陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「賭け」する人々 その1.

2006-09-08 22:11:27 | 
「賭け」する人々 その1.

先日このブログでロアルド・ダールの「南から来た男」を訳したのだけれど、そのときに、賭けを持ちかける男は、いったいなんでそんなことをしたのだろう、そうして、アメリカ人青年は、なぜそんな賭けに乗ったのだろう、と気になった。

邦訳された『あなたに似た人』(ハヤカワ文庫)のあとがきに、戦後日本に英米推理小説を紹介し、自らもいくつも推理小説を書いた都築道夫のこんなことばが紹介されている。

ダールはおおざっぱに言って、ふたつのテーマしかあつかわない。賭博に打ちこむ人間たちの心の恐ろしさ。それと人間の想像力の恐ろしさ。

「賭け」をする人間は怖ろしいのだろうか。
それとも、安全な領域もあって、どこかにある「分水嶺」のようなものを越えてしまい、「怖ろしい」領域に入ってしまうのだろうか。

怖ろしい「賭け」というと、思い出すのがずいぶん前に訳したシャーリー・ジャクスンの「くじ」だ。

あれは村中総出でくじ引きをする、という話だった。
村の集会場で、ひとりずつくじをひく。それは一種の賭けと言えるだろう。賭けに負けるのは、たったひとり。負ける人間を選び出すためのくじなのだ。

なぜそんなことが行われるのだろう。だれがそんな賭けを考え出したのだろう。

わたしは競馬も競輪も、麻雀もパチンコもしない。だから「賭け」とは無関係。

ちょっと待って。
ほんとうにそうだと言えるんだろうか。
たとえギャンブルをしない人でも、たとえばつぎの交差点の信号を青のうちに渡れるか、渡れたら~しよう、といったように、自分自身の胸の内で、ひそかに賭けをすることもあるのではないか。

あるいは、TVのクイズ番組。
問題が出され、賞金をねらって、回答者が答える。
あれは一種の賭けではないのだろうか。
なぜ、TVではクイズ番組が放映されるのだろう。
見ず知らずの人なのに、賞金の額があがっていくたびに、つい、ドキドキしてしまうのはなぜなのだろう。

好きな人ができる。
いまのままでもいいけれど、もうちょっと距離を縮めたい。
話も合うし、向こうも自分のことがそんなにキライじゃないはずだ。
思い切って告白してみようか。いや、それよりも、いまのままで十分いい関係なのだから、このままもう少し様子を見ようか。
こういうとき、「告白する」にしても「様子を見る」にしても、一種の「賭け」とはいえないだろうか。

あるいは、入学試験。
あるいは、会社選び。
あるいは、結婚。

生きて行こうと思えば、つねに選択はついてまわる。
そういうとき、わたしたちは一種の「賭け」をしているのではないのだろうか。
それとも、そういうことと「賭け」は、異なるものなのだろうか。

ギャンブル以外にも、ごく身近に「賭け」はあふれている。
なんでわたしたちはいろんなことを「賭け」てしまうんだろう。
さまざまな小説に描かれた「賭け」を通して、そのことを考えてみたい。

しばらくおつきあいください。

(この項つづく)