにも返事が遅れてしまってごめんなさい。
こっちもぼちぼちやっていくので、よろしくお願いいたします。

ということで、それじゃ、また。

裸の王様

2006-09-19 22:25:36 | weblog
先日美容院に行ったところ、ケープを着せかけてくれたり、髪を梳かしてくれたりする美容師の女性が、ローライズのジーンズをはいていた。まぁローライズのジーンズなんてきょうびめずらしくもないのだけれど、彼女が着ていたシャツのほうも相当に短くて、つまりは腰骨がすっかり出ていたのだった。その腰骨から下腹部がすわっているわたしの目の前を行ったり来たりする。向こうを向いて腰を屈めたりすると、背中はもちろん、腰というか、ほとんどお尻のほうまで見えてしまう。かなり肉付きのいいお姉ちゃんだったので、実に肉感的というかなんというか、日常的な空間で見るべきではないものを見たような気分になってしまった。

ファッションに疎いなんてもんじゃないわたしだから、こういう感想を持ってしまったのかもしれないのだけれど、それにしても、なんだかな、である。

ちょっと前から、前傾姿勢になって自転車で信号待ちをしている女の子の背中が出て、パンツ(これはズボンの意)の上から、下着が見えていることは珍しくなかったのだけれど、そのたびに、これは「ファッション」である、つまり、「ファッション」という記号で解読するものであって、「身体」という記号から読解するものではない、という、あらかじめの約束事があるのだろう、と思ったのだった。

わたしたちは「シンボル」としての世界を生きている。
その昔「デンエン」と陰で呼ばれていた人がいたのだけれど(というか、わたしがこっそりそう呼んでいたんですが)、この人は二言目には「田園調布だと…」「田園調布では…」と言うのだった。別に自分の家に遊びに来てほしくて、ことあるごとに住所を教えていたわけではもちろんない。自分は高級住宅地に住んでいる高級な人間なのである、ということを言いたかったわけだ。つまり「田園調布」は「シンボル」もしくは「記号」なのである。

食べる物にしてもそうだし、もちろんつぎつぎにデザインが移り変わり、種々のブランド名が大きな意味を持つ服などは、まさにシンボルそのものだろう。
なんですり切れも、ほころびてもいない服を、シーズンごとにつぎつぎに買い続けなければならないのか。流行に合わせてつぎつぎに服を買っていく人は(ここで「わたしたちは」と書かないのは、わたしはそんなことをしないからだ。ところが、本来なら流行に左右されないはずのトラッドまで、最近は丈といい襟といい、シーズンごとに変わってしまって、まったく困ったものだ。まぁ歩く「年代記」として、そんなものは一切気にせず着続けている「地球に優しい」わたしなのである)、「服」ではなく、あくまでも「記号」を買っているのである。

おそらくそのお尻の一部がのぞくようなローライズのジーンズをはいている女の子は、自分の身体を見せようと思ってそういう格好をしているのではなく、それが「かわいい」から、「おしゃれ」だから、はいているのだろう。
わたしにはそれが「かわいい」とも「おしゃれ」だとも思えないのだけれど、それは彼女たちが属する社会のローカル・ルールでは、十分に「かわいく」「おしゃれ」なのだろうと思う。だから、たとえお尻の一部がのぞいていても「恥ずかしい」とは思わず、むしろそういう見方をする人間の方が、ルールを解さない「未開人」もしくは「いやらしい人」ということになってしまうのだ。

明文化されているわけでもない恥の意識が、時代や社会的な感覚に応じてどんどん変わっていくというのは、別に不思議なことでもなんでもない。
あるいは、特殊な社会の特殊なルールが、社会全体のルールと一致しないことも、それほどめずらしいことではない。

けれども、たとえばアウトローのグループを形成する人々は、自分たちのローカル・ルールが社会全体のルールには相容れないものであることは、わきまえていたのだと思うし、そのほかにも「校則」などのように、「学校のなかだけでの決まりごと」というように理解をしていたと思う。

ところがいまは社会全体を貫く確固たるルールがやはり曖昧になってきた、ということなのだろうか。あるいは、社会全体で共有できるような恥の感覚が揺らいできた、ということなのだろうか。
「そういう格好をしてあなたは恥ずかしくないかもしれないけれど、見ているわたしが恥ずかしい」という場面に出くわしてしまうのである。

記号というのは、すぐに古くなり、たとえば道路標識のように、見慣れて決まり決まったものとなってしまうために、生き生きとしたものでありつづけるためには、不断に新しくなり続けなければならない、という側面がある(車がモデルチェンジし続けるのもそのためだ)。
だからファッションもつぎつぎに新しいものが生まれ、「これがカワイイ」「これがオシャレ」そうして、「これが欲しい!」という情報が発信され続ける。そうして人はその欲望を模倣していくのだ。

自分が「カワイイ」と思っているつもりでも、実はそう思わされているのだ、ということは、最低限、知っておいたほうがいい。
ふと気がつくと、自分だって「裸の王様」をさせられているのかもしれない。

伴走者として

2006-09-17 22:27:39 | weblog
中学のとき、好きな先生がいた。
わたしはこの先生に、冬樹社版の『坂口安吾全集』を借りて、一冊ずつ全巻読んだのだ。巻によっては、まだ開いたあとさえなく、真新しいページをぱりぱり音をさせながらめくったこともあった。そういうときは、本を読む前に手を洗い、表紙を覆うろうびきの紙を破らないよう、緊張しながら読んだものだった。

この先生に、あるとき話をしにいったことがある。
日々感じていた周囲との齟齬や、ばくぜんとした将来に対する不安のようなものを話したのだった。
この先生だったら、わかってくれる、という思いも、どこかであったのだと思う。

