陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

失敗したら

2006-09-22 22:47:58 | weblog
これまでいくつも失敗をしてきた。パン屋のバイトに行って、流しで油を切っている巨大なツナ缶を、ひじではたいて流しにぶちまけてしまったこともあるし、塾で教えている中学生の女の子を泣かしたこともある。

このときは、完全にこちらに背を向けて、後ろの席の子とおしゃべりしているその子に、彼女ができないことがわかっている問題をわざと当てて、必要以上に時間をかけて、いちいちその間違いを指摘して、立たせている彼女を念入りに辱めたのだった。
このときのことを思い出すと、いまでも顔が赤らむような思いだ。

実は、前からその子の態度には頭に来ていたのだ。
まず、先生によって態度がまるっきりちがう。男の先生(男子学生バイト)に対しては、鼻声を出し、横にすり寄っていって、見苦しいほどベタベタまとわりつく。一方、わたしに対しては声もちがう、それこそ虫けらを見るような目でちらりと一瞥すると、授業のあいだじゅう、ずっとくっちゃべっているのだ。もちろん何度となく注意もしたし、上とも相談し、主幹から話もしてもらったし、家にも連絡した。

ああ、あれからずいぶん時間は経っているけれど、それでもこんなふうに言い訳せずにはいられない。
わたしはその子がキライだったのだ。キライだったから、自分の権力を利用して、あるいは、知識を笠に着て、その子を念入りに虐めたのだった。しかも、自分がそのとき楽しんでいたことさえ覚えている。

その日の授業が終わってしばらくは、まだいい気分だったのだ。やがて、夜中になって、自分が明らかに一線を越えていたこと、とんでもないことをしてしまったことに気がついた。ほかの子供たちのびっくりしたような顔と当惑を、あらためて思い出す。だれの目にも明らかなほど、やはりそれは異常なことだった。いっそ、怒鳴ったってよかったのだ。これまで何度注意した? そんなに聞きたくないのなら、出て行きなさい、と、教室から追い出しても良かった。そうする代わりに、わたしは相手のダメージを測りながら、的確に言葉を選んでいったのだ。六つも年下、たかだか十四歳の子供を相手に。

つぎの授業でわたしはその子に謝った。そういうことはすべきではなかった、と。
謝ったことで、彼女がいい気になって、態度をますます悪化させる場合も予想できた。それでもわたしは自分のやったことがなにより恥ずかしかったし、恥ずかしい気持ちは謝る以外に持って行き場がなかったからだ、
それでも、心のどこかで、自分にそうさせたのは、彼女の態度だ、とも思っていた。

そのあと、その子の授業態度が良くなった、とまでは言えないまでも、とりあえず前を向いて座っているようにはなった。それよりあと、成績が上がったような記憶はないので、おそらくそうした面で、目立った変化はなかったのだと思う。

それからこちら、教える場面でも、それ以外の日常的なつきあいの場面でも、あとになって言わなければ良かったと思うようなことも何度となく言ったし、してはならないようなことも幾度もしてきた。ずいぶん忘れてしまったから平気でいられるようなもので、失敗をあげていけばキリがないのだろう。

わたしはずっと「善い」人間になりたい、と、どこかで思っていた。
自分の欠点を克服し、すこしでも「善い」人間、いまの自分よりマシな自分になりたいと思っていた。
何かに迷ったら、できるだけ、自分が「どうしたいか」ではなく、「どうすべきか」を考えるのだ。
失敗から学ぶのだ、と、いつも自分に言い聞かせてきた。

それでもやはり、失敗は繰りかえす。

そうして気がついたのは、たとえ失敗したとしても、これが「最後の失敗ではない」ということだった。これからだって何度でもわたしは失敗を繰りかえすのだ。何百回も繰りかえすのだ。

そう思ったら、「今回」の失敗で落ちこむことなど、馬鹿らしくなってくる。
自分の愚かさがいささか悲しくはなってくるけれど。

そうして次第に自分がどれほどのものか、気がついてくる。所詮、これくらいの人間なのだ。「善い人間」などと現実的でないことを夢見ても、自分で自分の首を絞めるだけだ。
まだまだ先は長い。これから先、重ねる失敗も、山のように待ち受けている。そのたびごとに落ちこんでいてもどうしようもない。なんてバカなんだ、なんてダメな人間なんだ、と思っていては、その失敗を取りもどすこともできない。

失敗して一番厄介なのは、「恥ずかしい」という感情だ。
これに向き合いたくないがために、穴に頭を突っ込むことにして、落ちこんでしまう。
落ちこめば、この恥ずかしさに向き合わなくてすむからだ。

けれど、失敗をきちんと認めなくては、その失敗に付随して起こる困難な事態に対処できない。恥ずかしさと向き合い、折り合いをつけ、そうして、つぎの行動を起こさなくてはならないのだ。

恥ずかしい、と思う。自分がこう見られたい、と思っていたのに、もうそうは見てもらえない。相手の目がまっすぐに見られない。
だが、それは、自分にはどうすることもできないのだ。失敗して、迷惑をかけた相手には、謝って、あとは相手に任すしかない。許してくれるか、許してもらえないか、それは相手が決めること。自分に手出しはできないのだ。

おそらくこれからも、何度も謝らなくてはならない羽目に陥るだろう。
許してもらえたり、もらえなかったりするんだろう。
それでも、そうしなければわからないことはきっとあるはず。

失敗なんて、よくあることなのだ。
ああ、またやっちまった。
天を見上げて、関係者一同に謝って、事態の収拾をつけたら、忘れてしまおう。
これが最後の失敗じゃない。それだけは確かだから。