陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「賭け」する人々 その6.

2006-09-13 22:15:03 | 
5.日常の中の「賭け」

『クージョ』のなかに、こんな部分がある。
宝くじを引き当てたチャリティ・キャンパーには、「鳶が鷹を産んだ」ような、大変頭の良い息子がいる。夫は貧しい自動車修理工。チャリティは、なんとかして息子をこんな世界から抜けださせたい。
妹のホリーは、夫のジムがロー・スクールに進学したことで、ホワイト・カラーの仲間入りをした。息子にはできればホリーの夫のように大学に進学してホワイトカラーの一員になってほしい。そう思って、チャリティは宝くじの賞金で、妹の住むコネティカットに行くのだ。

ゆうべ、ホリーはチャリティに、これはいくら、あれはいくらと、ビュイック・フォー・ドアや、ソニーのカラー・テレビや、廊下の寄せ木細工を自慢した。ホリーの心のなかでは、いまだにそれらの品物に眼に見えない正札がついているかのようだった。

 それでもチャリティは妹が好きだった。ホリーは気前がよく、親切で、衝動的で、愛情深く、心優しかった。しかし彼女はその生き方のせいで、自分とチャリティがメイン州の田舎で貧しい少女時代を送ったという冷厳な事実、そのためにチャリティはジョー・キャンパーと結婚せざるをえなかったが、自分のほうはまったくの幸運のおかげで――チャリティが宝くじに当ったのと本質的な違いはなかった――ジムと出会い、貧しい生活と永久におさらばすることができたという事実から、目をそらすことを強いられていた。

生まれつき、人間は決して平等ではない。生まれた国、地域、家柄、財産、家庭環境、こうしたものは、その人間の運命を大きく左右する。

学校では、努力すれば、持っている力を磨き、スキルをあげていけば、輝かしい未来が、そこまでいかなくても、まずまずのポジションが手に入るというけれど、ほんとうにそうなのだろうか。アフリカの紛争地帯に生まれ落ちてしまえば、そこから抜けだすことはおろか、成人するだけで大変な困難を伴う。

人は、生まれたときに配られた手札でゲームをやっていくしかない。
そこからスキルを身につけ、能力を発揮することで、多少条件を好転させることはできても、そこから脱出はできない。

そこで、思いがけない成功の可能性を与えてくれるチャンスが到来するとき、それは「賭け」になる。

モナ・シンプソンの長編小説『ここではないどこかへ』は、そんな「賭け」がでてくる。

文学修士を持っていることだけが唯一の自慢のはた迷惑な母親と暮らす高校生のアンは、なんとか母親から離れて東部の大学に進学したいと思っている。テレビ・ドラマのオーディションがあることを知って、それに応募する。ところがオーディション会場に連れて行ってくれるはずの母親は、ボーイフレンドとデートが入ったおかげで、連れて行ってくれない。アンは途中までヒッチハイク、そのあとは大荷物を抱え、途中の店で目に付いたオレンジ色の花柄の野球帽をかぶって、オーディション会場に直接駆け込むことになる。

 彼らは部屋のがらんとした場所に進むように身ぶりで合図した。あたしは持ってきたバッグを仕方なくみんなカーペットの上に下ろし、そこに立った。彼らは笑っていた。ひとりは煙草を吸っていて、前かがみになって再び煙草に火をつけると言った。「さてと。そのいろんなバッグのなかには何が入っているんだね」

 そのあと何が起こったのかわからない。あたしは無我夢中だった。内股でX脚の恰好で身をかがめると、バッグのなかから所持品を取り出しはじめた。「ドレス、女子用の化粧室はどこかしら。ちょっと顔を洗いたいのよ。別にわたしは威厳がないわけじゃない……威厳ならあるわよ、本物の威厳がね。お金はないかもしれないけれど、気品はあるのよ」あたしは脚と脚を交差させるようにして歩き、それを長いあいだつづけた。…(略)…

 あたしは今までずっと他人の物真似をしてきたけれど、ママの真似をしたのはこれが初めてだった。あたしは再び顔を上げた。両脚が粘土人形の〈ガンビー〉のように感じられた。男たちはふたりともずっと静かに見守っていたが、今彼らは笑っていた。ひとりが拍手をした。あたしは叫び声を出していた。彼らはあたしのことをひどく哀れに思っているに違いないと思った。でも、あたしはちょっと気分が高揚してもいた。自分の人生を変えるぐらい見事なことをなし遂げた可能性もあるとわかっていたのだ。「いいね」と煙草を吸うほうの人が言い、金色のケースを取り出して別の煙草に火をつけた。「ビバリー・ヒルズ高校では朗読も習っているのかい?」そこにいるあいだずっと、あたしはあのオレンジ色の帽子をかぶっていることを忘れていた。
(モナ・シンプソン『ここではないどこかへ』斉藤英治訳 早川書房)


このオーディションの合格は、アンの生活を劇的に変えることはしない。その仕事が始まる前に、ガスと電気が「またしても」止められたりもする。それでも、六週間の撮影が始まって、それをもとにアンは東部の大学に進学する。それから何年も、母親のいるロス・アンジェルスには帰らない。

試験やオーディション、あるいは全国大会などのスポーツの試合は、才能や学力、容姿、運動能力を競うものではある。けれども、そこにかならず運の要素も混ざってくる。
つまり、それも一種の「賭け」なのである。

生きて行く節目で求められる選択、あるいは、より高度な条件を求めるための試験、公募、試合。こうしたことも「賭け」といっていい。

(この項つづく)


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