自分がどういったふうに話をして、それに対して、どのように答えてもらったのか、いまはもうまったく覚えていない。ただ、ごくごくありきたりの、当たり障りのない返事をもらって、ああ、この先生にもわかってもらえなかった、と、ふたがれたような胸をかかえて教官室を出、渡り廊下を歩いていると、薄いグレーの雲が、まるで手を伸ばせばつかめるほど低くたれこめていたのを覚えている。

それからずいぶん時が過ぎ、さまざまな出来事があり、また本を読み、あるいは多くの話を聞いてきた。
そうしながら気がついたことがいくつかあった。

そのひとつが、「いい話」「感動する話」をするのは、それほどむずかしいことではない、ということである。

困難を抱えていたり、行き詰まっていたりする人に、「正論」を言うことは、むしろ簡単なことだ。
人の悪いところはよく見える、という。
あなたのこういうところがまちがっている、あなたはこうすべきだ、と、指摘する。
なるほど、それはまったくその通りでもあるのだろう。

けれども、その人が、無関係の第三者から見て「誤った」選択をしてきたのも、それなりの必然があったのだ。さまざまな要素があって、その結果として、いくつかの選択を続けていき、そうやってそこにたどりついていったのだ。

ヘンな話だけれど、『ドラえもん』の基本的なストーリー展開をごぞんじだろうか。
のび太がいつも困った状況を回避しようと、ドラえもんに秘密道具を出してくれるように頼む。ところが、最初は役に立つように思えたその秘密道具も、やがて事態をいっそう混乱させることになる。そうしてエントロピーが最大値になったところで、たいていの物語は終わるのだ。

なぜドラえもんの秘密道具は事態を打開できないのか。
それは、その「秘密道具」が、その事態を引き起こしている根本的な原因には一切関与していないからだ。
通常「困ったこと」として表面化する、たとえば「寝坊して遅刻した」「宿題をやっていくのを忘れた」「テストで0点を取った」という事態を、その場かぎりで解決するための道具を出したところで、その場こそ取り繕えても、それ以上の効果は望めない。
たとえば「正義の旗印」という道具は、その旗を背中に背負っていれば、どんなことをいってもそれが正しい、ということになる道具で、のび太君はお母さんに「0点が一番いい点なんだよ」と言い張って、納得させることに成功するのだけれど、その調子でいろんなことを続けていたら、風が吹いてきて、その旗が折れて……ということになるわけだ。

つまり『ドラえもん』というマンガは、子供にはそのおもしろい道具を見せておきながら、自分で解決しなければ、結局は大変なことになるのだよ、と教えている、大変に教育的配慮の行き届いたマンガなのだ。

そうして、いわゆるアドバイスというのも、このドラえもんの秘密道具とどれほどちがうのだろうか、と思うのである。
アドバイスをする人間は、あたりまえだけれど、行き詰まったり、困難を抱えたりしている人間と同じ位置に立っているわけではない。
困難を抱えた人間が、その位置から問題を取り出し、「原因」をこれまでの状況全体から取り出すのを聞いて、判断しているのにすぎない。
もしかしたら、その問題の立て方自体がまちがっているのかもしれないし、もっと多くの要因が複雑に絡み合って「原因」となっているのかもしれない。

そういうことは、アドバイスをする人間には決してわかることではないのだ。

もちろん、端から見ていてあきらかにそこがおかしい、と指摘できる点もある。けれども、その「おかしい」選択を必要とした状況を変えずに、おかしいところだけを直したとしても、それはドラえもんの「正義の旗印」を使うことと変わらない場合だって十分にありうる。その「アドバイス」どおりにしたことが、事態を一層混乱させることだってあるだろう。そんなとき、アドバイスをした人間は、そうなったことの責任が取れるのだろうか。

そういうことを考えると、端の人間に言えることというのは、ごく一般的な、当たり障りのないこと以上ではなくなってしまうのだ。

いっそ、一般的な当たり障りのない話なら、困難を抱えた人間とは直接には関係のない「いい話」「元気が出る話」「勇気が出る話」をすることだってできる。
自分がうまくいった話。
困難な状態にあった人が、それをはねのけた話。
苦労しながら頑張り抜いた人の話。
それを聞いた人は、それを聞いて、よし、自分も頑張ろう、と思うかもしれない。

けれども、そう思わないかもしれない。
そんなことを思える状況にはないかも。
そんなことは、端の人間にわかることではないのだ。

どこまでいっても、自分の問題を解決できるのは、自分しかいない。
困難な状況を、「何が問題なのか」「どこに問題があるのか」という形で整理できるのも。
この状況の「原因」が、どこにあるのか、と見極めることができるのも。
どうしたらいいか、あるいは解決を妨げている何ものかがあるのか、ということも。
結局は、その人が自分で見つけるしかないのだ。

おそらく、ドラえもんがのび太の助けになっているとしたら、それは、ドラえもんが「そこにいる」という一点においてだ。
『坊ちゃん』に清がいたように。

もしわたしたちが他者の何らかの助けになることができるとしたら、それはおそらくそういうあり方しかないような気がする。

たとえ、あなたがどういう状態にあっても、自分はここにいるから、と。
どういうことになっても、逃げないで、ずっとここにいてあげるから、と。
そういうサインを送り続けること。

これは、簡単なようで、実はものすごく大変なことであるように思える。
これを超える他者との関わり方、というのを、わたしは思いつかない。

「賭け」する人々 最終回

2006-09-16 22:45:46 | 翻訳
7.「賭ける」ことに賭けてみる

「賭け」、とくに金銭を賭けてのいわゆる「賭け事」を罪悪視する考え方がある。

自分の欲望を抑えて、勤勉に働くこと。そうして、その労働で得た生産物や賃金は、自分の欲望のままに消費することなく貯蓄すること。

こういう考え方を「正しいもの」とするならば、ほんの一瞬で、何時間もの労働に匹敵するような金を手にするかもしれない賭け事は、許しがたい罪悪だろう。
「賭けるということ、それは、労働を、忍耐を、倹約を放棄することだ」。(ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』)

