陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「賭け」する人々 その4.

2006-09-11 22:47:32 | 
3.悪魔と賭ける

ロアルド・ダールの『味』と『南から来た男』、このふたつの作品は、ともに賭けが作品の中心を占めるものである。

ただ、細かい点がいくつか異なっている。

『味』では、美食家と株式仲買人は旧知の間柄であるのに対して、『南から来た男』では、老人は得体が知れない。若くてうぶなアメリカ人の青年の存在が、その得体の知れなさをいっそう強調してもいる。

『味』での掛け物は、株式仲買人の娘である。美食家は、仲買人の娘を以前からねらっていたわけだ。
『南から来た男』では、青年の指。なぜ指なのだろう。「娘」や「車」や「家」なら理解もできるが、「指」を希望するというのが、ひどく気持ちが悪い。

ここから、『南から…』の老人は、昔話に出てくる「悪魔」や「魔女」のヴァリエーションであると考えることができる。

グリム童話などでは、実際に悪魔や魔女と賭けをするものもあるが、悪魔から「取引」を持ちかけられた主人公が、その取引を呑むことによって、自分の人生を「賭け」る、というパターンも少なくない。
そのパターンは、『ファウスト』を初めとして今日に至るまで、いくつもの作品で描かれている。

たとえばW.W.ジェイコブズの『猿の手』という短編、これは非常に有名なので、あらすじだけでも知っている人は多いだろう。

老夫婦と息子のところへ、客が来る。客はみっつの願い事がかなう、という「猿の手」を持っているのだが、こんなものは良くない、と暖炉にくべてしまおうとする。
老人は、無理を言って譲り受ける。
そうして、半ば冗談半分に、「猿の手」に二百ポンドを願う。
なんと翌日、ひとり息子は機械にはさまれて死んでしまう。弔問金として、二百ポンドが払われるのだ。
つぎに、老人は、息子に生き返ってほしい、という願い事をする。
そうして最後のひとつは……。

という話。
『猿の手』では老夫婦は一方的に翻弄されるだけなのだが、なんとか出し抜こうとするパターンもある。

プーシキンの『スペードの女王』は、賭けトランプを題材にした短編小説である。

近衛兵ゲルマンは、一同がトランプに興じていても、見ているだけ。
賭けをしている同僚のトムスキイは八十歳になる自分の祖母の伯爵夫人の話を始める。祖母は若い頃、錬金術師でもあったサン・ジェルマンに絶対に勝つトランプの手を教えてもらう。そうして、破産しかかった自らを救い、巨万の富を得たのだけれど、以降トランプに手を出そうともしない。

ゲルマンは伯爵夫人の秘密の数字を聞き出そうと屋敷に忍びこみ、ピストルで脅す。
怯えた郎伯爵夫人は、そのまま死んでしまう。

何食わぬ顔をして葬儀に出たあと、家に帰って眠りこんだゲルマンの夢のなかに伯爵夫人の霊が出てくる。

「今夜来たのは私の本意ではありません」と夫人は力のこもった声で言った。「おまえの望みをかなえてやれとの仰せです。『三(トロイカ)』、『七(セミヨルカ)』、『一(トウズ)』――この順で張れば勝ちです。ただひと夜さに一枚だけしか張ってはなりません。また勝った上は死ぬまで、二度とふたたび骨牌を手にしてはなりません。…(略)」
言い終わると夫人は静かに身を返して、扉から姿を消した。

ゲルマンは、全財産をつぎ込んで、賭けをする。
「三」が出る。「七」が出る。そうして最後は……。

悪魔に賭けを持ちかけられても、それに乗ってはいけない。
悪魔を出し抜くことは、できない。結局は賭け物、つまり、自分の命を持っていかれてしまうことになる。

(この項つづく)