陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

裸の王様

2006-09-19 22:25:36 | weblog
先日美容院に行ったところ、ケープを着せかけてくれたり、髪を梳かしてくれたりする美容師の女性が、ローライズのジーンズをはいていた。まぁローライズのジーンズなんてきょうびめずらしくもないのだけれど、彼女が着ていたシャツのほうも相当に短くて、つまりは腰骨がすっかり出ていたのだった。その腰骨から下腹部がすわっているわたしの目の前を行ったり来たりする。向こうを向いて腰を屈めたりすると、背中はもちろん、腰というか、ほとんどお尻のほうまで見えてしまう。かなり肉付きのいいお姉ちゃんだったので、実に肉感的というかなんというか、日常的な空間で見るべきではないものを見たような気分になってしまった。

ファッションに疎いなんてもんじゃないわたしだから、こういう感想を持ってしまったのかもしれないのだけれど、それにしても、なんだかな、である。

ちょっと前から、前傾姿勢になって自転車で信号待ちをしている女の子の背中が出て、パンツ(これはズボンの意)の上から、下着が見えていることは珍しくなかったのだけれど、そのたびに、これは「ファッション」である、つまり、「ファッション」という記号で解読するものであって、「身体」という記号から読解するものではない、という、あらかじめの約束事があるのだろう、と思ったのだった。

わたしたちは「シンボル」としての世界を生きている。
その昔「デンエン」と陰で呼ばれていた人がいたのだけれど(というか、わたしがこっそりそう呼んでいたんですが)、この人は二言目には「田園調布だと…」「田園調布では…」と言うのだった。別に自分の家に遊びに来てほしくて、ことあるごとに住所を教えていたわけではもちろんない。自分は高級住宅地に住んでいる高級な人間なのである、ということを言いたかったわけだ。つまり「田園調布」は「シンボル」もしくは「記号」なのである。

食べる物にしてもそうだし、もちろんつぎつぎにデザインが移り変わり、種々のブランド名が大きな意味を持つ服などは、まさにシンボルそのものだろう。
なんですり切れも、ほころびてもいない服を、シーズンごとにつぎつぎに買い続けなければならないのか。流行に合わせてつぎつぎに服を買っていく人は(ここで「わたしたちは」と書かないのは、わたしはそんなことをしないからだ。ところが、本来なら流行に左右されないはずのトラッドまで、最近は丈といい襟といい、シーズンごとに変わってしまって、まったく困ったものだ。まぁ歩く「年代記」として、そんなものは一切気にせず着続けている「地球に優しい」わたしなのである)、「服」ではなく、あくまでも「記号」を買っているのである。

おそらくそのお尻の一部がのぞくようなローライズのジーンズをはいている女の子は、自分の身体を見せようと思ってそういう格好をしているのではなく、それが「かわいい」から、「おしゃれ」だから、はいているのだろう。
わたしにはそれが「かわいい」とも「おしゃれ」だとも思えないのだけれど、それは彼女たちが属する社会のローカル・ルールでは、十分に「かわいく」「おしゃれ」なのだろうと思う。だから、たとえお尻の一部がのぞいていても「恥ずかしい」とは思わず、むしろそういう見方をする人間の方が、ルールを解さない「未開人」もしくは「いやらしい人」ということになってしまうのだ。

明文化されているわけでもない恥の意識が、時代や社会的な感覚に応じてどんどん変わっていくというのは、別に不思議なことでもなんでもない。
あるいは、特殊な社会の特殊なルールが、社会全体のルールと一致しないことも、それほどめずらしいことではない。

けれども、たとえばアウトローのグループを形成する人々は、自分たちのローカル・ルールが社会全体のルールには相容れないものであることは、わきまえていたのだと思うし、そのほかにも「校則」などのように、「学校のなかだけでの決まりごと」というように理解をしていたと思う。

ところがいまは社会全体を貫く確固たるルールがやはり曖昧になってきた、ということなのだろうか。あるいは、社会全体で共有できるような恥の感覚が揺らいできた、ということなのだろうか。
「そういう格好をしてあなたは恥ずかしくないかもしれないけれど、見ているわたしが恥ずかしい」という場面に出くわしてしまうのである。

記号というのは、すぐに古くなり、たとえば道路標識のように、見慣れて決まり決まったものとなってしまうために、生き生きとしたものでありつづけるためには、不断に新しくなり続けなければならない、という側面がある(車がモデルチェンジし続けるのもそのためだ)。
だからファッションもつぎつぎに新しいものが生まれ、「これがカワイイ」「これがオシャレ」そうして、「これが欲しい!」という情報が発信され続ける。そうして人はその欲望を模倣していくのだ。

自分が「カワイイ」と思っているつもりでも、実はそう思わされているのだ、ということは、最低限、知っておいたほうがいい。
ふと気がつくと、自分だって「裸の王様」をさせられているのかもしれない。