そうして、幸運が瞬く間に転がり込むことは、ひとに陶酔と眩暈をもたらす。

ドストエフスキーの中編小説に『賭博者』という作品がある。

ドイツの観光地に滞在する将軍の子供たちの家庭教師をしているロシア人の青年は、恋人にそそのかされて、賭博場に足を踏み入れることになる。

正直のところ、胸がどきどきして、冷静でいられなかった。ルーテンブルグからこのまま立ち去ることはあるまい、必ずわたしの運命に何か根元的な決定的なことが生ずるだろう、ということは確実に承知していたし、とっくにもう決めてもいた。そうでなければならないし、いずれそうなることだろう。わたしがルーレットにそれほど多くのものを期待していることが、いかに滑稽であろうと、勝負に何かを期待するなぞ愚かでばかげているという、だれもに認められている旧弊な意見のほうが、いっそう滑稽なような気がする。それになぜ勝負事のほうが、どんなものにせよ他の金儲けの方法、たとえば、まあ、商売などより劣っているのだろう。勝つのは百人に一人、というのは本当だ。しかし、そんなことがわたしの知ったことだろうか。
ドストエフスキー『賭博者』原卓也訳 新潮文庫)

自分の運命を知ろうとしてルーレットに向かう主人公は、恋人のために賭け、元金を八倍にしてそれを渡す。それから徐々に、ルーレットにのめりこんでいくようになる。

 わたしは勝った――そして、また全額賭けた。前の分も、今の儲けも。
「三十一!(トラント・エ・タン)」ディーラーが叫んだ。また、勝ちだ! つまり、全部で八十フリードリヒ・ドルである! わたしは八十フリードリヒ・ドルを全額、真ん中の十二の数字に賭けた――円盤がまわりはじめ、二十四が出た。わたしの前に、五十フリードリヒ・ドルずつの包みが三つと、金貨が十枚、積み上げられた。前の分と合わせて、わたしの手もとに、総額二百フリードリヒ・ドルできていた。

 わたしは熱病にうかされたように、その金の山をそっくり赤に賭け、突然われに返った! そして、その晩を通じて、全勝負を通じてたった一度だけ、恐怖が寒さとなって背筋を走りぬけ、手足にふるえがきた。わたしは、今負けることがわたしにとって何を意味するかを、恐怖とともに感じ、一瞬にして意識した! この賭けにわたしの全生命がかかっていた!

こうして主人公は巨額の金を手に入れるが、やがてそれもパリで蕩尽してしまう。
ふたたびヨーロッパ各地の賭博場をまわって、債務のために刑務所にまで入る。
それでも賭博場から離れられない。かつての友人に再会して、こうした質問を投げかけられる。

「……どうなんです、あなたは博打をやめるつもりはないんですか?」
「ああ、あんなもの! すぐにでもやめますよ、ただ……」
「ただ、これから負けを取り返したい、というんでしょう? てっきりそうだと思ってましたよ。しまいまで言わなくとも結構です。わかっているんですから。うっかり言ったってことは、つまり、本音を吐いたってことですよ。どうなんです、あなたは博打以外には何もやってないんですか?」
「ええ、何も……」
…(略)…
「あなたは感受性を失くしちまいましたね」彼が指摘した。「あなたは人生や、自分自身の利害や社会的利害、市民として人間としての義務や、友人たちなどを(あなたにもやはり友人はいたんですよ)放棄したばかりでなく、勝負の儲け以外のいかなる目的をも放棄しただけでなく、自分の思い出さえ放棄してしまったんです。わたしは、人生の燃えるような強烈な瞬間のあなたをおぼえていますよ。でも、あのころの最良の印象なぞすっかり忘れてしまったと、わたしは確信しています。あなたの夢や、今のあなたの最も切実な欲求は、偶数、奇数、赤、黒、真ん中の十二、などといったものより先には進まないんだ、わたしはそう確信しています!」

賭け事は、予想して金を賭け、結果がでるまでのあいだ、「全生命がかかっていた」と感じるほどの怖ろしいほどの緊張感をもたらす。そうして勝ったときの眩暈がするほどの陶酔。
だからこそ、そこまで人は夢中になるのだ。
『賭博者』の主人公のように、賭け事で身を持ち崩す人も、実際に少なからずいるのだろう。

人は大昔から、それこそ火を使い始めるのとほとんど変わらない頃から、賭けを続けてきた。

あるいはまた、日常生活のさまざまな場面で、たとえ金銭はからまなくても、失敗して、何かを失うことがあったとしても、思い切ってやってみるという意味での「賭け」を、さまざまな場面でし続けている。

あるいはまた、生まれつきのさまざまな制約と不平等のなかで、これだけは万人に開かれているはずの「運」を求めて宝くじを買うこともある。
現状からの飛躍を求めて、オーディションに応募したり、小説を書いて公募に出したりすることもあるだろう。

こうした「賭け」の要素を排して、ただひたすら「勤勉に働くこと」が、ほんとうに「善い」ことなんだろうか。
それでさえ、運に乗じたり、機を読んだり、という、一種の「賭け」の要素があるのではないだろうか。

明日また勤勉に働けるように、余暇に体を休める、リフレッシュする、という意味の遊びを越えて、それ自体が目的となるような「遊び」、真剣な「遊び」を求めることは、よくないのだろうか。
ほかには味わえないような、賭け事の緊張を求めていくのは、悪いことなのだろうか。

「賭博に打ちこむ人間たちの心」が恐ろしいのではなく、おそらく人間の心(もしそんなものがあるとして)のなかには、もともと恐ろしい部分があるのだ。そうして、「賭博」はその恐ろしさを凝縮してしまったり、制御不能にしてしまったりする可能性があるから、恐ろしいのだろう。

「賭博」がよいことか悪いことか、わたしはここでそんなことがいいたいわけではないし、わたしに言えることでもない。
そうではなくて、未来を知ることができないわたしたちは、さまざまな場面で「賭け」を不断にし続けざるを得ないのだ。
自分のコントロールできる範囲を限定してお金を賭けてみることだって、そのあいだ、ワクワクドキドキが楽しめるのなら、それもいい。
そのことが、自分にとってどういう意味を持ってくるのか、それを決めるのは、結局は、その人自身ということになるのだろう。

賭ける。
これは大昔から人間が続けてきた営みのひとつなのだ。

(この項終わり)

「賭け」する人々 その7.

2006-09-14 22:37:58 | 
6.日々の賭け

「賭け」を辞書で引いてみると、つぎのふたつの定義が出てくる。

(1)勝負事などで金品を出し合い、勝者がその金品を取ること。賭け事。
(2)運を天に任せて思い切ってやってみること。
三省堂提供「大辞林 第二版」より


(1)は一般的に「賭け」と言われるものだろう。

ところが二番目の定義になると、確かにわたしたちはこういうことばの使い方を日常するのだけれど、これでは「賭け」の範囲はおそろしく拡がってしまう。
「結果がどちらに転ぶかわからないことを、思い切ってやる」であれば、ほとんどのことは結果がどちらに転ぶかわかりはしないのだ。

つまり、わたしたちが「賭け」と考えることが、わたしたちにとっての「賭け」なのである。
「これは賭けだ」と思うのは、どんなときなのだろうか。

それは、「賭け」によって、失うものがあるかもしれないときなのではないだろうか。

ロバート・コーミアの『チョコレート・ウォー』の主人公ジェリーは十四歳。この春、母親を亡くし、薬剤師の父親と二人暮らしである。

「ねえ、パパ」
「なんだい、ジェリー」
「きょう、薬局ではほんとにいつもどおりだったの?」

父親はキッチンの戸口で立ちどまり、けげんそうな顔になった。「どういうことだい、ジェリー?」
「つまりさ、ぼくが毎日、きょうはどうだったってきくと、パパは毎日、まあまあって答えるじゃない。すばらしい日とか、不愉快な日とかってないの?」

「薬局っていうのは、あまり変化がないものなんだよ、処方箋を受けとって、その処方箋どおりに薬を調合する――それだけのことさ。前もってよく調べ、ダブル・チェックしながら慎重に調合するんだ。医者の手書きの処方箋に関する噂はほんとうだけど、その話は前にしただろ」
 父親は眉をひそめて記憶をたどり、必死になって息子がよろこびそうな話題を見つけだそうとしていた。
「三年前に強盗未遂事件があったな――麻薬常習者が野蛮人みたいに薬局にとびこんできたんだ」

 ジェリーは、ショックと失望をなんとか顔にだすまいとした。
 それが父親をいちばん興奮させた事件なのだろうか? おもちゃのピストルをふりかざした若者がひきおこした、あわれな強盗未遂が? 人生ってそんなにおもしろくないもので、退屈でありふれたものなんだろうか?

 自分のこれからの人生がそんなものかと思うと耐えられなかった。まあまあの昼と夜が延々とつづいていく。まあまあ――よくも悪くもなく、すばらしくもまずくもなく、興奮もせず、なんてことない人生。
(ロバート・コーミア『チョコレート・ウォー』北澤和彦訳 扶桑社ミステリー)

ところがジェリーの日々はとんでもないことになっていくのだけれど、ここで見ておきたいのは、「賭け」を徹底して避けていくと、「まあまあ」の日々を送ることになるのではないか、ということなのだ。

薬剤師という職業が「賭け」であってはたまらない。
逆に、「賭け」という要素は徹底して避けられなければならない。

けれども、それだけではないはずだ。
日々、人が生きるなかで出会うことがら。それは、人に会い、話をする、ということなのではないだろうか。

多くの場合、わたしたちのコミュニケーションは、とくに意識することもなく、なんとなく始まり、なんとなく終わっていくのかもしれない。
それでも、相手の気持ちを知りたいとき。
表面で語られる言葉の向こうにこめられた相手の真意を読みとろうとするとき。
そうして、それに失敗すれば、何かを失ってしまうようなとき。

さらに、自分の言葉がこの関係をこわすかもしれない、そんな危険をはらみつつ選ばれた言葉。
あるいは、自分の内をさぐって、どうしても理解して欲しい、と願った言葉。
それが、失敗をすり抜けて、思い通りに相手に伝わった。理解して欲しい、と願ったように、相手は理解してくれた。

通じ合えた、という喜び。
相手とその話題をめぐって、ひとつになった、という喜び。
これは、宝くじに当たったのに匹敵するうれしさである。

このことを考えると、深いコミュニケーションを求めていこうと思うと、不可避的に、わたしたちは「賭け」ることになってしまうのだ。

(次回最終回)

「賭け」する人々 その6.

2006-09-13 22:15:03 | 
5.日常の中の「賭け」

『クージョ』のなかに、こんな部分がある。
宝くじを引き当てたチャリティ・キャンパーには、「鳶が鷹を産んだ」ような、大変頭の良い息子がいる。夫は貧しい自動車修理工。チャリティは、なんとかして息子をこんな世界から抜けださせたい。
妹のホリーは、夫のジムがロー・スクールに進学したことで、ホワイト・カラーの仲間入りをした。息子にはできればホリーの夫のように大学に進学してホワイトカラーの一員になってほしい。そう思って、チャリティは宝くじの賞金で、妹の住むコネティカットに行くのだ。

ゆうべ、ホリーはチャリティに、これはいくら、あれはいくらと、ビュイック・フォー・ドアや、ソニーのカラー・テレビや、廊下の寄せ木細工を自慢した。ホリーの心のなかでは、いまだにそれらの品物に眼に見えない正札がついているかのようだった。

 それでもチャリティは妹が好きだった。ホリーは気前がよく、親切で、衝動的で、愛情深く、心優しかった。しかし彼女はその生き方のせいで、自分とチャリティがメイン州の田舎で貧しい少女時代を送ったという冷厳な事実、そのためにチャリティはジョー・キャンパーと結婚せざるをえなかったが、自分のほうはまったくの幸運のおかげで――チャリティが宝くじに当ったのと本質的な違いはなかった――ジムと出会い、貧しい生活と永久におさらばすることができたという事実から、目をそらすことを強いられていた。

生まれつき、人間は決して平等ではない。生まれた国、地域、家柄、財産、家庭環境、こうしたものは、その人間の運命を大きく左右する。

学校では、努力すれば、持っている力を磨き、スキルをあげていけば、輝かしい未来が、そこまでいかなくても、まずまずのポジションが手に入るというけれど、ほんとうにそうなのだろうか。アフリカの紛争地帯に生まれ落ちてしまえば、そこから抜けだすことはおろか、成人するだけで大変な困難を伴う。

人は、生まれたときに配られた手札でゲームをやっていくしかない。
そこからスキルを身につけ、能力を発揮することで、多少条件を好転させることはできても、そこから脱出はできない。

そこで、思いがけない成功の可能性を与えてくれるチャンスが到来するとき、それは「賭け」になる。

モナ・シンプソンの長編小説『ここではないどこかへ』は、そんな「賭け」がでてくる。

文学修士を持っていることだけが唯一の自慢のはた迷惑な母親と暮らす高校生のアンは、なんとか母親から離れて東部の大学に進学したいと思っている。テレビ・ドラマのオーディションがあることを知って、それに応募する。ところがオーディション会場に連れて行ってくれるはずの母親は、ボーイフレンドとデートが入ったおかげで、連れて行ってくれない。アンは途中までヒッチハイク、そのあとは大荷物を抱え、途中の店で目に付いたオレンジ色の花柄の野球帽をかぶって、オーディション会場に直接駆け込むことになる。

 彼らは部屋のがらんとした場所に進むように身ぶりで合図した。あたしは持ってきたバッグを仕方なくみんなカーペットの上に下ろし、そこに立った。彼らは笑っていた。ひとりは煙草を吸っていて、前かがみになって再び煙草に火をつけると言った。「さてと。そのいろんなバッグのなかには何が入っているんだね」

 そのあと何が起こったのかわからない。あたしは無我夢中だった。内股でX脚の恰好で身をかがめると、バッグのなかから所持品を取り出しはじめた。「ドレス、女子用の化粧室はどこかしら。ちょっと顔を洗いたいのよ。別にわたしは威厳がないわけじゃない……威厳ならあるわよ、本物の威厳がね。お金はないかもしれないけれど、気品はあるのよ」あたしは脚と脚を交差させるようにして歩き、それを長いあいだつづけた。…(略)…

 あたしは今までずっと他人の物真似をしてきたけれど、ママの真似をしたのはこれが初めてだった。あたしは再び顔を上げた。両脚が粘土人形の〈ガンビー〉のように感じられた。男たちはふたりともずっと静かに見守っていたが、今彼らは笑っていた。ひとりが拍手をした。あたしは叫び声を出していた。彼らはあたしのことをひどく哀れに思っているに違いないと思った。でも、あたしはちょっと気分が高揚してもいた。自分の人生を変えるぐらい見事なことをなし遂げた可能性もあるとわかっていたのだ。「いいね」と煙草を吸うほうの人が言い、金色のケースを取り出して別の煙草に火をつけた。「ビバリー・ヒルズ高校では朗読も習っているのかい?」そこにいるあいだずっと、あたしはあのオレンジ色の帽子をかぶっていることを忘れていた。
(モナ・シンプソン『ここではないどこかへ』斉藤英治訳 早川書房)


このオーディションの合格は、アンの生活を劇的に変えることはしない。その仕事が始まる前に、ガスと電気が「またしても」止められたりもする。それでも、六週間の撮影が始まって、それをもとにアンは東部の大学に進学する。それから何年も、母親のいるロス・アンジェルスには帰らない。

試験やオーディション、あるいは全国大会などのスポーツの試合は、才能や学力、容姿、運動能力を競うものではある。けれども、そこにかならず運の要素も混ざってくる。
つまり、それも一種の「賭け」なのである。

生きて行く節目で求められる選択、あるいは、より高度な条件を求めるための試験、公募、試合。こうしたことも「賭け」といっていい。

(この項つづく)

「賭け」する人々 その5.

2006-09-12 22:16:43 | 
4.賭けに勝ったらどうなるか

悪魔との賭けはともかく、運を相手の賭け、あるいは人間相手の賭けで、勝ったらどうなるのだろう。
人生はそこから一気に花開くのだろうか?

ところが小説の世界では、あまりそういうことにならないのだ。

 こんなはずはない。きっとなにかの間違いだわ。
 だが間違いはなかった。六回も確かめてみたから、絶対に間違いではなかった。
 結局はだれかの身に起ることだわ。
 もちろん、それはそうだった。だれかの身には。しかし彼女の身にそれが起るとは。
(スティーヴン・キング『クージョ』永井淳訳 新潮文庫)

チャリティ・キャンバーは宝くじを引き当てる。額面五千ドル、そこから税金の八百ドルを引いたものが彼女のものになるのだ。

幸運の女神が彼女に白羽の矢を立てたのだ。これが生まれてはじめてで、たぶんもう二度とないことだろうが、日常性という分厚いモスリンのカーテンがわずかにあいて、外側の光り輝く世界を垣間見せてくれたのだ。彼女は実際的な女で、口にこそ出さないが、自分が夫を少なからず憎み、少なからず恐れているけれども、いずれは二人はともに年をとり、夫が借金と――そしてこれは心のなかでさえ認めたくはなかったが、その恐れは充分にあった――おそらく甘やかされた子供を残して先に死ぬであろうことを知っていた。

 …(略)…、実際に当たった五千ドルの十倍の賞金が当たっていたのなら、彼女はモスリンのカーテンをいっぱいにあけて、息子の手を引っぱりながら、町道三号線と、ジョー・キャンパー自動車修理工場、外車歓迎と、キャッスル・ロックの向こうにある世界へ足を踏みだすことを考えていたかもしれない。断固たる決意のもとにブレットをコネティカットへ連れて行き、ストラトフォードで小さな部屋を借りるのにいくらかかるかと、妹にたずねていたかもしれない。

 だが、現実には、カーテンはわずかに動いただけだった。それでおしまいだった。

そうして、この宝くじに当たったことが、大きな悲劇を引き起こすそもそもの発端となっていく。

では、額面がもう少し大きくなり、一生を変えるぐらいの額が当たったらどうなるか。
それがジョン・ファウルズの『コレクター』である。

 満二十一歳になった週からずっと、ぼくはフットボール賭博をやってきた。毎週、判で押したように五シリングずつ賭けた。税務課の同僚のトム爺さんやクラッチリー、それに何人かの女の子たちは、いつも徒党を組んで大枚を賭け、ぼくは一匹狼の立場を捨てなかった。だいたいトム爺さんやクラッチリーは虫が好かないのだ。…(略)…

 小切手の金額は七万三千九十一ポンド、それに何シリング何ペンスかの端数がついていた。火曜日、フットボール賭博の係員がこの額を確認してくれるやいなや、ぼくはウィリアムズさんに電話をかけた。ウィリアムズさんはぼくがそんなふうに辞めてしまうことに腹を立てていたようだ。むろん口ではそりゃよかった、みんなも喜ぶだろうと言ったが、喜ぶはずはありゃしないのだ。ウィリアムズさんはよかったら五%の公債を買わないかとすすめてくれた! 市役所なんかに勤めていると、まとまった金の値打ちというものが分からなくなるらしい。
(ジョン・ファウルズ『コレクター』小笠原豊樹訳 白水Uブックス)

「ぼく」には市役所に勤めている頃から、心引かれる娘がいた。市役所の真向かいにその娘の家がある。ロンドンの寄宿学校に通っているために、見ることができるのは、彼女が帰省したときだけ。だから、償金を手に入れて仕事を辞めれば、彼女のことも忘れるだろうと思っていたのだ。

 ぼくの本心としては(すでにロンドンで一番上等な七つ道具を買ってあった)、どこか田舎へ出かけて、珍しい種類や、変種の蝶を採集し、立派な標本を作りたかった。つまり好きな場所に好きなだけ滞在して、毎日外へ出て、採集したり、写真を撮ったりしたい。伯母たちが発つ前に、ぼくは運転免許をとり、特製の自動車を手に入れた。ぼくが欲しい種類はたくさんある――たとえばキアゲハ、クロシジミ、ムラサキシタバ、それにギンボシヒョウモンとかウラギンヒョウモンとかヒョウモン族の珍種。たいていのコレクターが生涯に一度ぶつかるかどうかという種類だ。蛾にも欲しいのがある。できれば蛾も集めたいと思う。

 ぼくが言いたいのは、つまり、彼女をお客に呼ぶという考えが湧いたのは全く突然のことであって、金が手に入ったときから計画したことではないという点だ。

ところが結局「ぼく」は売りに出ていた家を見に行き、そこから「秘密の客」を閉じこめておく、という考えが抜きがたいものになってしまう。

もちろん、みんながみんな「賭け金」を受け取るわけではない。
チェーホフの短編『賭け』では、勝つことがほぼ確実になりかけた人物が意外な行動をとる。

老年の銀行家は、終身禁固と死刑とどちらが人道的か、という議論から、若い法学者と賭けをすることになる。

「そりゃ死刑も、終身禁固も、非道徳的である点には変りはありませんけど、かりに死刑か終身禁固か、どちらか一方を選べと言われたら、僕はもちろん後者を選ぶでしょうね。全然生きていられないのよりは、何とか生きている方が、まだましですもの。」

 活溌な論議がもちあがった。当時はまだ若く、今よりも神経質だった銀行家は、ふいに冷静を失い、こぶしでテーブルを叩くなり、青年法学者に向かって叫んだ。
「そりゃ、まちがってますよ! 僕は二百万ルーブルかけてもいいが、あなたなんか、五年も独房に坐っていられるもんですか。」

「もし本気でおっしゃっているんでしたら、」法学者はこたえた。「かけましょうか、僕は五年といわず、十五年だって、こもり通してみせますよ」

「十五年ですって? おもしろい!」銀行家は叫んだ。「みなさん、僕は二百万ルーブルかけましょう!」

「承知しました! あなたは金をかけ、僕は自分の自由をかけましょう!」
アントン・チェーホフ「賭け」『チェーホフ全集4』所収 原卓也訳 ちくま文庫)

幽閉生活のなか、法学者は苦しみ、語学やさまざまな勉強をし、あるいは福音書を読みふけり、さまざまな本を読んで過ごす。
いっぽう銀行家は往年の莫大な財産をもはや有してはいない。明日の十二時、賭けの終了を目前にして、賭け金を払えば破産はまちがいないところまできている。

銀行家は、自分を救うために、法学者を殺そうと思い、幽閉されている場所に入っていく。
そこには、見る影もなく老いてしまった法学者の寝姿と、書き置き。

あなたがたが生きるための拠りどころとしているものに対する、わたしの軽蔑を実地に示すために、わたしは、かつては楽園のようにあこがれ、今や心からさげすんでいる二百万ルーブルの金を拒否する者です。この金に対する権利を放棄するため、わたしは約束の期限の五時間前にここを立ち去ります。それにより、わたしはこの取り決めを破棄するのです…

これらからあきらかになることは、賭けに勝つことは、幸福を意味しない、ということだ。
『クージョ』の場合は、チャリティがくじで五千ドル、当たらなければ、悲劇は起こらなかったかもしれない。けれどもキャンパー家は、別の形で何らかの災厄が起こっていた可能性は極めて高かったにちがいない。

『コレクター』の「ぼく」は、フットボール賭博で当たらなければ、家を購入して、そこにミランダを監禁することはなかったかもしれない。けれども、「ぼく」の執着が、何らかの出来事を引き起こしたであろうことは、想像に難くない。

つまり、実際に手に入れようが、入れまいが、それまでその人物が生きてきた日々の未来に与えるにくらべれば、些細なことなのである。ちょうど、法学者の十五年の日々にくらべれば、二百万ルーブルなどなんでもないように。

賭けで勝てば、もちろんその影響は受ける。その額に応じて、影響もちがうだろう。けれど、それは、その人がそれまで生きてきた日々の反映なのである。

(この項つづく)

「賭け」する人々 その4.

2006-09-11 22:47:32 | 
3.悪魔と賭ける

ロアルド・ダールの『味』と『南から来た男』、このふたつの作品は、ともに賭けが作品の中心を占めるものである。

ただ、細かい点がいくつか異なっている。

『味』では、美食家と株式仲買人は旧知の間柄であるのに対して、『南から来た男』では、老人は得体が知れない。若くてうぶなアメリカ人の青年の存在が、その得体の知れなさをいっそう強調してもいる。

『味』での掛け物は、株式仲買人の娘である。美食家は、仲買人の娘を以前からねらっていたわけだ。
『南から来た男』では、青年の指。なぜ指なのだろう。「娘」や「車」や「家」なら理解もできるが、「指」を希望するというのが、ひどく気持ちが悪い。

ここから、『南から…』の老人は、昔話に出てくる「悪魔」や「魔女」のヴァリエーションであると考えることができる。

グリム童話などでは、実際に悪魔や魔女と賭けをするものもあるが、悪魔から「取引」を持ちかけられた主人公が、その取引を呑むことによって、自分の人生を「賭け」る、というパターンも少なくない。
そのパターンは、『ファウスト』を初めとして今日に至るまで、いくつもの作品で描かれている。

たとえばW.W.ジェイコブズの『猿の手』という短編、これは非常に有名なので、あらすじだけでも知っている人は多いだろう。

老夫婦と息子のところへ、客が来る。客はみっつの願い事がかなう、という「猿の手」を持っているのだが、こんなものは良くない、と暖炉にくべてしまおうとする。
老人は、無理を言って譲り受ける。
そうして、半ば冗談半分に、「猿の手」に二百ポンドを願う。
なんと翌日、ひとり息子は機械にはさまれて死んでしまう。弔問金として、二百ポンドが払われるのだ。
つぎに、老人は、息子に生き返ってほしい、という願い事をする。
そうして最後のひとつは……。

という話。
『猿の手』では老夫婦は一方的に翻弄されるだけなのだが、なんとか出し抜こうとするパターンもある。

プーシキンの『スペードの女王』は、賭けトランプを題材にした短編小説である。

近衛兵ゲルマンは、一同がトランプに興じていても、見ているだけ。
賭けをしている同僚のトムスキイは八十歳になる自分の祖母の伯爵夫人の話を始める。祖母は若い頃、錬金術師でもあったサン・ジェルマンに絶対に勝つトランプの手を教えてもらう。そうして、破産しかかった自らを救い、巨万の富を得たのだけれど、以降トランプに手を出そうともしない。

ゲルマンは伯爵夫人の秘密の数字を聞き出そうと屋敷に忍びこみ、ピストルで脅す。
怯えた郎伯爵夫人は、そのまま死んでしまう。

何食わぬ顔をして葬儀に出たあと、家に帰って眠りこんだゲルマンの夢のなかに伯爵夫人の霊が出てくる。

「今夜来たのは私の本意ではありません」と夫人は力のこもった声で言った。「おまえの望みをかなえてやれとの仰せです。『三(トロイカ)』、『七(セミヨルカ)』、『一(トウズ)』――この順で張れば勝ちです。ただひと夜さに一枚だけしか張ってはなりません。また勝った上は死ぬまで、二度とふたたび骨牌を手にしてはなりません。…(略)」
言い終わると夫人は静かに身を返して、扉から姿を消した。

ゲルマンは、全財産をつぎ込んで、賭けをする。
「三」が出る。「七」が出る。そうして最後は……。

悪魔に賭けを持ちかけられても、それに乗ってはいけない。
悪魔を出し抜くことは、できない。結局は賭け物、つまり、自分の命を持っていかれてしまうことになる。

(この項つづく)

「賭け」する人々 その3.

2006-09-10 22:22:24 | 
2.人と賭ける

ロアルド・ダールの短編集『あなたに似た人』のなかに、『味』という短編がある。
『南から来た男』と同様、この短編も「賭け」を題材にしている。

賭けをするのは、食事会を主催する株式仲買人の男と、そこに招かれた美食家。ワインの産地と熟成年を当てるのである。

実はこのふたり、それ以前にも食事会のたびごとに賭けていた。
株式仲買人のほうは、文化人として、教養を身につけたいと願っている。そうして、ワインの知識は、自分が苦労して得た「教養」を披露する場なのである。
ワインを美食家に当てさせる。
そうすることによって、自分の出したワインが、識別されるに足るほどのものだと証明したい。
いっぽう、美食家の側は、自分の知識と蘊蓄を披露する場を求めている。

ふたりの欲望は見事にかみ合い、株式仲買人はいつもよろこんで負け、ワイン一箱を美食家に進呈していた。

ところがある日、株式仲買人のほうは、ちょっとやそっとでは当てられそうもないワインを手に入れる。
それを美食家との賭けに使ったのである。

美食家リチャード・プラットは、いつもとちがう賭け物を要求する。
ワイン一箱ではなく、株式仲買人マイク・スコフィールドの娘を。
そうして、自分の側からは、別荘二軒を賭け物として差し出す。

ここからふたりの心理戦が始まる。

「きみには絶対わからないよ、百年たってもね」とマイク。
「クラレットだね?」リチャード・プラットが、わざとらしくひかえ目にたずねた。
「もちろんさ」
「それじゃ、まあ、比較的ちいさな葡萄園のやつだろうな」
「そうね、リチャード、だけど、そうじゃないかもしれない」
「上作の年かね、それとも最上作の年?」
「ああ、それは保証するよ」
「そうだとなると、たいして難しくはないな」とリチャード・プラットは、いかにも退屈そうに、ものうげにつぶやいた。
(ロアルド・ダール「味」『あなたに似た人』所収 田村隆一訳 ハヤカワ文庫)

ここで明らかになるのは、人と人の賭けの場合は、競争の要素が強くなってくることだ。
ワインのテイスティングをめぐるマイク・スコフィールドとリチャード・プラットのやりとりも、『吾輩は猫である』で碁盤をはさんだ迷亭と独仙のやりとりと、さほどちがわない。

「迷亭君、君の碁は乱暴だよ。そんな所へ這入ってくる法はない」
「禅坊主の碁にはこんな法はないかも知れないが、本因坊の流儀じゃ、あるんだから仕方がないさ」
「しかし死ぬばかりだぜ」
「臣死をだも辞せず、いわんやてい肩をやと、一つ、こう行くかな」
「そうおいでになったと、よろしい。薫風南(みんなみ)より来って、殿閣微涼(びりょう)を生ず。こう、ついでおけば大丈夫なものだ」

相手が何を考えているかを読む。そうして、相手の裏をかくために、自分の真意を悟られないような言葉を口にする。
ここでは「賭け」は、競争と何ら変わるものではない。
碁でも、ワインのティスティングでも、もちろん運の要素はある。
けれども、賭けに臨む人々がそれ以上に頼りにするのは、自分の能力である。

運を試す賭けに勝つということは、自分がついている、神や運命が自分に味方してくれる、ということだ。
それに対して、人との「賭け」に勝つということは、自分の読み、判断、技能に対する「報い」が得られるということなのだ。

人と人との「賭け」は、必ずしも「ひとつ、賭けるとしようか」とばかり始まるわけではない。すべてが終わって、ふりかえって初めて、「あれは一種の賭けだったのだ」と気がつくこともある。

菊池寛の短編に『入れ札』という短編小説がある(戯曲も)。

代官を殺して逃亡中の国定忠治と子分たちは、少人数に分かれて逃げ落ちることになる。
苦難をともにした子分たちを、忠治は選ぶことができない。
そこで、入れ札(投票)によって、忠治と行動するにふさわしい子分を三人選ぶことになる。

九郎助は年長で、年齢的には第一の子分でなければならない。けれども過去の失策のために、地位がさがってしまっている。

 入れ札と云う声を聴いたとき、九郎助は悪いことになったなあと思った。今まで、表面だけはともかくも保って来た自分の位置が、露骨に崩されるのだと思うと、彼は厭な気がした。十一人居る乾児の中で自分に入れてくれそうな人間を考えて見た。が、それは弥助の他には思い当たらなかった。
(菊池寛『入れ札』『藤十郎の恋・恩讐の彼方に』所収 新潮文庫)


そこで、九郎助は自分に入れる。
ところが、九郎助には、自分が入れた一票しか入らなかった。九郎助は選に漏れたのである。

仲間から離れてひとり落ちる九郎助のあとを、弥助がついてくる。

「俺あ、今日の入れ札には、最初(はな)から厭だった。親分も親分だ! 餓鬼の時から一緒に育ったお前を連れて行くと云わねえ法はねえ。浅や喜蔵は、いくら腕節や、才覚があっても、云わば、お前に比べればホンの小僧っ子だ。たとい、入れ札にするにしたところが、野郎達が、お前を入れねえと云うことはありゃしねえ。十一人の中(うち)でお前の名をかいたのは、この弥助一人だと思うと、俺ああいつ等の心根が、全くわからねえや」
…(略)…
 柄を握りしめている九郎助の手が、だんだん緩んで来た。考えて見ると、弥助の嘘を咎めるのには、自分の恥ずかしさを打ちあけねばならない。
 その上、自分に大嘘を吐いている弥助でさえ、自分があんな卑しい事をしたのだとは、夢にも思っていなければこそ、こんな白々しい嘘を吐くのだと思うと、九郎助は自分で自分が情けなくなって来た。口先だけの嘘を平気で云う弥助でさえ考え付かないほど、自分は卑しいのだと思うと、頭の上に輝いている晩春のお天道様が、一時に暗くなるような味気なさを味わった。

この「入れ札」は、九郎助にとって、自分と、ほかの子分の間での、進退を「賭け」たものだったのだ。
「賭け」は、駆け引きを含む。けれども、それにはそのなかでの「フェアプレー」が要求される。
現実の世界ではさておいて、物語のなかでは、フェアプレーを違反する者は、かならずその報いを受ける。ロアルド・ダールの『味』においても、菊池寛の『入れ札』においても。

(この項つづく)